第二十三章 再会

 はじめてその男とあったとき実に堅実で、一生そりが合わぬとソロモンは思った。

 時はさかのぼって、マリアが八歳のとき。宮廷へ来てまだ三年も経たぬのに正騎士としての称号を得て、おまけに王子の専属護衛という大任を担った男がいた。

 国王に会わされ、「レイヴァン」という名とオブシディアン共和国での武勇を聞かされた。堅実そうなたたずまいに、仕事以外では会うことはなかろうと考えていた。

 当時シプリン支城から王都へ呼び戻されたばかりであったので、目の前にいる男よりも愛しい恋人の方が気にかかっていた。だから、毎夜のように街へ下りて酒におぼれる日々が続いた。他の女に興味も持てなかったから、酒に逃げるしか無かった。

 そんなある日のことだ。珍しくも男が酒場にやってきたのは。酒場へ来るのがあまりないからか、どこか落ち着かない様子で店内を見渡す。当たり前だ。仮にも王子の専属護衛なのだ。そんな男が簡単にこのような場所に足を運ぶべきではない。考えていると、男の足はまっすぐにこちらへ向かってきて――


「ソロモン閣下、陛下がお呼びです」


 飲みに来たわけではないのか。どこか面白くなくて酔っていたのもあったのか、男に隣に座らせた。男は戸惑った。堅実なのだ。公爵と同席するのは、いただけないと考えているのだろう。

 このときソロモンは強引にに男を座らせると、酔いに任せてシプリン支城にいたこと、そこに残してきた恋人のことが気がかりなこと、全て話してしまった。あとから思えば、鬱陶しいことこの上ないが、意外にも男は黙って聞いていた。

 たまっていた言葉を全て吐き出したのを確認すると、男は「これは自分が思うのですが」と切り出した。


「あなたの恋人も同じ気持ちではないでしょうか。あなたにこんなに愛されているのですから」


 すうと何かが引いていくのを感じた。男レイヴァンは大したことは言っていない。ただ自分の思うところを述べただけだ。けれども、いくらか救われたのは事実だった。あとのことは、覚えていない。酔いつぶれて意識はここできれてしまったのだ。

 あとから聞いた話だが、レイヴァンが介抱してくれたらしい。



 昔のことを思い出して、ソロモンは笑みを浮かべた。時刻はすでに真夜中を回っていたが、寝付けそうにないので上甲板で潮風に当たっていた。しかし妙に頭が冴えていたのと、レイヴァンと出会ったときのことを思い出して眠れなくなってしまう。


「ここにおられたのですか」


 潮騒に混じって声が聞こえてきた。振り返ると、エリスが立っていた。どうやら、姿が見えないと心配して探してくれたらしい。


「どうも、今夜は眠れそうになくてな」


「しかし、お休みにならなくては臣下としていかがなものでしょう。姫様が不安定な今、ソロモン様がしっかりしませんと」


 エリスの言い分はよくわかる。だが、妙に気持ちが高ぶって眠れぬ夜もある。


「舐める程度、お酒でも飲まれますか」


「いや、それもやめておこう。姫君があまり優れないときに酒を呑むわけにもいかぬ」


「明日にはカルセドニー国へつきますし」


 心配そうなエリスにソロモンは「もう少し」と、どこまでも続く水平線を眺める。憂いを帯びた視線にエリスは言葉を失い、隣にそっと立つ。それを一瞥もせずにソロモンは口を開いた。


「姫様の気持ちもわからなくもない」


 ソロモンは呟く。確かにずっと側に居た人が側にいないのは精神的にかなりつらい。わかるからこそ、ソロモンにはマリアを咎めることも叱る権利も無いと、マリアに不条理に責め立てられたとき、思ったのだ。誰かにぶつけずにはいられない。けれど、その誰かはきっと誰でも良かった。


「俺は、毅然としていたわけじゃない。姫様を叱る権利など持ち合わせていないだけだ。かつて、俺がそうだったから」


 ソロモンは初めて心の内を吐露した。エリスですら掴めなかった、あの時の真意をやっと知ることが出来た。


「ソロモン様が?」


「ああ、かつての参謀……自分の父に姫様と同じことを言ったことがある。けれど、頭ではわかっているんだ。責めたところで現状は何一つ、かわらない。ただ行き場のない感情を誰かにぶつけたかっただけだ」


