「千早」

「千早という女郎を知っているか」おろちのあらまさは出し抜けにそう聞いた。「知っている」と蜥蜴丸は答えた。「お前にそっくりだ」あらまさは続けた。「俺は抱いてて不思議な心持ちだったよ」蜥蜴丸はついと酒をあおった。抱いたのか、人の母親を。私の生まれは遊郭だというところまで父に聞いている。どこかの遊女が生んだ子どもだと。それを知りたいと思わなかったことはない。私の住む世界と、遊郭は遠く離れているが、産んだ親の顔を一目見たいと思う気持ちは消し難くあった。だから私はひそかに調べたことがある。そうして千早という遊女にたどり着いた。親子といわれれば確かにそうだ。千早は私よりもっと愛嬌のある顔をしているが、美人だと思った。私は千早の存在を心の奥に仕舞った。もう彼女に会うことはないし、彼女が私のことを知ることはない。


「相談があるんだが」おろちのあらまさはいった。「千早は病を持っている」「このまま放置すればいずれ死ぬ、あいつはもうすぐ年季が明ける」「それなのに残る命が短いというのは不憫だと思わないか?」蜥蜴丸はあらまさのまどろっこしいいい方に苛ついた。「色街にも医者がいるだろう?」「それがだ」と、あらまさはまだまどろっこしい、ずいぶん酒を飲んでいる。余計に思考がまとまらないのだ。「色街の医者では治せないというのだ」「別のある街にいる名医に診せないといけないらしい」「それで?」と蜥蜴丸はいった「お前に千早のふりをして欲しい」とあらまさはいった。手筈はこうだ、蜥蜴丸が千早の身代わりになり、その隙に千早を連れて色街を抜け出す。そして医者の元にいって病を治してくる。「なあ頼む、お前にしかできない仕事だ」蜥蜴丸は考えていた。「なぜ、そこまでして千早を?」「野暮なことを聞くな」「年季が明ければ、共に暮らす約束をしている」ふん。蜥蜴丸はなんだか気分が悪くなった。千早は母親だと思う、その母親を幸せにしたいと思っている男が目の前に居て、蜥蜴丸に共に母親を助けようというのだ。「つまりお前は私の義理の父親になるのか」ふふっと蜥蜴丸は笑った。


「では、手助けするために条件を出そう」蜥蜴丸はいった。「私に色事を教えろ」おろちのあらまさはたじろいだ。「色街に忍び込むのだ、色事を知らないのでは話にならないだろう?」その時の蜥蜴丸も少々酔っていたのかもしれない。本音が出た。「お前なら抱かれてもいい」「それは……」「……できない」あらまさの言葉は意外だった。「そうか」蜥蜴丸は目を伏せた「では他のものに頼むとしようか」あらまさは掴みかかるように腕を伸ばした「そんなこと絶対駄目だ」「駄目だ蜥蜴丸」ふふっと蜥蜴丸は笑った「では無知のまま、女郎屋に来た客の狒々親父に抱かれろというのか?」「それは私が嫌だ」あらまさは困った。頭を掻いて、腕組みしてそこらじゅうを歩き回った。あらまさは意を決していった「俺はお前が好きだ」そして蜥蜴丸の目をのぞき込んでいった。「だがそれは、俺の好きな女にお前が生き写しだからだという気がしている」「それでお前を抱くのは、お前に失礼だと思う」蜥蜴丸はふふっと笑うといった「お前はいい男だな」最初からわかっていた。こいつはいい男だと。「ではせめて、口の吸い方を教えてくれ」蜥蜴丸はそういって、その言葉に顔が熱くなるのを覚えた。そんなはずはない、蜥蜴丸はおろちのあらまさの顔を上手く見れなくなって目をそらした。そんなはずはない、そのくらいのことで、私がたじろぐはずがない。


しばらくして、蜥蜴丸の隣にあらまさが座った。そして蜥蜴丸の肩に手を回した。「こっちを向け」頭の後ろからあらまさの声が聞こえる。「お前の本名を知りたい」あらまさはいった。「千早は自分の名を教えてくれたぞ」蜥蜴丸はあらまさを見た。信じていいのだろうか。あらまさの目の奥をのぞき込む。それは澄んでいた。「私の本名は千歳だ」「ちとせ……」耳元で名を囁かれると身体がぞくぞくした。あらまさは蜥蜴丸を抱き寄せると、その唇に自分の唇をあわせた。やわらかい肉が触れた。酒の匂いと煙草の匂い、汗の臭いがした。熱い息、甘い感触がした。突如、蜥蜴丸の胸はあらまさへの思いでいっぱいになった。思わず貪るように唇を吸った。あらまさはそれを受け止めた。蜥蜴丸が心ゆくまであらまさの唇を吸うのを待って、あらまさは蜥蜴丸から顔を離した。「蜥蜴丸……この話はなかったことにしよう」「俺のことは忘れろ、俺には千早がいる」蜥蜴丸は目を伏せた、自分がこんなにあらまさを想っていたことに驚いていた。「それがいいのかも知れないな」蜥蜴丸はそう思った。


蜥蜴丸はすっと身をひるがえすと、おもむろにあらまさに抱きついた。「何もいわずに抱いてくれ」「これは仕事だ、私はお前からの仕事を受ける」


遊郭に千早として入って、三日は月の物ということでごまかした。だが四日めになって、それは通用しなくなった。客と共に寝る。身体を触られながら、あらまさの身体を想った。このまま二人が戻らなかったら、ここで暮らすのも悪くない。殺しをしなくてもよい、血を見ることもない。いい仕事のように思えた。蜥蜴丸は男の身体から自分の身体に液が排出されたのを感じた。それはあらまさにはされていない。どれだけ頼んでもやってくれなかったことだ。ふと、心に悲しみが飛来した。客に気づかれないように蜥蜴丸は涙を流した。女になった。どこの誰ともわからない、好きでも何でもない男の子種を受け入れた。蜥蜴丸はあらまさを恨んだ、あの男が好きだと気づいていなければ、これがこんなに辛くなかったのではないか。


やがて千早は帰ってきた。蜥蜴丸はあらまさには会わずに、千早と入れ替わった。母さん、お幸せに。そう祈ると蜥蜴丸は闇に消えた。(2018年3月7日 了)

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