竜王、天蓋竜

 天も地もない、透き通る青い空。音も匂いも――何もない。

 俯瞰的に見れば、王の私室から繋がった扉だけが空に浮いていた。

 しかしアレンは迷いなく一歩踏み出す。

 落下することなく、アレンは空を歩いていく。


「落ちんのか!? 何で落ちんのじゃ!」

「俺も分かんねえよ。だがそこにいてもあいつは出てこねえ。来い。大丈夫だ」


 ショコラと手を繋いだままココは屈み込み、アレンが歩いた場所に触れる。

 何かがある。何かは分からないが、確かにある。


「だっ、大丈夫ですココちゃん! 最悪落ちても転移魔法で戻れますから!」

「うむ……!」


 大丈夫と言うショコラの声も震えている。しかしここで踏み出さなければ竜は現れず、魔王城へも行けない。

 ぎゅっと固く目を瞑り、ココは一歩踏み出した。


「すごいのじゃ、空を歩けるのじゃ……!」

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよぉーっ!」


 ココに手を引かれるかたちでショコラも空を歩く。その顔は既にひきつっている。

 落ちないから大丈夫という問題ではない。

 足元には何も見えない。遥か下まで果てしなく空が続いている。

 これは本能に訴えてくる恐怖だ。

 足元を見ないようココとショコラは早足に歩き、アレンに追いつく。アレンに腕を絡ませ、ショコラは絶対防御のページを破った。


「これ、急に足場が消えるとかないですよね!?」

「前に戦った時は大丈夫だったけどな。おーい! どこだ出てこーいっ!」

「ここだ。まあ座れよ」


 その声はアレン達の後ろから聞こえた。聞き覚えのある声だ。

 振り返れば白いイスとテーブルがあり、ティーセットが人数分置かれている。そこに一人の少年が腰掛けていた。

 見覚えのある姿にココは叫ぶ。


「クロード!? おぬしが竜じゃったのか!?」


 不敵な笑みを浮かべる少年は、銀髪という一点を除けばクロードと同じだった。

 よく知る者ならクロードはこんなふうに笑わないと言っただろう。それだけの違いだ。


「こいつはクロードじゃねえ、竜だ」

「その通り。俺が竜を統べる竜にして竜窟の王、天蓋竜ゼルテニアだ。魔族に会うのは久しぶりだな」

「竜……!? この人が……!?」


 ショコラは距離を取ろうとしたが、腕を絡ませているアレンは逆に竜へと近付いていく。


「そう恐れてくれるな。俺は他の竜とは違う。いきなり襲い掛かるような真似はしないさ。なあ、アレン?」


 天蓋竜の用意した白いイスに腰掛け、アレンは言う。


「頼みは前と同じだ。魔王城へ行きたい」

「ほう? 相変わらず欲のない男だな。君らも掛けたまえよ。最近にしては悪くない茶だ」


 ティーポットが宙に浮き、カップにお茶を注いでいく。ココとショコラはアレンの様子を伺い、恐る恐るイスに座った。


「……戦わんのか? おぬしはなぜクロードと同じ顔をしておるのじゃ」

「もちろん少しは遊んでやるさ。俺はあいつが好きでね、それだけの話だ。魔族、お前の名は?」

「ココじゃ。ココ・ジャグスリバグス。魔王じゃ」


 ココが名乗った時、天蓋竜の顔からすっと笑みが消えた。


「ジャグスリバグスだと? アレン、魔王がいながらまた天空城へ行きたいとはどういう事だ?」

「自力じゃ戻れねえからお前に頼んでる。冗談で言ってる訳じゃねえ」


 天蓋竜は前のめりになり、ココをじっと見つめた。


「どうやら本当のようだな。随分と滑稽な話だが、まあいい。つまりお前も天空城へ行く事が望みか。メリッサ、お前は?」


 そう言って天蓋竜はショコラに顔を向けた。ショコラは周りを見回し、自分の顔を指差した。


「私、ショコラなんですけど……?」


 天蓋竜は眉をひそめ、怪訝そうに尋ねる。


「何を言っている? お前はメリッサだ。姿かたちを変えた程度で俺を騙せると思ったか? ならば侮蔑と受け取るが」

「だから違いますって! どちらのメリッサさんと間違えてるのか知りませんけど、私はショコラです!」

「…………どういう事だ?」


 天蓋竜は戸惑っているようだった。ショコラをじっと見て、苛立ちを抑えるようにお茶を口に含んだ。

 お茶の香りをくんくんと嗅ぎ、少しだけ口に含んでココは尋ねる。


「メリッサというと、伝説の魔法使いのメリッサかの? よく分からんが、そうなら二百年ぐらい前の話じゃぞ?」

「二百年……そうか、人間ならとっくに死んでいるのか。俺が見違えたというのか……?」


 腑に落ちない様子だが、咳ばらいをし、天蓋竜は改めてショコラに尋ねる。


「ではショコラ、お前の望みは何だ?」

「一緒です。魔王城へ連れていってください。お願いします」

「揃いも揃って欲のない連中だな。俺は馬ではないのだが、まあいい。気に入った。これを飲んだら少し遊んでやる」

「ふむ。……変わった竜じゃな? どうして人間の姿をしておるのじゃ?」


 ココだけがお茶に口を付けていた。アレンは動かない。座ったまま、その手――剣に触れている。


「人間に似せた訳ではないさ。創造主に近付いた。魔族が知っているか知らんが、人間の姿は創造主を模して造られた。究極はここに至る。それだけの話だ」


 天蓋竜の言葉に迷いはない。自らを究極と言ってのけ、揺るぎない。

 だからこそショコラは問う。


「……でも、一度アレンさんに負けてるのでは?」

「ほう、興味深い話だ。アレンがそう言ったのか?」


 ショコラはアレンを見遣った。アレンは答えない。

 いつでも剣を抜ける姿勢で、天蓋竜を見据えている。

 天蓋竜は笑い、ショコラは尋ねる。


「……もしかしてアレンさん、こちらの竜さんには勝ってない……?」


 アレンは答えない。それが答えだった。

 天蓋竜はティーカップを空にし、ソーサーに置いた。小さくかちゃりと音がした。

 それが合図だった。


「では、また会おう」


 天蓋竜から発せられた別れの言葉。

 それはあまりにも唐突で、ココやショコラが理解する前に、それは起こった。

 それとは、即ち。


「『斬り落とす』ッ!!」


 抜剣、天蓋竜の首を狙い最速の斬撃、しかし剣は空を切った。

 否。

 正しくは天蓋竜が空に溶けていた。

 イスもテーブルも、ココが手にしていたカップすらも空に溶け、座っていたココとショコラは姿勢を崩し、ショコラは偶然にもそれを見た。

 それとは、即ち。


「空が……崩れてる?」


 ひび割れ、瓦解し、崩れ落ちてくる青い空。

 あるいは天蓋竜のドラゴンブレス。


「ショコラッ! ココを頼むッ!」

「はっ、はいっ!」


 高く跳んだアレンは落ちてくる空に挑み、ショコラはココをぎゅっと抱きかかえた。

 不意打ちではない。天蓋竜は確かに言っていた。

 これを飲んだら遊んでやる、と。

 対するは竜を統べる竜にして竜窟の王、天蓋竜ゼルテニア。

 今、戦いの火蓋が切って落とされた。

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