 ソロモンの瞳の奧に深い闇が揺れる。その闇はエリスには計り知れないが、ただ寄り添うことは出来るからとじっと言葉に耳を傾けていた。

 ソロモンが黙り込むと潮騒があたりを支配する。やがて、エリスが口を開いた。


「どんな感情でも言葉にすることは大切だと思います。自分で愚かなことを言っているとわかっているのであれば、それは前へ進むための一歩だと思います」


 ただそれに気づかないのは愚か者だと思うけれど、とエリスは告げた。ソロモンが小さく微笑み視線を投げる。


「前へ進むための一歩か」


 ソロモン自身が救われた気がして呟く。


「俺もまだ前へ進めるな」


 そのとき、闇に包まれていた空がしらばんでいき、星々の光は薄れていく。水平線の彼方には、溢れんばかりの輝きを灯す太陽がのぞいていた。


「ええ、我々も前へ進まなくては。傷つきながらも前へ進もうとなさる“あるじ”に申し訳がないですからね」


 エリスがソロモンの瞳を、そらさずに見つめて答えた。朝の日差しが強くなっていき、やがてすべてを明るく照らし出す。

 倉口からマリアがひょっこり顔出して、ソロモンとエリスに駆け寄った。


「おはよう!」


「おはようございます」


 笑顔で駆け寄るあるじに、二人は満面の笑みを浮かべた。


「いい朝だな」


「ええ、とても」


 マリアにソロモンが答えれば大きく深呼吸をして、朝の空気を吸い込む。太陽のかおりがする空気を吸えば、希望が満ちあふれる気がした。


「とうとう、今日だな」


「はい」


 今度はエリスがマリアに返した。凛と前を向くマリアは、決意を固めるようにぎゅとペンダントの石を握り締める。


「救ってみせる、絶対に」


 自らを奮い立たせ、希望を予感させる太陽を見つめていた。やがて、他の守人達も起きてくるとエリスは最下層甲板に降り、台所ギャレーで食事の支度をすると上甲板で皆に料理を振る舞った。海賊達もそれには大喜びで、がつがつと食べる。中には「嫁に欲しい」という者もいるほどだ。


「嫁になんていきませんよ」


 つかれたようにエリスは食事を配り終えると、マリア達の元へ来た。すると、ギルが追い打ちをかけるように「いい花嫁になるだろうなあ」といったのだった。むろん、そのあとエリスに裸締めをされていた。

 苦笑いを浮かべてマリアが見つめていると、隣にクライドが座る。


「良かった。最近の姫様、あまり表情が優れなかったから」


「ごめん、みんなに迷惑かけて。でも、もう大丈夫だよ。ちゃんと進むべき道を見失っていないから」


 マリアの瞳に迷いは見られない。クライドは、ホッと息を吐き出してもう一度、「良かった」と呟くと小さく微笑んで見せた。

 食事も終えて数時間経った頃、港が見えてきた。それを上甲板の端で見ていたマリアが「あれが」と呟けば、すでに降りる準備を終えていたソロモンが隣に立つ。


「ええ、カルセドニー国です」


「ついに来ましたね」


 次にエリスがマリアの隣に来た。マリアは、ペンダントの石を握り締めると自らの不安を除くように凛と前を見据える。

 港は徐々に近づいてきて、船は泊まった。正式な船ではないから、あまり長時間泊めることが出来ないとロベールに言われたので、別れの言葉もそこそこに下りればそうそうに港から離れた。


「陛下の話では、港まで車が迎えに来てくれるそうですが」


 ソロモンが辺りを見回すが、車らしきものは見えない。マリアがエリスに「城はどこにあるの」と問いかければ地図を広げて答えてくれた。


「都市パレスにあるらしいのですが、歩いて行くのはきついと思われます。周りは砂漠に囲まれているらしいので」


 マリアがソロモンに近づくと、困ったような表情を浮かべて首を横に振る。


「どうも、皇帝から使わされたと思われる馬車は見当たりませんね。もう少し、町の中へ入ってみましょうか」


 ソロモンの提案に乗り、町の中へ足を踏み入れる。そこでマリアは目を見張った。こんなにも暑いのに、女性は皆、肌が見えないようにゆったりとした服で体を覆ってしまっているのだ。


