第二十九章 つかえるべき主君

 青い瞳が炎のごとく燃える。見据えられて皇帝は、わずかにたじろいだ。背でかばうように立ち、ジャハーンダールがきな臭い笑みを浮かべた。


「これはこれは、クリス王子。ゆくえがわからなくなり、身を案じているところでありました。よくぞ、ご無事で」


「わたしは皇帝陛下と話がしたい」


 言葉を切断するようにマリアにジャハーンダールが冷や汗を浮かべ、目をわずかにそらした。あきらかに動揺している彼に強く、言葉を投げつけた。


「皇帝陛下、よろしいですか」


 と皇帝が動けば、豪華な宝石がついた金や銀の首飾りがこすれて音を立てた。


「ベスビアナイト国の王子、ご無事で何より。それで、わたしに何か用だろうか」


 威厳をとりつくろい、皇帝はマリアに問いかける。これでようやく話せると、わずか後ろを振り返り「どうぞ」と告げれば客席にきらびやかなドレスが広がった。宝石がかざられたドレスと、深い夜空のような髪に金剛石ダイヤモンドがつけられた銀の宝冠ティアラが乗せられている。

 女性の手をマリアが取り、紳士のようにエスコートした。皇帝に見えるようにすれば、慌てたようすで客席へ来た。


「アムリタ、今までどこに!」


 ひどく憔悴して皇帝は自分の妻に問いかけた。妻の後ろには、愛する息子アズィームも一緒だ。


「あの黒いローブの男達に誘拐され、アズィームと一緒に地下の牢に入れられていましたの。それから、牢に入っていた間のことは王子様方から聞きました。あなた、だまされていたのよ」


「そんな莫迦ばかな。わたしは――」


 膝を落とす皇帝にジャハーンダールが近寄り、耳元でささやく。


「いいえ、父上。アムリタ様は何やら勘違いをしているのです。きっと、クリス王子に嘘を聞かされたのでしょう」


 不安そうな皇帝の瞳が、マリアを捕らえて揺れた。なにが真実であるか図りかねている表情であった。


「あなた、この方はわたくしを助けてくださったのよ」


 アムリタが皇帝の手を取り、やさしく言葉を重ねる。となりにいるジャハーンダールの瞳に動揺と焦燥が入り交じっていた。自分自身の言葉よりも、アムリタの言葉を信じると思ったからである。計画がすべて台無しになると考え、知恵を働かせていると黒いローブを纏った男達があらわれてかこう。


「な、なんだ、お前達……」


 憤懣としてジャハーンダールがさけべば、男達は武器をとった。


「お前達はもう用済みだ。皇帝陛下、あんたは“暴君”らしい最期をとげるのだな! 第一皇子も、自らを傲って、それにふさわしい罰を受けるのだ!」


 絶望の色が、滲んだ。


「裏切ったのか!」


「言っただろう、利害が一致しているだけにすぎぬと」


 男は淡々と憔悴しているジャハーンダールを冷たい瞳で眺めている。男の刃がひらめき、向かってくれば目を閉じた。体が引き裂かれると思ったが、痛みも何もない。目を開いてみれば、目の前で薄い金の髪が揺れている。

 白い手が剣を抜き、剣をはじき飛ばしていた。自分よりも歳も体も小さいベスビアナイト国王子の行動にジャハーンダールは呆然としてしまう。


「なぜ、助ける。わたしは、あなたを罠にはめて」


「そうだとしても、目の前で人が切られるのは好きではない」


 マリアが答えたとき、男達の間で動揺が走り、ローブが大きく揺れた。


「なんだ、これは! 武器がすべてさびているではないか」


 客席に来ていたギルの背からひょっこりクレアが顔を出して、赤い舌をちろりと出した。


「ソロモンさんに言われて、武器をちょーっといじらせていただきました」


 驚いてマリアがソロモンの方を見れば、謎めいた笑みを浮かべて唇が「ぬかりはない」と動く。どうやら先ほどまで話をしていたのは、そのことだったようだ。笑みを称える。すると、先ほどまで愕然としていた皇帝がたちあがり、凛とした声で兵に命じた。


