第三章 街道を抜けて

 書類に目を通しながらソロモンは眉を潜めていた。何やらあまりよろしい事では無いらしい。そんな様子のソロモンにクライドが茶をお盆に乗せて持ってくるとコップを机の上へ置いた。


「どうかいたしましたか。表情が優れないようですが」


 クライドが何気なく問いかけるとソロモンは、ぐっと伸びをしてからクライドの方に視線を向けて茶をすすった。


「まあな。すこぉし、陛下に話をしたいことがあるのだが」


「取り次いでみます」


「ああ、よろしく頼む」


 ソロモンの言葉を聞いてクライドは、部屋を出て行くと国王のいるであろう執務室へ向かった。執務室へ入ると国王もまた思案顔でうつむき何やら考え事をしていた。


「陛下、ソロモン殿からお話があるようです」


「わかった、すぐに行こう」


 国王はそう言って椅子から立ち上がると謁見の間では無く“逆の方向”に向けて歩き出した。それを見てクライドは驚いてしまって思わず国王に問いかけてしまった。


「どちらへ行かれるのですか」


「ソロモンの部屋へ向かおうかと」


「陛下自らが行かれなくてもかまわないのでは無いですか」


 国王はまるでその考えの方が初めから無かったかのように驚いて目を見開いた。けれど小さく笑って答えた。


「やはり自分で行くよ。国王だからといって自ら赴かない理由にはならない」


 十分なり得る、とクライドは思わず言いたかったがこの国王に言っても「理由にならない」で通してしまいそうだったのであきらめて国王について行くことにした。

 やがてソロモンの部屋について扉をノックすればソロモンが部屋から出てきて国王を招き入れた。特に驚いた様子も無いからいつものことなのだろうがクライドからすれば驚きの連続だ。


(この親にしてこの子ありか)


 クライドが思わずそんな風に思っているとソロモンに招き入れられ椅子に座ればソロモンが「さて」と呟いて本題へ入った。


「陛下が仰っていた軽減税率のことですが」


「ああ、よい案だとは思わぬか。条件に応じて税率を下げるのだ」


「はい、よぉく存じておりますとも。しかし、陛下。税には三原則というものがございまして公平・中立・簡素でなければならないのです。この軽減税率は、その内の二つも破ってしまいます」


 ソロモンの言葉に国王は「それもそうか」と思い直してしゅんと肩を落とした。 けれどすぐに持ち直してこう言葉を紡いだ。


「しかし、生活必需品の税金が減れば低所得層は助かるのでは無いか」


「陛下、たしかに所得に占める食費の比率は低所得層が多いのは事実です」


 ソロモンが国王の言葉に肯定するように言えば国王は嬉しそうに頬を綻ばせた。けれど次の台詞に打ち砕かれた。


「しかしながら高所得層の方が税を支払う額は多いのです。つまり軽減税率を適用すると負担が大きく減るのは高所得層なのですよ」


 例えば食品に対して軽減税率を適用させると同じ品物でも低所得層よりも高所得層は値段の高い品物を購入するため軽減税率は逆に高所得層を優遇してしまう。


「うむ、そうか。よい案だと思ったのだが」


「確かに“一面だけ”を見れば良いことのように思われるでしょう。しかし物事は多面的に見なくてはなりません。軽減税率がいけないこととまでは言いませんが」


 国王の言葉にソロモンはそう返してから、次にこう言葉を紡いだ。


「では、次にわたくしが“あるモノ”の説明をいたします。それを聞いてどう思うかお聞かせください」


「ああ、わかった」


 国王が素直に頷けばソロモンは「では」と言ってから「あるモノ」の説明を始めた。


「“あるモノ”は重篤な火傷の原因になります。またそれは地形の浸食をもたらしてしまいます。しかも多くの材料の腐食を進行させさびさせてしまいます。さあ、陛下。これを聞いてどう思われますか?」


