第二十八章 ジャハーンダールの誤算
数時間ほど前、クレアとクライドは暗闇の中をさまよっていた。あいかわらず光が見えてこず、右も左もわからない状況である。不安はとうに薄れてクレアは、「暇だなあ」とぼやいた。危機的状況であるはずなのに、そのゆとりはどこから出てくるのだろうとクライドが思う。ついには歌を口ずさみはじめる。
『新しい土地を見つけるように言って
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
塩水と砂の間のを
そうしたら彼は私の恋人』
反響する音があたりに優しく響いた。大地が共鳴する。
『彼がそれを出来たのならば
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
シャツを取りに来るように言って
そのとき彼が恋人になるから』
歌声だけが残る闇の中で、別の声が混じった。
「誰かいるのですか」
はっとしてクレアとクライドは顔を見合わせると、闇の中に声をかけた。「助けて」と声が反響してくる。すかさず二人はかけ出した。その足は鉄格子の前で止められる。
「助けてください、お願いします」
鉄格子の中には、中年ぐらいの女性と十代後半の青年が入っていた。身なりからして、皇帝の息子とその母であろう。
「あなたは?」
青年は第二皇子アズィームだという。女性は皇帝の正室でアムリタというらしい。彼女は
クレアとクライドも自らの身分を明かし、二人を助け出すことを約束する。
「しかし、ここの牢屋は頑丈よ。いくらなんでも――」
ベスビアナイト国の者は屈強だと聞いていたが、二人の体を見る限りそうは見えない。クレアにいたっては、華奢な少女以外の何者にも見えない。アムリタを安心させるために、微笑みを浮かべる。
「大丈夫です、私たちはそんなやわじゃあございません」
クレアは歌を紡いだ。地平線からひびいてくるような声に、アムリタは焦燥していた心が静まっていくのを感じる。違和感を感じて鉄格子を見れば、氷のように溶けていくではないか。
「これは、どうなっているの」
呆然としてアムリタが呟いていれば、となりにいるアズィームもぽかんと口をあけている。そんな二人にクライドが手を差し伸べた。
「説明はあとです。はやく、ここから出ましょう」
いつの間にか鉄格子の姿形は無くなり、水のように床に染みこんでいる。アムリタはアズィームの手を取ると鉄格子があったであろうところから外へ出た。
「ですが、出口はわかるのですか」
クレアが「ええ」と答えた。どうやら足音が聞こえるらしく、音を辿っていくとのことだった。先ほど唄によって、“地”の力が強まっているのかもしれない。
「こちらです!」
クレアは率先して、一番前をいく。一番うしろをクライドがついた。行き止まりまでつくと、壁を手で押す。心地の悪い音をたてながら、扉のように開いた。
「この宮殿にこのような場所があったのですね」
愕然としてアムリタは呟く。
「それだけではないようですよ」
クレアが見据える瞳のさき。中央をはさんで両側に牢獄があり、数多の人が収容されている。その光景にアムリタとアズィームは戦慄した。これほどまで入っていたことはない。自分たちがいない間に何があったというのか。なんともいえない吐き気に襲われつつも、クレアに手をかりてアムリタは足早に去る。アズィームもアムリタの後を追いつつ、牢獄にいる一人の男に声をかけた。
「国は今、どうなっている」
男は皇帝が妙な宗教にだまされていることから、自らが知っていることを洗いざらい語って聞かせた。アズィームは険しい表情を浮かべせ、「兄上だ」と呟いた。
「今の兄上は、王位への執着がすさまじい。やはり、あのころの優しい兄上はもう戻っては来ないのか」
にぎりしめた拳がふるえている。クライドはそんなアズィームの肩を軽く叩いて、先をうながした。第二皇子らしく、凛々しい表情を浮かべてうなずき牢屋を出た。クライドも出れば、宮殿の中であった。
「兄上は今、どこにいるのだろうか」
アズィームが呟くと、ローブを纏った男数人が四人を囲う。どうやら脱出したと、ばれたらしい。
クレアはスカートの下から短剣を取りだし、アムリタとアズィームを庇うように立つ。クライドは懐に手を入れて
