Beggar and a little girl(原著:歌田うたさん)
「……死ん……だ? そんなのは嘘……絶対に嘘!」
止め処なく流れる涙を拭おうともせず、少女は踵を返して夜の雑踏へと消えていく。
◇
少女がその男と出会ったのは雲一つない、寒い夜だった。
放射冷却現象——テレビの番組がそんな難しい言葉を並べていたが、少女にとっては寒いという事実だけだった。
そんな夜に見かけた男。
膝立ちで、微動だにせず中空の一点を見据えている。その双眸に映し出されているのは虚無だった——それを見てから、少女は男のことが気になって仕方なかった。
——わたしと同じなのかも。
それだけが男と少女の接点だった。
賑やかな街の雑踏。クリスマスが近付くにつれ、色鮮やかになっていく景色。その中で静寂と灰色に包まれているのは、自分とこの
そんな思いが少女を動かした。
男の前には銀色のボウルが置かれていて、少女はその中に五百円玉を一つ、音も立てずに丁寧に置いたのだ。
「おじさん、何をしているの?」
銀色の硬貨に添えられた、何かしらの色を持った声——だが、灰色に凝り固まった男の色を変えるまでには至らなかった。
次の日。雪のちらつく夜だった。
男はいつもと変わらず同じ場所に居た。同じ服、同じ姿勢、同じボウルを携えて。
少女もまた現れた。昨日とは異なり、紺色のコートとまとい、水色のマフラーをしている。
だが、二人とも辺りからは切り離されているようだった。少女の瞳には男の姿しか映っていない。
駆け寄った少女が声を掛ける。
「おじさん、何してるの?」
男の虚無だった瞳が一瞬大きくなり、そこに少女の姿が映り込んだ。しかし、それはすぐに虚無に呑み込まれた。
自分に言葉が掛けられたことを驚いたものの、久しく人との接点を持たなかった男は、どう対処していいのか分からなかったのだ。
少女は、一瞬でも自分の言葉に反応してくれた男に喜びを覚えて、次の言葉を紡ぐ。
「おじさん、一人なの?」
男の頭が小さく動いた。
少女の顔が少しだけ綻ぶ。
——ちょっとだけでも心が通じたのかな。
少女の番えようとした次の言葉は、無粋にも蹂躙された。
「困るんだよね、ここで物乞いをされちゃあ。ほら、立ち上がって。ここから立ち去ってください」
そう言って駅員は、無理矢理男を駅の外に追い出した。
居場所を失った男は、駅前広場のベンチで空を見上げていた。
追い掛けてきた少女が銀色のボウルを差し出す。
「これ、忘れていったよ」
そこには一枚の千円札——少女が入れたもの——があった。
年端もいかない子供が金を自由に出来るはずもないが、少女にはそれが幾許か出来た。その金は元々少女の夕飯代である——家が商売を営んでいるので、誰も夕飯の支度が出来ない。なので、少女に持たせたものだった。
だが、少女は自分のための金を、男にのために使った。
「お金、嬉しくないの?」
少女は男の瞳が何かで満たされるのが見たかった。
昨晩、少しだけこちらを見たとき、短い時間ながらも男の瞳に自分の姿が映るのが嬉しかった。
——また、わたしの姿が映るといいな。
淡い期待を持った少女であったが、その期待は叶わなかった。
男は僅かに少女を見た。しかし、その瞳には何も映っていなかったのだ。
——どうしてそんな目をしてるの? 目は心の窓だよ? 心がからっぽなの?
辛くて悲しくなった。見るほどに胸が締め付けられる。
少女の心を代弁したのか空も泣き出し始める。だが、雨は凍て付く寒さで粉雪となっていた。
「ねえ、おじさん。雪だよ。おうちに帰ろうよ」
その言葉に応えるように男が立ち上がり、のろのろと歩きだす。だが、心配を向けてくる少女には目もくれず、背中を丸めて駅を後にした。
少女が後ろからついて行く。
粉雪は次第に数を増し、男と少女の肩に頭に降り積もっていく。
ふと、男が立ち止まる。少女も少し遅れて立ち止まる。そこはコンビニの前だった。
少女の息が一瞬白さを増した。ほっとした溜息だ。
——何か温かい食べ物でも買ってこないかな。
少女の息がまたも白さを増す。しかし、今度は拍子抜けの溜息だ。
男がコンビニから出てきて、少女の前に立っていた。その手には色付きの傘が握られている。
「雪が降ってる」
初めて男が言葉を発した。傘を少女に差し出しながら。
男の思ったよりも若い声とその行動に戸惑った彼女は首を横に振る。
「おじさんが使いなよ。おじさんのお金だよ」
だが、男は無言のまま傘を差し出したまま立っている。
その場で時間さえも凍り付いたようだった。微動だにしない、男と少女。
ざぁ——
風花が舞う。
「どうして?」
答えはない。
傘を手にしたとき、男が残した一瞬の笑顔——少女の双眸にはそれが焼き付きついた。
男が背を向けた。ゆっくりと歩き出す。雪の中に消え去るように。
声を掛けようとした。声が出ない。
後を追おうとした。足が動かない。
少女が動けるようになったときには、男の姿は何処にもなかった——
◇
「——死んだなんて嘘。絶対に嘘——」
呪文を呟くように少女は夜の街を彷徨う。
前に見た駅員から男が自殺をした、と告げられても少女は絶対に信じなかった。
「嘘……うそ……嘘だよ、そんなのう……そ」
瞳に溢れる涙。それが脇から飛び込んできた目映い光に置き換わったのは次の刹那だった。
「えっ?」
瞬時に目を閉じた。
どん——
嫌な音と共に、少女の身体が宙を舞った。
◇
「危ないなぁ。飛び出しちゃいけないよ」
聞いたことのある声に少女は振り返る。
「おじ……さん。……やっぱり生きていたんだね。よかったぁ」
心からの安堵の声。男の顔は柔和に微笑んだが、少女の問いには答えない。
「……君からもらった暖かさ。それは私の凝り固まった心を解きほぐしてくれたんだよ。だから、私はそれを胸に、新しく生きていくことにしたんだ」
「新しく?」
「そう、新しく。だから、もう行かなくちゃいけない」
「どこに?」
「あの扉の向こう」
男の後ろには大きな黒壇の扉がある。
「じゃ、わたしもついて行きたい」
男は微笑んだまま首を振った。
「駄目だ。君は後ろにある扉から出るんだ——」
男の言葉に少女が振り返ると、そこにはもう一つの扉。それは白く、光に包まれている。
男が続けた。
「——私はね、これからサンタさんのところに弟子入りしようと思うんだ。だから、いつか君のところにプレゼントを届けに行く。だから、君はあの扉の向こう側で待っていて欲しいんだ」
「うん、わかった。絶対、わたしのところにプレゼントを届けてね! 約束だよ!」
少女が差し出した小指に、男の小指が絡みつく。
身体の中に暖かな心が流れ始める——
◇
「……ここ、は?」
目を醒ました少女はベッドの中に居た。目の前にいた女性が嗚咽を漏らしながら抱き付いてくる。
「ママ?」
その様子を見守っていた白衣の女性は一礼をして踵を返すと、ゆっくりと部屋を後にした。
こつこつ、とリノリウム張りの廊下歩く女性が呟いた。
「——あれだけの事故でほぼかすり傷なんて。奇跡かしら、ね。……サンタさんが守ってくれたのかしら?」
(了)
オリジナル:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885346464/episodes/1177354054885346470
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