「みんな、暑くないのだろうか」


 マリアが呟くとソロモンが「この国では女性は肌を見せてはいけないのです」と告げる。なんでもカルセドニー国にいるほとんどの者が信仰しているコーラン教の聖典で定められているらしい。


「素肌を見せるのは、近親者のみだとか」


「ソロモンは、詳しいね」


「いえいえ、それぐらいしか存じませぬよ」


 なんでもないようにソロモンは言ったが、マリアとしては頼もしい限りだ。そのとき、少し大きめでそれなりに豪華な駱駝らくだ車から男が降りてきた。その男の胸元には、銀製の星を象られたメダルが輝いている。


「ベスビアナイト国の王子、クリストファー・M・アイドクレーズ様で相違ないでしょうか」


 マリア達の前までまっすぐ来た男は、問いかけてきた。マリアが「いかにも」と答えた後、自ら名乗れば男は「失礼いたしました」と答え勅命ちょくめいにより、迎えに上がったことを伝えられる。

 マリア達は、ひとまずほっとして駱駝らくだ車へ乗り込んだ。それから、揺られて数日が過ぎて大都市パレスへと到着した。

 駱駝らくだ車は、皇帝の住まう月の宮殿チャンドラ・マハールの前で止まり、マリア達は降ろされる。そこでは、下女達が待ち構えていて頭を低く垂れていた。挨拶もそこそこに孔雀クジャクの絵が描かれた門をくぐり、宮殿の中へ通される。

 灼熱の太陽が天上に輝いている宮殿は、ベスビアナイト国の城とは違う。屋根が平坦としていたのだ。下女に尋ねてみれば、カルセドニー国では雨はこの時季にしか降らず、雪はまったく降らないのでベスビアナイト国のように屋根を傾斜にしなくとも大丈夫なのだという。


「雪や雨が屋根にたまらないように傾斜にしているのですよ」


 理解している様子のないマリアにソロモンが耳打ちする。なるほどと思うと、すっきりした調子で「ありがとう」とかるく頭をさげた。

 内部に入ってみると、外側からは風の通しが悪いように思われた宮殿であるが、意外にも風通しが良い。それを不思議に思って、また下女に尋ねれば民からは皇族の姿が見えないようにしながらも風の通しはいいように設計されていると答えてくれた。


「すごい」


 マリアが呟けば、ソロモンもどこか感心したように頷く。


「確かに、そうですね」


 そうこうしているうちに下女がある扉の前で足を止めると口を開く。


「こちらに皇帝陛下がお待ちです」


 ごくりとマリアは息を飲んで下女が開いた扉をくぐれば、あとから皆もついてきた。中は、意外にも壁のない開放的な造りで列柱とアーチが屋根を支えているようだ。あとで下女から聞いた話であるが、ここは貴賓謁見の間ディワニ・カースというらしい。

 マリアはあまり観察するのも失礼かと思い、皇帝の前まで来ると膝を折り、優雅にひざまずいた。


「此度はお招きくださり、ありがとうございます。わたしはベスビアナイト国の王子、クリストファー・M・アイドクレーズと申します」


「わたしはカルセドニー帝国の君主、バハードゥルと申す。此度、そなたを呼んだのは貴国との友好を築くため、それなりの催しも行おうと考えておる。ゆっくりしていってくれ」