どうするべきなのか悩んでいる間にも、ローブの男達は追い詰めていく。焦りばかりがクライドの中でこだましたとき、ひらめきが空気を裂き、男の一人に突き刺さった。男達の間で動揺が走り、ローブがこまかく揺れる。
「誰だ、何者だ」
今度は閃光が走って男を切り裂いた。その先にいた人物に、クレアとクライドは目を見張る。
「レジー、ギル!」
「はやく、こっち」
レジーにうながされて男達が怯んでいる隙に、クレアとクライドは二人を連れてかけだした。
「二人はどうして、ここに」
走りながらクレアが問いかけると、ソロモンから言いつけられたとギルは伝える。
「ソロモンさんが?」
「二人は城にある牢獄の、どこかにいるはずだろうからってな。王子もそこにいなかったのか」
「ううん、会わなかったよ。王子がいるのなら、戻った方が」
「いや、戻ればあいつらの餌食になるだけだ。今は逃げることが先決だ」
「でも……」
クレアになにかあったらマリアが悲しむからとのギルに、かえす言葉は見つからなかった。ジュリアとエリス、ダミアンについて聞けば、今度はレジーが口を開く
「ダミアンは剣の試合に出てる。エリスはソロモンのところ、ジュリアは――」
ローブの男達が現れた。続きは途切れてしまう。いつの間にか、囲まれてしまっていた。男達が動き出す前に、ギルの刀がひらめいて道を開ける。
「はやく、こちらへ!」
ギルは皇族であるアムリタとアズィームを、先に逃がそうと手を差し伸べる。無我夢中でアムリタは、アズィームと共にその場を離れた。ローブを纏った男達が次から次へと立ちはだかり、道を塞いでしまう。さすがに一人で二人を守り切る自信がないと心中で毒づいたとき、アズィームは剣を抜いた。おかざりの剣は、豪華できらめく宝石がうんとつけられている。
「わたくしとて、この国の皇子だ! 守られているばかりではいかぬ」
「その決意、しかと受け止めましたよ」
ギルにアズィームは颯爽とした笑みを口元に浮かばせて、ローブの男達に斬りかかった。
そのころ、マリアとディアナは牢獄を抜けて城へとついた。
「城の地下にあったのか」
「ええ、それに牢獄はここともう一つあるそうですよ。ここまで会わなかったということは、王子様の仲間はそちらにいるのかもしれません」
手には城の内部が書かれた紙を開いている。そんなものを持っているとは驚きだ。ディアナが何者であるか興味が惹かれたが、それどころではないと視線を投げた。
「その場所はわかるだろうか」
「ええ、王子様。だけど――」
答えるディアナの表情はやわらかい。
「罠かもしれないわ。それでも、行くというの?」
瞳の奧が憂いをおびた。まるで我が子をさとす母親のようにいうものだから戸惑いを覚えたが、マリアは表情を和らげる。
「もちろん、こんなわたしについてきてくれた仲間だから。今度はわたしが助けないと」
「そう、あなたは確かにかしこい子ね」
薄い金の髪をひるがえして、ディアナが「こっちよ」と歩き出す。マリアは、はぐれないよう背を追った。その背を眺めながらマリアはディアナに、どこかで会っている気がしていた。問うてもまた「気のせい」と返されそうで、口を噤んでいるしかないが。
どちらとも口を開こうとせず、あたりは寂寥で満ちている。ざわめきが聞こえてくると共に、胸がざわめいてマリアは足を速めた。そこには、黒いローブを纏った男達、十数人がだれかを囲んでいる。誰かはわからなかったが「助けねば」と、矢をつがえてローブの男に突き立てた。ローブが揺れて不気味な瞳が一斉に、マリアを見つめる。
「おぬしたち、一体なにが目的でこのようなことをする」
怒りをこめた声で問う。何一つ隙を見せずに、打ち抜くように青い瞳が男達を眺めた。ディアナは驚きつつ、マリアを見つめる。弓には次の矢が、つがえられていた。
「くそ、出てきやがったか!」
槍で襲いかかってくる。切っ先がマリアにかかるまえに、矢に撃ち抜かれていく。数名が床の上へ倒れ込んだとき、黒いローブが慌ただしく揺れて足早に立ち去った。マリアとディアナの他に、下女が残される。
「大丈夫ですか」
矢籠にしまって下女にかけよる。下女が蒼白した表情でマリアを見つめていたが、ぷつんと緊張感が溶けたのか目に涙をためていく。
「どうか、我が国を救ってはくださいませんか。このままではこの国は、壊れてしまう」
困惑するマリアをよそにディアナは、下女の手を優しく包み込んであたたかく紡いだ。