「そんなもの危ないからそっこく廃棄させる」


 国王の言葉にソロモンは小さく笑った。それから、それはとても難しいことですなと呟けば国王は不思議そうな表情を浮かべる。


「難しいのか」


「ええ、たいへん難しいですね」


 言いながらソロモンはどこか面白そうな表情を浮かべていた。それを見て国王は不機嫌そうに眉根を寄せる。


「何がおかしい」


「いえ、だって、陛下が廃棄なさると申すものですから」


「そんな危ないもの、廃棄した方がいいだろう」


 同意を求めるようにクライドの方を見たが、クライドは“あるモノ”が何か分かっている様子であったのでソロモンに向かって息を吐き出した。


「ソロモン殿、そろそろネタばらしをしても良い頃ではないですか」


 くつくつと笑い出していたソロモンであったが、国王の方を向き直り答えを告げた。


「“水”です」


「……え?」


 答えに国王は驚いて文字通り口をぽかんと開ければ、とうとうソロモンは笑い出した。首をはねられても仕方が無いことであるが、国王がそういう人では無いからかソロモンはお構いなしだ。


「お、お前な」


 わなわなと国王は肩を振るわせて顔を真っ赤にしていった。ソロモンは何とか笑うのを止めて言葉を紡ぐ。


「申し訳ございません。まあ、このように身近なモノである“水”というものもこのように言えば、とんでもない恐ろしいモノに聞こえるでしょう? ですから陛下。どうか情報に流されないようにしてください」


 ソロモンが本当に言いたかったことはそれだったのかと国王は納得して頷いた。その国王の表情は真剣そのものであったがソロモンが未だ笑いをこらえていて顔をヒクヒクとけいれんさせている。

 国王は何か言いたそうにしていたがソロモンにありがとうとだけ告げて部屋を出て行った。刹那にソロモンは吹き出して笑い始めた。それを眺めてクライドはあきれ顔だ。


「ソロモン殿、そんなに笑わなくてもよろしいのではないですか」


「いや、すまぬ。陛下がこんなにもあっさりと引っかかるとは思わなくてだな」


「だとしても、相手は国王陛下ですよ。そんなに笑ったりしたら、国によっては首をはねられますよ」


「ああ、そうだな。我が国の国王がオーガスト陛下で良かった」


 ソロモンの言葉を聞きながらもクライドは、あきれている様子である。そんなクライドにソロモンは、言った。


「そんな顔をするな。いたたまれなくなるだろう」


「自業自得では無いですか」


 辛辣だなあ、とソロモンは呟くとまだコップに残っていた茶をすすった。


***


 一方そのころ、マリアはダミアンと共に街道を歩いていた。レンガで舗装された道は、レジーやエリス、ギルとともに通っていた道よりも遥かに歩きやすい。舗装されているのと舗装されていないのとで、こんなにも違うのかとマリアはしみじみと思った。

 ダミアンはマリアと共に行くのが嫌なのかと思いきや意外にもマリアのペースに合わせてくれていた。そのことにマリアは彼なりの優しさを感じながら街道を通っていく。


「ダミアンは優しいね」


「ああ?」


 マリアが声をかければ不機嫌そうな声を漏らしたけれど頬がほんのりと赤くマリアから視線をそらした。照れている様子である。

 マリアは優しい笑みを浮かべたまま、また前へ向いた。どこまでも続きそうなほど長いレンガ道の脇にはきれいな草原が広がり、さらさらと流れている。思わず足を止めてしまいそうになるけれどダミアンがさっさといってしまうので少し足を止めても急いでダミアンに駆け寄った。それほど長い間、足を止めたわけでも無いのにもうすでにずっと先を行くものだからマリアは慌ててしまう。何とか彼に追いつけば、先に何やら青い屋根の家が見えてきた。

 近づいてくると青い屋根の家は、馬や牛、羊、アルパカを柵の中で放牧していた。牧場と言われるものだろうか。マリアは初めて目にするので目を瞬かせた。


「初めて見るのか」


 マリアがダミアンの問いに素直に頷けば特に驚いた様子も無く「ふうん」とだけ言った。それから、ダミアンは青い屋根の家まで来るとその家の扉を叩く。マリアは驚いてしまって目を見開けばダミアンが「もうここに泊めて貰おう」と告げる。確かに日は落ちそうになっていて辺りは橙色に染まっているが野宿でいいではないか。マリアは思ったけれど、彼が言うのであれば頷くことにした。