「ローブの男達を捕らえよ!」


 兵に男達は次々に捕縛されていく。ひとまず、安心だろうかとマリアが息をついたとき、今度は民衆がすぐそこまで押し寄せていると知らせに来た。


「あなた……」


 アムリタが心配そうに見つめれば、皇帝は瞳の奥にやさしい光を宿して告げた。


「わたしが愚かだったのだ。民に殺されても仕方がない。これもまた、運命なのだ。この首ひとつで国が救われるのなら」


「いいえ、あなたがいなくては困ります。わたしはカルセドニー国と友好を結ぶためにここにいるのです。あなたがそれを決められたことなのでしょう?」


 マリアが暗に「あなたに生きて欲しい」と伝えれば、皇帝とアムリタが目を見開いて見つめ返した。

 じっと成り行きを見守っていたソロモンが、静かに前へ出て進言する。


「そのことですが、国民に今までの詫びと不当に牢獄へ入れられた者を解放することを約束すれば、よろしいのではないですか。正気に戻られた今、暴君としての最期を遂げる必要もありますまい」


 自国の者ではなく、他国の者にそう言われるとは思わなかったようで夫婦揃って驚いて静かに涙を流した。それから、「ああ、そうしよう」と言うと皇帝は武道場をあとにして民の前へ出た。民達の不満や野次が飛び交う。そのなかであくまで皇帝らしく毅然とした態度を通した。


「わたしが妙な者達にだまされたせいで、皆を苦しめることになってしまった。君主としても、一人の人間としても申し訳ない」


 誠意を込めて皇帝は、言葉を紡ぐ。それが民にも伝わるのか、少しずつ騒ぐ声が小さくなっていった。


「だが、わたしはここから生まれ変わろう。皆の心に希望の火が灯るよう、努力は惜しまない」


 皇帝はぐっと拳を握り締めて力強く言った。


「皆の理想の君主となるために、かつての我が国を取り戻すために、まずは今までのことを詫びる証としてとらえた者を解放しよう。それから、いままでの不当な税金を皆に返そう」


 まずはそこからはじめていこうという旨が伝えられる。それから、こんな君主だがついてきてくれるだろうかと頭をさげて問いかける。思いの外、野次とは違うあたたかい声が響いてきた。


「さすが、皇帝陛下!」


 さけびがどこからか聞こえてくれば、国民から次々と称賛する声が上がる。受け入れてくれたことに皇帝が涙を流した。

 ジュリアとラフィーは、顔を見合わせて笑みを浮かべる。実は国民をたきつけたのは、この二人であったのだ。不満に思うことはあるものの、なかなか国民達は行動に移せずにいたのを、利用しようと考えていたのだ。


「俺たちが出来るのは、ここまでだな」


 ぎこちないベスビアナイト国の言葉が唇から走り出した。ジュリアは「わたくしの主なら、大丈夫ですわ」と返したのだった。



 わきあがる民の声が、武道場にまでとどいた。どうやら受け入れてくれたらしい。


「よかった。皇帝陛下が殺されることがなくなって」


「ええ、そうですね」


 マリアとソロモンが会話を交わしたとき。白銀のきらめきが空気を裂いて、走ってくる。とっさのことで、誰も動けない中――黒い影が誰よりも早く動き、短剣をはじいた。


「レイヴァン……」


 目の前に立つ漆黒の騎士を見上げてマリアが呟けば、かぶとが動いて黒曜石の瞳がやさしく見つめてくる。


「大丈夫ですか」


 春のひだまりのように、あたたかい声だった。気を抜いたとき、黒いローブが揺れて縄が地面の上へするすると落ちていった。


「こうなっては逃げるしかあるまい」


 ローブの男達は逃げようとする。すかさずレジーやギル、エリス、クライド、ダミアンたちが動いて男達を捕らえていく。しかし、主犯と思われる男は足早に武道館を出て行こうといそいだ。男の前に、幾度か襲ってきた仮面の男が立ちふさがった。