「自分の国を信じられないほど、民は傷ついているのですね。けど、この国を救えるのはこの国の者であってベスビアナイト国の王子ではないわ」
この国を救うのは救世主でも英雄でもない、この国の人々なのだとディアナは紡いだ。下女は希望を見いだしたように顔を上げて、立ち去ってしまう。
「救世主も英雄も絵空事の話なのよ。自らが動き、考えなければなにも変わらないわ」
呟くディアナを見つめてマリアは、どこか悲しげに目を伏せた。
「そうかもしれないですね。それでも、わたしは望んでしまうんです。救世主や英雄。それから白馬の王子様」
満面の笑みをうかべれば、青い瞳が見開かれる。マリアの瞳に似た瞳は、すさんでいたのに希望を宿していた。
「王子様なのに望んでしまうのですか」
「本当ですね。でも、その“王子様”が自分だったらいいなって思うときもあるんですよ」
物語においてお姫様を助ける王子様。マリアも何度もあこがれたことだけれども、誰かを守る姿に惹かれているんだろう。
「けど、その“王子様”はわたしじゃない。“わたしたち”だ」
凛と前を見据え、ディアナに「行きましょう」とさきへとうながした。驚嘆しながら「ええ」と、前を進んでいく。マリアが何かに気づいたかのか。足が速められた。足が止められたとき、クレアとクライド、レジーとギルがローブの男達に囲まれていた。守人の他にも青年ときれいな服を身に纏った女性がいる。
皆を守るべく、マリアは弓を引いた。ひらめきが空気を切り、男に突きささる。
「クリスさま」
息を飲んでギルがつぶやいた。そのつぶやきを聞き逃さず、第二皇子がマリアをみつめる。
「なにを以てして、お主等は戦う」
地のそこから出す低い声が唇からもれた。殺気をやどした言葉に、男達の視線がぎらついてマリアに集まる。
「神の御名を以てしてだ」
男達の剣先がマリアに向かった。しかし、その刃は誰の血も吸うことなく床の上へ落ちる。ギルの刃で切り裂かれたのだ。
「お前達の神なんぞ、知るか」
ふてぶてしい笑い顔を浮かべてギルが言う。刹那にひらめきが走り、一気にローブが床に沈み込んだ。これは勝てぬとさとり、残っていた者は慌てたようすで駆け出す。まわりにいなくなったことを確認するとギルが刀をしまいこみ、マリアに頭を垂れた。
「ご無事で何よりです、我が主」
それを筆頭にクレアやクライド、レジーまでもが頭を垂れる。青年と女性はおどろき、目をまたたかせた。
「ありがとう。みんな、どうか力をかしてくれ」
「御意」
マリア達は武道館に急いだ。道すがら情報交換をしあって、このときに行方不明であった第二皇子であるアズィームと妃アムリタだと聞いたのだった。
「アムリタ殿にアズィーム殿。わたしはベスビアナイト国の王子、クリストファーと申します」
マリアが簡単な自己紹介をすれば、二人は何か訊きたいようだが結局は口を噤んだ。とても訊ける状態ではないと悟ったからであった。ギルが説明をすれば、「止めないと」と呟いていた。思うところは同じらしい。
笑みを零すギルに、クレアはむくれながら問いかける。
「なに、笑ってるの」
「いいや、べつに。みんなの望みは何一つずれることなく均しいのだと思って」
すると、クレアまでも笑みを浮かべて「そうね」と呟いた。
「他国の者が私たちと思いを同じくしているのね」
それはとても素晴らしいことのように思われた。陰謀と流血が繰り返される国と国がこうして望みを同じくしているのだから。
希望を抱いて、ギルは一歩を踏み出した。
*
何度目かの金属音がひびいたとき、さすがにダミアンの表情にも疲れが見え始めていた。愛用していたパルチザンの逆三角形の対称刃は、柄から離れ地面に突き刺さっている。同時に相手の剣も折れたために、二つ目の武器で対戦しているところだ。
第二戦目となりお互いが選んだ武器は剣。同じ武器だ。
「はあ……はあ……」
同じ条件であるはずなのに、黒い騎士は何一つ疲れた様子がない。競技場にはダミアンの浅い息と金属音ばかりがひびいていた。
黒いマントが熱気の風のあおられ、ゆらめく。すべての闇を取り込んだ黒い瞳は、淡々とダミアンを見つめていた。
闇は計り知れない。瞳にするどさが増せば、またダミアンに向かってひらめきが走った。後方に飛び退き、回避する。この攻防を何度、続けたことだろう。このままひと思いに負けてしまうべきだろうか、と考えていれば“あるじ”の顔が脳裏をよぎる。
(ベスビアナイト国の代表が負けるわけにいかない!)