 少し経って「はあい」という声と共に小屋から男性が現れた。


「あれ、ダミアンじゃないか。こんなところでどうしたんだ」


「ああ、お前の顔も久しぶりに見たかったし。もうそろそろ日が落ちそうだから、泊まりに来た」


 男性はいぶかしそうな笑みを浮かべて頭をポリポリとかいた。


「泊まりに来ただけだろう? まったく、うちは宿屋じゃねえぞ」


 男性はそう言ったが顔は笑っていた。どうやら、いつものことのようで大して驚きもしない様子だ。それから、男性はマリアの存在に気づき、ダミアンに問いかける。


「その子は?」


「旅の仲間とはぐれたらしい。そんで今は一緒に旅している」


「へえ、お前が他の人と一緒に居ること自体が珍しいってのに、一緒に旅してるのか。これは明日は嵐が来るな」


 そんなわけないだろう、とダミアンは溜息交じりに言った。それから男性に促されダミアンと共に家の中へ通された。

 男性一人が住むには少しばかり大きいが三人で過ごすとなると少し窮屈な佇まいだ。つまり、一人暮らし用なのである。けれど生活するのは十分であるし、台所もきちんと揃っている。他にはマリアが見たことも無い牧場で使うであろう道具、ブラシやホーク等が立てかけられていた。それらに興味津々でマリアは道具に近寄った。


「下手に触るなよ。ケガするぞ」


「大丈夫、見てるだけだよ」


 ダミアンがマリアに忠告すればマリアも素直に答えた。男性はまだやることがあると言って小屋へ向かう。どうやら、放牧していた牛たちを小屋へ戻すようだ。それから動物たちを小屋へ戻し終わると家の中へ入り、ロッゲンブロート(ライ麦で作るパン)とレバーケーゼ(肉をスパイスと一緒に型に流し込んで蒸し焼きにしたものをスライス状にカットしたモノ)をマリア達に振る舞った。質素な食事のように感じられたが十分すぎるほど美味しくマリアはとても満足して男性に礼を言った。


「素直でいい子だね。そういえば、名前を名乗っていなかった。おれはブルーノ」


「わたしは、クリストファー。クリスと呼んで欲しい」


 ブルーノと名乗った男は、「へえ」と呟いてマリアを見つめた。それからマリアを舐めるように見つめるとマリアでは無くダミアンの方が嫌そうな表情を浮かべてブルーノに言った。


「人をそんなじろじろ見たら失礼だろ」


「ああ、悪い悪い。なあクリス、あんたっていいところのお坊ちゃんじゃあないのか」


「まあ、それなりだとは思うが」


 ブルーノの問いにマリアがいぶかしそうにしながらそう言えば、ブルーノは勝手に何かを納得したようにふむふむと唸る。マリアはどこか居心地の悪さと嫌な予感ばかりが渦巻いた。

 夜になり、マリアは毛布一枚を貸して貰うと床で眠っていた。ブルーノとダミアンも同じように眠っているはずであったが何やら話し声が聞こえてマリアは目を覚ました。

 ろうそくの明かりがうっすらと扉の向こう側から漏れている。それと共に聞こえる話し声にマリアはやはり不信感を覚えて扉に耳を押し立てる。木造の扉は声がとてもよく通った。


『あの坊ちゃんをダシに使えば金を巻き上げられるじゃ無いか』


『ばかなマネはよせ。そんなことすれば、この国を追放されるぞ』


『たかだか貴族の息子一人。国王だって、そんなものにかまう余裕は無いはずだ』


 声の感じからして提案しているのはブルーノで反対しているのはダミアンのようだ。


『なんなら、坊ちゃんの持っているモノをはぎ取るか? あの小僧、寝る時ですら何も手放さねえし』


『ふざけるな。やるなら一人でやれ、俺を巻き込むな』


 前者がブルーノで後者がやはりダミアンの台詞だ。 それから出て行こうとダミアンの足音が近づいてくる。すると、その直前でブルーノがダミアンを止めた。


『そう言わずにさ。絶対高価な物の一つや二つ、持ってるぜ?』


 ブルーノは必死にダミアンを説得している様子だ。けれどダミアンは彼には決して応じようとしない。二人の会話を聞きながらマリアは内心、どうすべきなのか迷っていた。逃げるべきなのか、このままここに居るべきなのか。どちらにしても、明日の朝にはここを発つのだから、さっさと逃げてしまってもかまわない。