「ありがとうございます」


 マリアが答えれば、下女が「こちらへ」と告げてマリア達を促す。次にどこへ行くのだろうと考えていると次は第一皇子の部屋のようだ。

 また扉を開けて中を通されると、そこには褐色の肌がよく目立つ者と共にコーラル国の王弟であるアンドレアスがいた。

 マリアが固まっていると、褐色の肌を持つ男が口をひらく。


「あなたがベスビアナイト国の王子ですね。わたくしはカルセドニー国の第一皇子、ジャハーンダールと申します。以後、お見知りおきを」


「こちらこそ、わたしはベスビアナイト国の王子、クリストファー・M・アイドクレーズと申します。愛称であるクリスと呼んでください」


 次にアンドレアスがマリアと視線を合わせて、うやうやしく頭をさげる。


「クリス王子、再びお目にかかることができて光栄です」


「アンドレアス様も元気そうでよかったです」


 見知った顔にマリアが緩んだ言葉遣いをした。ジャハーンダールは気にくわないのか目を細めた。マリアの手を取り、顔をずいと近づける。


「わたくしともぜひ、仲良くしていただけると光栄ですぞ。クリス王子」


「あ、ああ……」


 気圧されてマリアがあいまいに頷いている後ろで、ソロモン達はいい顔はしない。なかなかジャハーンダールが手を離さないものだから、エリスが不快なようすを隠さず何か言おうとしたがソロモンが制した。

 相手は皇帝の息子だ。いくらこちらの国の方が優位であるとしても、皇帝の怒りには触れない方が無難だ。それに敵を増やすのも、得策とは言えない。

 ソロモンの意はよくわかったが、不快なものは不快だ。この場はとりあえず、様子を見守ることに徹した。

 そのあと、マリア達は下女に案内されて、それぞれ用意された部屋へ入る。マリアはやはり国賓というだけあって、用意されている部屋も広く豪華だった。

 ゆっくりしようと思ったけれど、どうも休めそうにない。妙に体は緊張しているし、外と違い涼しい室内との寒暖の差にも体はついていかない。

 短い時間でも寝ようと考えていたのに、寝付けそうにもなかった。困ってしまい、室内をうろつく。こんな時こそ本を読もうと思い、部屋にある本棚から数冊、取りだして開いてみた。だが、カルセドニー国の言葉で書かれており、所々しか文字が読めなかった。こんなとき、勉強がどれほど大事なのか実感する。

 仕方なく本を閉じたとき、扉をたたく音がして返事を返せば扉が開かれた。そこには、先ほど別れたばかりのアンドレアスがいた。


「アンドレアス様、いかがなされたのですか」


「いえ、少しお話ししたいことがございまして」


 アンドレアスの思い詰めた表情に何かあると察し、「それなら、わたしの臣下達の元へ行こう」と告げてソロモンの部屋を訪ねた。ソロモンは驚いた様子であったが、マリア達を部屋へ招き入れてくれた。

 部屋には、ソロモンだけでなく守人達まで集まっているものだからマリアは驚いてしまう。


「みんなは、どうしてソロモンの所に」


「カルセドニー国の第一皇子殿が、どうもいけ好かなくてですね。今後の対策を考えていたのですよ」


 マリアにギルが答える。


「それで、コーラル国の王弟殿はどのようなご用があったのかな」


 ソロモンが視線をアンドレアスに移して言った。アンドレアスは、皆の視線を浴びつつも臆せず言葉を紡いだ。


「“ティマイオス”についてお話ししたいことがあります」


 その言葉にマリア達の表情が強ばる。それから、冷静にソロモンが問いかけた。


「アンドレアス殿は、“ティマイオス”を存じているのですか」


「はい。しかしながら、わたしは正直に言ってそこまで詳しくはございません」


 アンドレアスは自らが知っていることを吐露する。“ティマイオス”と名乗る集団がカルセドニー国を拠点にしていること、コーラル国の司祭バラモンが手を組んでいることを告げた。


「コーラル国は、宗教が根強いので、王侯クシャトリヤよりも司祭バラモンの方が身分は高い。実際、先王バルドルが実権を握るまでは司祭バラモンが政治を行っていました」


「なるほど、つまり司祭バラモンからすればラース殿を玉座から引きずり下ろしたいということですね」


 アンドレアスはソロモンに、こくりと頷く。


「今のところ、コーラル国内で暴動を起こすようすは無いのでこうして、カルセドニー国へ赴いたのですが……」


 アンドレアスの瞳には不安が渦巻いている。その瞳がマリアを捕らえて、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。