ダミアンは柄を握り直して黒い騎士に斬りかかるが、影のように姿形すら目の前から消えた。
「な!」
背に受ける太陽の日差しがさえぎられた。まずいと振り返りながら、前方に飛び退く。そこには、黒い騎士が立っていた。
脂汗とも冷や汗とも、くべつのつかない汗がにじみ出る。ダミアンは汗を強引に拭うと、また剣を握り直した。黒い騎士はあいかわらず悠然としていて恐ろしい。
「あんた、“あるじ”の騎士なんだろう」
会話が客席には届かないことをいいことに、ダミアンは切り出した。
「どうして、今“そこ”にいる?」
「俺は勅命にしたがっているだけだ」
閃光が走る。赤茶色の髪が数本、宙に舞い上がる。瞬刻、剣が交差し火花が散った。
「勅命?」
不愉快な金属の音を気にもとめず、さらに問いかける。
「お前の“あるじ”とはだれだ。ベスビアナイト国のオーガスト陛下か、それとも姫さんか。カルセドニー国の皇帝か」
黒い騎士の口は固く閉ざされている。けれども剣を持つ手が一瞬、ゆるんだ。逃さずとらえ、ダミアンは手に力を込める。
「答えろ!」
再三にわたり、火花が散った。黒い瞳が細められ手に力が込められると、後方に飛ばそうとする。なんとかくい止めて、ダミアンは飛び退いた。
「それを今、答える必要は万に一つもない」
静かに黒い騎士が告げた。
「それよりも、いいのか。お前は今、かなり体力を消耗している。対して俺は何一つ息が乱れていない。そんなのがベスビアナイト国の代表で良いのか」
冷たい言葉にダミアンは怒りよりも、奇妙な感覚を覚えていた。相手が本気を出せば、自分ぐらいすぐに負けてしまう。なのに彼は決して試合を終わらせようとしない。
「あんた、なにが目的だ。まるで、あんたは――」
白銀のきらめきが目先を走って、続きは途切れた。後方に飛び退いたが、またすぐに次の撃がダミアンを狙う。剣で受け止めると、にぶい金属音があたりにとどろいた。
「まるで、あんたは“俺たち”を勝たせようとしているようにしか見えない!」
続きが発せられた。
「当たり前だ。ベスビアナイト国がこんな軟弱だと思われたくはない」
「あんたの“勅命”って――」
ダミアンの脳裏にひらめきが走ったとき、二つの剣が音を立てた。
カルセドニー国で用意された試合用の剣では、二人の力を出し切ることは出来なかったらしい。ヒビが入り始めていた。
一度、二人は後方に飛び退いた。それから示し合わせたように剣をかまえる。このとき、武道館にちょうどソロモンとエリスが入ってくる。
競技場にある二つの影が同時に動いた。耳をつんざく音が武道館全体にひびきわたり、剣がついには折れて宙へ飛び上がった。「引き分け」と声が会場を満たした。同時に、慌ただしい足音共に兵が皇帝の元へ駆け込んできた。
「民衆が城の前まで押し寄せております!」
「なんだと、全員捕らえて投獄せよ」
無茶なことを言う。口はせずとも、胸中で誰もがつぶやいていた。
「しかし――」
「勅命だ、全員をとらえて投獄せよ」
はっ、と兵は足早に去って行く。皇帝は耳をつんざく声を出して皆に告げた。
「皆の安全を取り、試合はこれにて終了。部屋に戻るように!」
インディラが皇帝へ進言した。
「お待ち下さい、父上。王子様が、ベスビアナイト国の王子様のお姿が見えないのです」
その声も大きく、会場に動揺を走らせた。皇帝は「静まれ」と声を張り上げる。
「このことは、こちらでなんとかする。だから皆は部屋へ戻るように」
瞬間、皇帝の背後から黒いローブを纏った集団が現れた。インディラは息を飲む。ローブをゆらめかせ、あやしい笑みを称えて皇帝に耳打ちした。
「皇帝陛下、ベスビアナイト国の王子様は無事にこちらで捕らえることが出来ました」
「だが」
「なにを迷われているのですか。ベスビアナイト国の王子様は、国の……いいえ、世界の災いです。彼を排除しなければ世界は滅んでしまいます。貢献した皇帝陛下には、神の加護がもたらされることでしょう」
また兵が皇帝の元へ来て、状況を報告した。