 けれど、マリアを助けてくれたダミアンを置いて逃げてしまうのは何かが違う気がした。彼が反対してくれているのであればブルーノもあきらめるかも知れない。そう期待を込めてマリアが続きを聞いているとブルーノの声がふと冷めた口調に変わった。


『お前もつまらない人間なんだな』


『何言って』


 ダミアンが零した時だった。何か肉がきれる音がしたと思えば、液体が落ちる音が聞こえてくる。マリアはそーっと扉の隙間から部屋の様子を見ればブルーノが血のついたナイフを手に持っていた。血のしたたるナイフは、血の持ち主であろうダミアンをその銀の刃先に映し込んでいた。刃に映ったダミアンの目がマリアと視線がぶつかれば口が動いて『逃げろ』と言っていた。

 マリアは戦きながらも慌てて家を飛び出した。けれど、後ろからは赤い血のついたナイフを手に持ったブルーノが追いかけてくる。

 躓きながらも逃げていてマリアは、ふと思い出していた。国を追われた日のことを。今はもう追い出したというのに恐怖がまだ体から抜けきっていない。だから、余計に恐くなって逃げることに必死になった。

 しかし、足下がおぼつかないものだから石に躓いてすっころぶ。これを好機と見てブルーノがマリアに覆い被さった。恐怖でマリアは前が歪む。涙が溢れたせいであろうか。ナイフの切っ先がマリアに向けられた。今にも振り下ろそうとしている。


「誰か、たすけて……」


 自分でも驚くほどにマリアの唇からか細い声が漏れた。


「レイヴァン!」


 思わずその名を口にすれば、ブルーノの体は地面にたたき付けられた。驚いて人影を捜せばそこには、ダミアンがおり、彼がブルーノの体に突進したらしかった。ブルーノの方を見れば、地面の上で気絶しているだけのようで息はある。

 マリアは地面の上へ倒れ込んだダミアンに肩を貸すと半ば引きずりながらその場を離れた。このままあの場所にいては、きっとまたブルーノに命を狙われる。ならば少しでも遠くへ行った方がいい。そう思い、マリアは少しずつでも前へ足を進めた。けれどふと、ブルーノの小屋が目に入る。そういえば、ここには馬もいたことを思い出してマリアはダミアンを一度、柵へもたれさせると小屋から馬を一頭、持ち出した。馬を盗むことには抵抗を感じたが今はそんな悠長なことも言ってられない。こちらとしても命を狙われているのだから。

 馬に鞍を付け、ひづめ付け、くつわを付けるとダミアンを先に乗せてから自らも乗った。すると、いつの間に目を覚ましたのだろうか。ブルーノが片眼を抑えながらマリア達の方へ向かってくるでは無いか。マリアは慌てて馬の手綱を引いて駆け出せばブルーノは走ってこちらへ向かってきていたが、やがて足がもつれて地面へ倒れ込んだ。

 それを確認してマリアは、闇の中を馬で駆けた。やがて街道から外れた森の中を進むと湖畔を見つけ、そこで休むことにした。

 馬に水を飲むように仕向け、ダミアンには布を水で濡らして彼の傷口を清めた。


「ぐあっ」


 水が傷口にしみてダミアンは思わず声を上げた。マリアは「ごめん、我慢(がまん)して」と言うと傷口の周りを水で拭い、包帯を巻いた。少し経って落ち着いてくるとダミアンは、ぼそりと「ありがとう」と告げた。マリアはにっこりと微笑んだ。


「当然のことをしただけだよ」


 なんてこと無いようにマリアが答えればダミアンは驚いたようで目を丸くしたあと、少し顔を伏せた。


「ブルーノは友達だったんだ。俺を恐れない数少ない。けど、あの様子だとあいつはただ俺を利用しようと近づいただけかも知れんな」


 ダミアンの言葉にマリアは何も言えなかった。否定できれば良かったけれど、ブルーノは確かにマリアの命を狙ったのだ。そんな人間に義理立てしてやるほど聖人のような心をマリアは持ち合わせてはいなかった。けれど、ふと沸いた考えを口にした。