「しかも、向こうは城の内情にも精通しているようなのです。そのため、“ティマイオス”は今回、クリス王子がこちらへ来ることを知り、誘拐をしようと企んでおります」


 アンドレアスの言霊が静かな室内に響き渡った。しばらくマリアが険しい表情でうつむいているとアンドレアスはまた口を開く。


「なので、クリス王子。今回の滞在は早めに切り上げた方がよろしいかと」


「いや、むしろ彼らの手に乗ろう」


 マリアにアンドレアスは信じられないと目を見開いて、「危ないです」と忠告をしたが聞き入れる様子はない。


「そうですね、向こうの出方もまだわかりませんから」


 ソロモンもマリアの考えに同調するように言えば、やはりアンドレアスは焦燥の表情を浮かべて「そんな」と呟いていた。


「大丈夫、わたしの臣下はとても優秀だから」


「しかし」


 マリアが凛とした瞳で告げたが、アンドレアスは心配のようだ。心配させまいと手を重ね合わせる。


「ありがとう、アンドレアス様。だけど、わたしにはやるべきことがあるから」


 刹那にアンドレアスは、頬を真っ赤に染め上げて視線を少し下げた。マリアは何もわかっていない様子であったが、ソロモンは咳払いをして「用はそれだけですか」とアンドレアスに問いかける。


「は、はい」


 答えるとアンドレアスは、部屋を出て行った。マリアはなおも小首を傾げていたが、ソロモンが流れを変えるために言葉を紡いだ。


「“ティマイオス”の狙いは未だわかりかねますが、彼らが姫様を誘拐しようとしているということを忘れないようにしておきましょう」


 言葉に皆がこくんと頷く。


「それで、姫様。いかがなさいますか」


「もちろん、予定通り滞在するつもりだよ。あえて何も知らないふりをして、すごすのも良いと思うし」


 ソロモンにマリアが返せば、「そうですね」と呟いてから「常に誰かを護衛につけましょう」ともソロモンは告げる。


「エリス、クライド。二人には、城内を探ってもらいたい。それから、ジュリアには姫様の警護をお願いしたいがいいだろうか」


 エリスとクライドは、ソロモンに「はい」と答えて早々に部屋を出て行く。ジュリアも「御意」と答えるとマリアの隣に来た。


「姫様、今日はお疲れでしょう。これからが大変ですし、しっかり休むためにも部屋へお戻りください」


 ソロモンに促され、マリアとジュリアは部屋を後にする。マリアに当てられた部屋へ向かうため、廊下を歩いているとジャハーンダールと遭遇した。


「クリス王子、探しておりましたぞ」


 引きつった笑みを思わず浮かべてマリアは「それは申し訳ございません」と口先だけで謝罪する。ジャハーンダールは、それを特に気にした様子もなく胡散臭いぐらい笑みを浮かべるとマリアの手を取った。


「クリス王子には、心に決めた相手がございますかな」


 意味が分からなくてマリアは小首を傾げる。すると、ジャハーンダールはさらにたたみかけるように「恋い慕う方はいらっしゃいますかな」と問い、顔をずいと近づける。


「いや、いないが」


 答えながら脳裏にレイヴァンの顔が浮かんだことには、気づかないふりをする。


「では、婚約者はおられますかな」


「いいえ」


「それは良かった。わたくしには弟が三人ほどおりますが、妹も一人おります。歳は十六でクリス王子より年上ではございますが才覚があり、王子の“つれあい”としてふさわしいとわたくしは思っております」


 いきなり何をいいだすのかと思い、ぺらぺらとしゃべるジャハーンダールを呆然と見つめていた。絶句していたマリアであったが、我に返り丁重に言葉を選んでお断りすることにする。


「せっかくですが、わたしは嫁を娶るよりもしなくてはならないことがございますので」


「愛する者が近くにいてこそ、人はその真価を発揮するものでございます。それとも、年上にはご興味がございませんか」


 ジャハーンダールは一歩も譲る様子はないようで、尚も言い募る。困ったようにマリアが「え、えーと」と言葉を選んでいる間に提案を出してきた。


「では、こうしませんか。明日、妹と過ごされてからお決めになるというのは」


「それでしたら……」


「かしこまりました!」


 いうや否や、ジャハーンダールはスキップでもしそうな勢いで廊下を駆けていった。やっと解放されたマリアは、思わずへたりこんでしまう。


「王子、大丈夫ですか」


「ああ、はやくソロモンに相談しないと」


 ジュリアに支えられて、何とか立ち上がるとマリアはソロモンの部屋へ引き返した。ソロモンは驚いてはいたものの、マリアが説明すれば「なるほど」と呟いて、どこか面白そうな表情を浮かべて小さく笑う。