「陛下、あの人数を捕らえることなど出来ませぬ。それにもう城の前まで迫っております。抑えることも出来ませぬ」
「“出来ない”だと? どの面下げてそう言う。まったく、この無能どもが!」
皇帝はののしったが、兵は一歩も引かず諫言する。誰もが兵の言うことが正しいととれた。だが言葉は皇帝には届かず、兵を冷たい瞳が見下ろしている。
黒いマントをひるがえして競技場を出た騎士は、皇帝にひざまずいた。
「どうか、この場はわたくしに免じて、ゆるしてはもらえないでしょうか」
「ふん、さっさといけ」
兵は頭を下げると、レイヴァンと共にその場を立ち去った。
「レイ殿、わたくしは何か間違ったことを言っているのでしょうか」
「いいや、お前は何一つ間違っていない。ただ今の皇帝には言葉が通じないんだ」
皇帝には声が聞こえない場所で、二人は会話を交わした。兵はレイヴァンと同じ考えであったことに喜び、また自信を持つことが出来た。
「いいから、いけ。形だけでも勅命には従っておくものだ」
元気よく駆けだした兵の背中を眺めていれば、ジャハーンダールが声をかけてきた。
「“形だけでも”ね。皇帝がきけば、首をはねられるんじゃないか」
「いや、それは軽はずみでした。申し訳ございません。それでは、わたくしはインディラ様の元へ戻ります」
マントをひるがえし、客席へ足を向ける。ジャハーンダールは背に、声をかけてきた。
「あんたの大切な“あるじ”は、どこにいると思う? “あいつら”の元だぜ。助けにいかなくていいのかい?」
ため息をひとつ零した。
「あなたはどうやら、肝心なところを見誤っているようですね」
マントがひるがえり、小さな風が起きた。その風が過ぎ去ってからジャハーンダールは歯を食いしばる。己の作戦が何一つ、狂っていないと信じて疑わずレイヴァンをあざけわらった。
「俺の作戦は完璧だ。ほころびなどありはしない! 民衆など取るに足らん」
不気味な笑みの中にわずか、恐れが混じっていた。
レイヴァンが戻れば、ダミアンも客席へと来ていた。そこにはマリアの姿はない。心配げに黒曜石の瞳が細められた。
「レイ?」
「いかがなされましたか、インディラ様」
「いえ、どこか悲しげに見えたので」
感情を見せたのが、インディラからすれば稀少に思われたのだ。
「なんでも、ございませんよ」
また無表情に戻せばインディラは、意を決したように口を開いた。
「ねえ、あなたはどうして時々、悲しそうな顔をするの? そのきれいな瞳には、誰が映っているの?」
黒い瞳が見開かれた。インディラに言われて、初めて感情を表に出してしまっていたことに気づく。この国にいる間は、決して心を許さず、開かず、無感情で騎士としての仕事を淡々とこなしてきたのだ。なのに、誰よりも周りが見えていないインディラに気づかれるほど感情を出していたというのだろうか。
「なぜ、そう思われるのですか」
「だって、あなたの瞳はいつも遠くを見つめて私を見ようともしないんだもの。誰か好いている女性がいらっしゃるのですか」
どきり、と心臓がはねた。それほどまでも、彼女の言葉は当を得ていたからだ。
こちらに向いたソロモンの瞳があやしげな光を灯している。まるで彼も、次に出る言葉を待っているかのようだ。
「好意を抱いている女性なら、いますよ」
インディラの瞳に一瞬、光が消えた。すぐに明るい光を灯して、笑顔を浮かべた。
「そっか、やっぱり好きな人いたんだ。そうじゃないかって、思ってたんだ」
呟いた声は低い。インディラのようすがおかしいと気づいて、レイヴァンが肩を掴んだ刹那。複数の足音がひびいてきて、なだれのように客席へと来た。そこにいる姿に、レイヴァンは息を飲んだ。
薄い金の髪を無造作に風になびかせて、
「皇帝陛下、お話があります」
凛とした声があたりにとどろいた。ジャハーンダールの双眸には動揺が宿る。理想とは違う行動ばかりされることに、苛立ちを覚えはじめていた。
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