「だとしても、ダミアンにとっては無二の友だったんだよね。それに確かに今はダミアンを刺したけれど、元からそういうつもりで付き合っていたとは限らないよ」


 何とか絞り出してマリアは言った。決してブルーノを庇うつもりは無い。けれど、落ち込んでいる様子のダミアンに何も言えないのは心苦しかったのもあってそう言った。

 ダミアンは、驚いてマリアを見つめた。それから小さく笑うとマリアの頭を優しく撫でる。


「お前ってお人好しだとか言われないか」


「うーん、言われた記憶は無いけれど」


 マリアが答えれば、ダミアンは笑って夜の匂いが漂う湖を見つめた。


「お前は今まで大切に守られて生きてきたんだな」


「ああ、それが恨みを買われてしまうのかも知れないけれど」


 マリアの言葉にダミアンはどこか嬉しそうに目を細めて空を見上げる。月も星も見えぬ夜であったがダミアンの表情はやわらかい。


「いいや、この世に生まれ落ちた時点で人は誰かにいわれのない恨みをかうもんだ。気にしたらきりがないから、気になんてするモノじゃ無い。それに穢れを知らずに生きるなんて方が難しい。俺はお前が穢れを知らずそのまま過ごして欲しいと思う」


 ダミアンの言葉にマリアは目を丸くしてダミアンを見つめた。彼の目は相変わらず柔らかく優しい眼差しを宿している。紅玉ルビーのような赤い瞳がふとマリアの方へ向いた。あまりにきれいなその瞳にマリアは目を奪われる。


「どうしてそこまでわたしのことを大切にしようとしてくれるの」


「さあな。お前がとんでもない莫迦ばかだからかな」


 笑ってダミアンが言えばマリアは唇を尖らせた。マリアが少し不機嫌になるとダミアンは機嫌を取るように言葉を紡ぐ。


「もちろん、いい意味でだ。ブルーノに命を狙われたって言うのにブルーノをかばうようなことを言うものだから。とんだ莫迦だなあ、とな」


「また莫迦って言った!」


 拗ねたようにマリアが言えばダミアンは念を押すように「いい意味で」と告げる。拗ねた様子のマリアであったが小さく笑って「わかった」と答えた。


「やれやれ、とんだお嬢さんだな」


「そういえばダミアンはわたしが女性だとすぐに気づいたよね?」


 ふとマリアが疑問を口にするとダミアンは困ったように笑う。それからまた湖に目を向けた。けれど赤い瞳の奥には、湖を映してはおらず遠いどこかを見つめていた。


「そんな些細なことは重要じゃねえんだよ。“俺たち”にとってはな」


「ダミアン、あなたは一体?」


 マリアが疑問を口にした時だった。湖から淡い光が溢れて二人の姿を柔らかく照らし出した。それは雲から顔を出した月の光が湖の水に反射して生み出されている。ゆらゆらと湖の中で揺蕩う月影は、繊月であった。

 思わずマリアは、湖の中に映り込む繊月に見とれ、声を漏らした。


「わあ!」


「きれいな月だな」


 マリアも大きく頷いて答え、湖に映る繊月を眺める。幻想的なその景色であればマリアで無くとも見とれることだろう。けれど、ダミアンは湖の方では無く目を輝かせるマリアを見つめていた。


「お前の目も湖みたいな青い瞳だな」


 ダミアンの呟きにマリアは嬉しそうに笑みを浮かべてダミアンの方を振り返る。それから、ありがとうといった後で言葉を紡ぎ出した。


「ダミアンは紅玉ルビーのような瞳をしているな」


 ダミアンは驚いて燃えるような炎の瞳を零れんばかりに見開けば、瞳は月明かりを浴びて紅玉ルビーのように煌めいた。そんな様子のダミアンにマリアは優しくほほえみかける。


「とてもきれいだ。ダミアンの心の中に秘めた情熱の赤」


 やはりダミアンは驚いた様子で、マリアを見つめ硬直する。それから小さく笑えば、立ち上がって少し前へ出た。


「あんたにそう言われると、スゲー嬉しくなる。前へ向けて歩き出したいと強く思ってしまう」


 ダミアンの言葉にマリアもまた立ち上がるとダミアンの隣に並んだ。


「それはきっと自分自身が前へ進みたいと思うからなんだよ。その思いはきっと大切なんだ」


 真っ直ぐに前を向き凛とした声でマリアが言えば木々のざわめきすらもダミアンの耳には届かなかった。ダミアンには、世界には音がマリアの発する声だけのように感じられた。ふとダミアンは、はっとした表情になってまるで何か声が聞こえているかのように辺りを見回す。そんなダミアンをマリアは不思議そうに眺めた。