「お前、いままでどこにいた。まあいい。はやく、俺を守れ!」


「悪いが、給料分以外は働かない主義なんでね。“陛下”の命を除いては」


 仮面の男が腕を締め上げ、地面の上へねじ伏せる。


「くそ。貴様、間者だったか。一矢報いて、その顔だけでも拝ませてもらう!」


 男は叫んであばれ、手近に落ちていた短剣を手に取った。その剣がひらめけば、男の仮面がさかれてしまう。形を保てず、にぶい音を立てて地面の上へ転がった。額には血がにじみでた。

 白日のもとにさらされた顔を眺めて、クレアは唖然としてつぶやいた。


「おにいちゃん?」


 つぶやきは砂塵の風にながされて、側にいたマリアとソロモンにしか届かなかった。同時に皇帝が民をおさめて戻ってくると、ローブの男達を全員捕らえるよう命じられれば、ローブの男達は捕らえられる。不当なさばきでとらえられていた民は、解放され代わりにローブの男達が入れられたのだった。

 ことが終わったころには、辺りは薄闇に沈んでしまっていた。遅い時間ではあるが、皇帝が皆を呼んで食事になった。そこには戻ってきたジュリアの姿もあり、ソロモンや守人たちと同様にマリアの後ろで食事をしている。代わりにディアナも仮面の男もどこにもおらず、霧のように消えてしまっていた。礼を言いたかったマリアは、少し落ち込んでしまう。

 その間にも食事は次から次へと運ばれてくる。マリアがぎょっとして問うてみたら、皇帝は今まで見たことがないくらい優しい表情を浮かべた。


「クリス王子には、とてもお世話になりましたから。妻と息子、それからわたしを救って下さりありがとうございます」


 皇帝に頭を深々とさげられ、マリアは困ってしまう。


「この国にいる間は、なんでも言ってほしい。欲しいものでも、なんでも与えよう」


 “なんでも”という言葉にどきりとしつつ、レイヴァンを横目で見つめる。彼はあいかわらず、インディラの後ろで控えていた。もしや、自分が“あるじ”としてふさわしくないから、そこにいるのだろうかとマリアが考えたとき。ジャハーンダールが何事かをつぶやき、刀身を抜き払った。


「おかしい、やはりおかしい。わたしの計画は完璧だったはずだ! そうだ、お前さえ現れなければ」


 切っ先がマリアに向かう。あまりの早さに剣を抜いている間はないとさとると、ダミアンが覆い被さる。その体は引き裂かれることなく、刀身は床へ落ちた。


「第一皇子ともあろうものが、見苦しい」


 冷たく言い放ったのは、黒い騎士レイヴァンであった。


「き、貴様……第一皇子になんたる無礼を! お前は、この国の騎士であろう」


「他国の王子を狙うなど、非礼というもの。それに俺は元よりこの方の臣下。ベスビアナイト国の正騎士、レイヴァン・エーヴァルト」


 誰もが息を飲んだのを、マリアは肌で感じた。周りのことなど何一つ気にもとめず、黒いマントがひるがえりひざまずいた。


「長い間、お側を離れて申し訳ございません。クリス様」


「かまわないよ、レイヴァン。むしろ、よく異国の地でがんばってくれた。これからも、わたしの臣下でいてくれるだろうか」


 レイヴァンの表情がやわらいだ。


「はい、もちろんです」


 インディラは肩を落としてしまう。自分の入る隙はないと確信したのだ。そんなようすにレジーとギル以外は、気づくことはなかった。


「ジャハーンダールを反逆罪でとらえ、部屋にとじこめよ」


 勅命が下れば兵がジャハーンダールをとらえ、出て行った。皇帝の双眸がマリアをうつして、頭が下げられる。


「息子の無礼、どうか許してはいただけないでしょうか」


 ていねいな言葉づかいで皇帝はわびた。これ以上、この国の地位をあやうくさせるわけにはいかないからであろうマリアは満面の笑みを浮かべる。


「いやです、無償ただで許すわけにはいきません」


 ソロモンは小さく笑い、そっと“あるじ”を見つめる。それから前に出て、ある書状を渡した。


「実は友好条約を結んでいただきたいのです。もともと我々はあらそってはいませんでしたが、我が国とコーラル国に不和が生じ、カルセドニー国は微妙な立場にありましたよね」