「皇女と“王子”婚姻が成立すれば、カルセドニー国はコーラル国よりも優位に立てる。それを狙ってのことでしょうな」


 マリアはどこか複雑そうな表情を浮かべる。


「皇女にも、選ぶ権利があるのに政略結婚なんて」


「ですが、王侯貴族は政略結婚が常ですからな。権力や地位を勝ち取るためならば手段を選ばない。実にわかりやすい人間だと思いませんか」


 言ってソロモンはコップの中にある紅茶をすする。それから、「そういう人を罠にはめるのが面白い」と呟いてくつくつと笑ったあと、マリアを見つめた。


「それに誰であろうと婚姻を結ぶつもりなんて、はじめからないでしょう?」


「もちろん。わたしには、まだやるべきことがある。それを成し遂げるまでは婚姻など結ぶつもりはない」


 はっきりとマリアが“道”を示せば、ソロモンはにやりと口元にいやらしい笑みを浮かべた。


「もし、レイヴァンからの求婚であっても断るのですね?」


 そこでマリアは、口をぽかんと開けてソロモンを見つめる。まさか、レイヴァンの名がここで出るとは思わなかったのだ。


「ソロモンは妙なことを言うのだな。レイヴァンがわたしに求婚なんてするはずがないではないか」


 今度はソロモン達がぽかんとして固まってしまう。マリアは困惑して「え?」と皆を見回した。その様子から本気で言っているのだとわかると、ソロモンは軽くながして「まあ、それはともかく」と話題を戻した。


「ジャハーンダールの狙いはわかりました。彼はなんとしてでも、姫様に取り入ろうとなさるでしょうから、その辺はお気を付け下さい」


「肝に銘じておく」


 そこで話は終わり、マリアとジュリアはようやく部屋へ戻ることが出来た。すっかり、疲れ果てたマリアは泥のようにベッドの上で沈み込んで眠ればジュリアはそっと毛布を掛ける。いくら気温は高くとも、室内は涼しいから体調を崩しかねない。最近は特に表情が優れなかったからレイヴァンやエリスでなくとも心配してしまう。

 そのとき、軽い物腰でエリスが窓から入ってきた。


「姫様のご様子は?」


「今は落ち着いておりますわ。わざわざ、心配してきてくれたのですね」


 心配性なエリスらしいとジュリアは思ったが、予想は外れて立ち尽くした。


「それもあるのですが――」


「え?」


 何も知らず眠っている“あるじ”の寝顔すら、ジュリアは見ることが出来なかった。



 日が開けて、ジャハーンダールの妹に会わねばならぬ時が来てしまう。

 皇女に会うからとマリアはカバンに入っていた正装を着ることにする。本来は、カルセドニー国で開かれる式典で着る予定であったが、形だけとはいえ見合いのようなことをするのだ。失礼の無いようにと着て、ジャハーンダールに指定された一室へと通される。


「ひめ……クリス様、表情が優れないようですが、大丈夫ですか」


 となりに控えていたソロモンが周りには聞こえない声で尋ねる。彼の優しさに感謝しつつ、「ありがとう、大丈夫」とだけ答えて机の上に置かれたカップを見つめた。やはり、休ませた方がいいと思い、ソロモンが口を開いたときだった。


「あなたがベスビアナイト国の王子様なのですね」


 扉が開いて一人の女性が入ってきた。絹のような美しい薄い茶髪をなびかせ、長いフレアスカートを蝶のようにひらひらとされている。鈴を転がすような愛らしい声と相まって舞っているようにも思えた。


「はい、クリストファー・M・アイドクレーズと申します」


 あくまで王族として礼儀正しくマリアが頭を下げると、女性は鈴を転がすように笑う。


「聞いてはおりましたが、本当に可愛らしいお方。ねえ、レイ」


 次に聞こえてきた声にマリアは目を見張る。


「はい」


 低く心地がよい、いつも隣にあった声。目を見開いて視線をそちらに向ければ、信じがたい姿がそこにはあった。

 それは、マリアにとって望まない形の再会だった。

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