「どうかしたのか」


「いや」


 マリアの問いかけにダミアンはそれだけを答えて後は口を開こうとしない。彼が何も言い出さないのであれば無理に聞く必要も無いかとマリアが思えばそれ以上、会話は無かった。


 翌日、暖かな日差しでマリアは目を覚ました。気づけば太陽は昇ったばかりのようで空はしらばんでいる。そんな空を眺めつつマリアは立ち上がり辺りを見回せばダミアンが火を起こす準備をし、馬はマリアにすり寄った。どうやら気に入られたようだ。


「おはよう、君も朝早いね」


「馬よりも俺に先に言わないのか」


 言ったダミアンにマリアは、小さく笑ってから近づくと「おはよう」と言えばちょうど薪に火がついた。


「食えるものっつたら、パンぐらいしか今は持って無くてな。大方、荷物はブルーノの所に置いてきちまったし」


 彼の荷物は小さめのカバンとパルチザンだけだった。その小さめのカバンにロッゲンブロート(ライ麦で作るパン)が多少、入っているだけであった。これだけでは食事としては少しさみしい気もするが仕方が無い。

 彼からの恩恵を感じながらマリアはロッゲンブロートを囓った。それから、レンガ道へ戻るとまた馬へ二人でまたがって駆けだした。ブルーノが追ってくることも無いだろうが、少しでも距離を離しておいた方が安心できるということでダミアンが手綱を握り早馬で駆けた。少し経って馬が疲れてくるぐらいになるとダミアンが「ここくらいまで来れば大丈夫だろう」ということで早馬で駆けるのは止めて、近くの川へ行き馬を休ませた。ちょうど、昼時だったのでまたロッゲンブロートを一口囓る。

 休憩を終えるとまた馬にまたがって、街道を進み始めればレンガ道の終わりが近づいてきた。


「もう少し進めばこの街道を抜けてカリフォルナイトという街へ着く。その街を超して舗装してある街道を抜ければ、そこがクサンサイトだ」


「へえ、やはりお主詳しいな」


「褒められることじゃあ無い。旅をしていれば自然と身につくモノだ」


 そんな会話を馬上でしながら進んでいるとレンガ道が途絶え、カリフォルナイトという街が見えた。交易を行っているクサンサイトが近いからか街はどこか活気に溢れマリアには輝いて見えた。


「ここも人が多いんだな」


「ああ、クサンサイトが近いからな。それに見てみろ家の外観」


 馬を止めてダミアンがおり、マリアを降ろせばマリアの目にとても奇異な光景が飛び込む。連なる家々の屋根や壁が明るい色彩で彩られている。まるでキャンパスで描いたような色合いにマリアは驚いた。


「すごくきれい!」


「だろ? ここは絵本のような街って有名なんだ」


 へえ、とマリアが目を輝かせて街を見つめていれば、そんなマリアを見つめてダミアンはほんわりと微笑む。


「街へ行こう」


 ダミアンの言葉でマリアは、はっとなって頷くと街へ下りた。

 街へ下りればダミアンは馬を業者へ預けるとマリアと共に街の中へ足を踏み込む。すると、人々はお祭り騒ぎのように騒がしくけれど、とても楽しそうに皆が笑っていた。中には旅芸人などもいて自ら芸を披露する人間もいたり、また笛を吹いて楽しませる人もいる。本当に祭りのようだとマリアは思った。


「今日は祭りなんだろうか」


 マリアが思わず呟けばそれが聞こえたらしくダミアンは口を開いた。


「いいや、そういうわけでも無いと思うが。そうか今日は市場が開かれるんだ」


「市場?」


「ああ、年に数回あるんだがクサンサイトが仕入れた珍しい品をここで売るらしい。昔は小さな市場であったらしいが交易が盛んになって今ではこの街に国中の人が集まってくるんでお祭りみたいになるんだそうだ」


「へえ、それは楽しそうだな」


 うきうきとしながらマリアが答えたけれどダミアンはどこか表情が優れない。


「どうかしたのか」


「いや、何でも無い」


 ダミアンの態度に疑問を抱きつつ、マリアはただ首を傾げた。

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