 ベスビアナイト国の刻印が押されたれっきとした文書であった。皇帝は文書に目をとおし、「たしかに」とつぶやいた。


「これはオーガスト国王陛下の文書。しかし城は今、混乱しているゆえ今すぐには返せぬ。明日中には返事を返そう」


「よい返事をお待ちしております」


 王子らしくマリアはほほえむ。レイヴァンが皇帝に対して恭しく頭を垂れた。


「皇帝陛下、いままでだますようなことをしてきたこと、お許し下さい。わたくしは、オーガスト国王陛下の勅命を受けてこの国に潜り込んでおりました」


 “勅命”がなにであるかは告げずに、レイヴァンは謝罪をする。それから、男達の身柄をベスビアナイト国側で預からせてくれないかと申し入れたが、それはことごとく却下されてしまう。


「申し訳ないが、彼らの身柄はこちらにあずけてくれないだろうか。これ以上、お客人の手を煩わせるわけにはいかぬ」


 礼儀正しいがカルセドニー国が捕らえたのだから、裁きもこの国で行わせてもらうと言っているようだ。彼らをとらえたのはマリア達の手柄であるし、ベスビアナイト国が身柄を引き取ると言っているのだから、引き渡してしまってもよいものなのにとクレアは考えていた。


「手柄を横取りするつもりか」


 クレアのとなりでギルが毒つく。なるほど。彼らの狙いがそれであるならば、事実がねじまげられて世間に広められるだろう。カルセドニー国は、信頼を勝ち取ることが出来るのでいいかもしれないがベスビアナイト国としては、ただの徒労で終わってしまう。

 マリアがどうでるだろうかと見つめていると、薄い金の髪がかすかに揺れた。


「すみませんが、それを受け入れるわけには参りません。我が国のもめごとが招いたことかもしれませんし。それに皇帝陛下、仰ってくれたではありませんか」


 なにをいいだすかと、皇帝の目がいぶかしげに青い金剛石ブルーダイヤモンドの瞳を見つめ返した。


「“なんでも言って欲しい”と言ってくれたではございませんか。それにわたしは、まだ第一皇子殿の無礼をゆるしてはおりませんよ」


 花が咲くように美しい笑みを浮かべて、マリアがきっぱりと告げれば皇帝がわずかにたじろいだ。


「それは、おどしか」


 先ほどまで威厳に満ちていた皇帝の声がかすれている。武道の試合が始まる前にソロモンから聞いていた。“笑顔は最大の防御”であると。マリアは実践しているにすぎなかったが本当のようだ。


「いいえ、わたしといたしましては、貴殿とは仲良くしたい」


 皇帝は震える声で臣下を呼ぶと、ペンを持ってこさせ書面に名を記した。とらえた男達の身柄もベスビアナイト国側に引き渡す旨も書く。それをマリアに渡した。

 青い瞳が一通り書面を見たあと、皇帝へ笑顔を向けた。


「はい、確かに。条約を受け入れてくださり、ありがとうございます。彼らの身柄は責任をもって、我が国が引き受けますね」


「は、はい」


 返事をして「食事を再開しよう」と、皆に声をかけた。そのあとも、絶やさない笑顔に皇帝はおびえていたのだった。



 夜食に近い夕食を終えると、マリア達は部屋へ戻ろうとしていた。そこに黒い騎士が駆け寄る。


「マリア様、長い間お側を離れてしまって申し訳ございません」


「それはもういいよ。それより、もう危ないことはしないでね」


「はい」


 よろこばしげな黒い騎士レイヴァンに、ギルがいやらしい笑みを浮かべた。


「正騎士殿の方がさびしかったんじゃないのか。なんたって、大切な姫様の側をずっと離れてたんじゃなあ」


「もちろん、さびしいさ。つかえるべき主君はマリア様だけだからな」


 さらりとした言辞に、ギルはおどろきマリアは頬を綻ばせた。


「嬉しいな、レイヴァンにそう言われるの」


 マリアの笑顔にどきりとして、レイヴァンは頭を垂れた。


「それから、マリア様。本来であれば、すぐにでもあなた様の護衛に回りたいのですが皇帝陛下に今夜だけでもインディラ様の護衛をお願いされてしまいまして」


「かまわないよ、みんなも一緒だし。そうだ、レイヴァン。明日、あたらしい旅の仲間も紹介するからね」


「はい」


 やわらかい声で返すと、黒いマントをひるがえして去って行ってしまった。その背をいつまでも眺めて、ジュリアに声をかけられるまでじっとしていたのだった。

 部屋へ戻ると今日は護衛として、ジュリアとダミアンが側にいた。そこへ話があるとソロモンが来た。


「それで、ソロモン。話というのは」


「ええ、皇帝陛下に対して物怖じせず、言いくるめるとはわたくしは思っていなかったのです。わたくしの口から申そうかと思いましたが、その必要は無いようでしたので臣下として嬉しい限りです」


「それは良かった。正直、内心は恐かったんだ。変なことをいっていないかとか、無礼ではないかとか」


 無礼ではないと言えない。ソロモンとつむがれて、マリアの背筋が凍る。もしや、ベスビアナイト国の立場を悪くしてしまったのではないかと考えたのだ。


「ですが、姫様が笑顔を絶やさなかったことで皇帝陛下は折れた」


「ソロモンの助言のお陰だ」


 にやりとソロモンの口角が上がる。


「どうです、面白いでしょう。人は笑顔の前では攻撃しようと思わない」


 ゆるりと笑顔を浮かべたとき。外が騒がしく、兵達の足音がひびいてきた。扉を叩く音がしてジュリアが出れば、兵が「早急にお伝えしたいことが」と切り出した。


「捕らえた男達が脱獄いたしました」


「やはりな」


 ソロモンがつぶやく。牢獄をよく行き来していたらしい彼らであれば、脱獄は容易だろう。さらに城の内部にも通じているため、すぐに首都からも逃亡される可能性は高い。


「今、捜索をしておりますので、また報告に参ります」


 兵はそれだけを告げて立ち去った。果たして彼らだけで見つけることは、出来るであろうか。マリアが心配そうにしていれば、ソロモンの瞳が優しい光を宿す。


「ご心配なされずとも、大丈夫ですよ」


 首が傾げられれば、ソロモンは悪戯な笑みを浮かべて人差し指を立てた。


「彼らの道を絶てばよいのですから、彼らが通るであろうところをすでにレジー、ギル、クレア、エリス、クライドに伝えてあります」


 別の場所から城を出る場合があるのではないか、とマリアが反抗したが「ありません」と断言されてしまう。


「この城から出る方法は、正面の門から直接出る方法と裏門を使う方法がございます」


 正面の門を通る可能性は低いと紡いだ。正面の門は人の目につきやすいし、兵が見張っている人数が多いだろうからまず使わない。次に裏門であるが、こちらにも見張りがいる。特に脱獄者が出れば余計に警戒するであろう。


「ならば、すぐに捕まってしまうのではないか」


「ですが、窓もしくはバルコニーから飛び降りるという方法もございます」


 もちろん、こちらの可能性が低いのは確かだとも告げた。足をいためる可能性だってある。それだけで済めばよいが、場合によってはそれだけでは済まされない。


「そうなると、やはり逃げ場は無いように思われるが」


「ええ、そうです。だから、言ったでしょう。心配なされずともよいと」


 彼らが奇策を以てしてこちらの裏をかかれたとしても、守人達がいるから大丈夫だろう。


「彼らはたしかに強いが、それだけではない。わたくしが策を講じずとも、おのれ自身の武器にて戦える」


 ソロモンのいう“武器”がマリアには分かりかねたが、次の瞬間にはすべてを理解して「なるほど」と思って小さく口角を上げた。



 小さな虫の鳴き声がよく聞こえた。静かな夜は、気にもとめない鳴き声にも敏感になる。じっと息を殺し、クライドは裏門のようすを見張っていた。

 数分前に脱獄が知らされたが、未だに姿は見ていない。あえて裏門には兵を配備せずに、兵と共に身をかくしてようすをうかがっていた。

 刹那、遠くで影がうごいた。忍び足で近づく姿に、クライドが戦輪チャクラムを放てば足に命中する。


「うが!」


 クライドは物陰から出て“影”の背後にまわり、短剣をあてがう。月明かりがこぼれて、姿がはっきり見えた。部屋に閉じこめられていたはずの、第一皇子ジャハーンダールだった。


「あなたは――」


「へ、部屋に戻るから、誰にも言わないでくれ!」


 必死にジャハーンダールは懇願したが、クライドからすればどうでもいいので、ここにいる理由だけを尋ねた。彼が言うには部屋を脱走したあと、“ティマイオス”に出会い裏門の警備がいないことを教えてもらったらしい。それでこの門から城を脱走しようとしたそうだ。

 クライドはジャハーンダールを兵にあずけて考え込む。“ティマイオス”に罠を見破られていたか。不審に思われていたか。わからないがこうなっては“、こちらの門に来る可能性は低い。他のところに行くべきかと悩んでいると、複数の足音がしずけさをさぶって轟いてくるではないか。どうやら彼らは、こちらの裏をかいてきたらしい。

 クライドは懐から手を出した。同時に戦輪チャクラムを放つ。闇をひらめきが走った。前方にいた数人は、足を切られ地面の上へうずくまった。

 “彼ら”の動きが鈍ったところをクライドの短剣がひらめいて、さらに彼らの動きを止める。だが数度にわたって彼らの剣をうけとめたことにより、短剣は傷ついていく。

 もともと古くなっていたのも相まって、次の打撃を受けたとき。ついに音を立てて砕けた。今のクライドは、丸腰に近い。剣のひらめきがクライドを狙ったとき、あきらめて目を閉じた。瞬間、にぶい音がひびいた。


「クライド、大丈夫?」


「まったく、なに手こずってんだよ」


 ゆっくりとクライドが目をひらくと、目の前に大きな土の壁ができあがっていた。どうやら、クレアが生み出したものらしい。となりにはギルも一緒で、矢をつがえている。先ほどの言葉は、前者がクレアで後者がギルのようだ。


「もうギル! いくら何でもこの人数をひとりでつかまえるのは難しいわよ」


 軽くクレアが叱りつけた。ギルは肩をすくめるだけにとどめ、抜刀すると男達に斬りかかった。今度は別の方向からも矢のひらめきが走り、男達に突き刺さる。そちらへ視線を向ければレジーとエリスがいた。


「二人も来たのね」


 嬉しそうにクレアがすれば、レジーは頷くだけにとどめる。エリスは笑みを浮かべて見せた。皆がいるのであれば大丈夫だろう、とクライドは気を抜いてしまう。男の一人が門へ向かって駆けだした。皆の反応が遅れ、男の足が門を跨ごうとした刹那に、月の明かりをあびて白銀のきらめきが空を走る。


「ぐあ!」


 矢が男の肩に突き刺さった。誰であろうかと皆の視線が一カ所に集まる。煌々とした月明かりを浴びてバルコニーで立っていたのは、黒い騎士レイヴァンであった。黒いマントをなびかせて、地面に降り立つ。剣を引き抜いて黒曜石の瞳で射抜けば、男達がたじろいだ。


「ひいっ!」


 だれかが声をあげた。逃げだそうとすれば、守人達が動いて縄で縛り上げる。彼らを兵に渡すと、レジーがレイヴァンに駆け寄った。


「ありがとう、助かった」


「いや、俺が助けずとも、お前等だけで十分だっただろう」


 レイヴァンに、今度はギルが近寄った。


「そうそう! 正騎士殿が出る必要は無かったんですよぉ、なんで出てきちゃうんですか。それにあなたは今、インディラ様の護衛でしょう」


「だとしても、俺はマリア様の専属護衛だ」


 クレアとクライドは顔を見合わせて、「変わってないね」と微笑みを浮かべたのだった。


「これで姫様の願いも叶えられたわけですし」


 息を吐いたギルに、クレアも賛同して満面の笑みを浮かべてみせる。


「そうね! はやく、姫様にご報告しないと」


 クレアは誰よりも早く、マリアの元へ駆けだした。

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