3月7日「蜥蜴」
一日一作@ととり
「蜥蜴」
満月が煌々と闇夜を照らしていた。やがて右から雲がじわりと近づいてくる。見ていると月を雲が侵食していく。月はあらがうように雲の隙間を見つけては、光を地上に届ける。雲の裏から月が透けて見えていた。だがそれも、時間の問題で、雲の中心が近づいている。厚ぼったい雲では、さすがの満月も光を通せないだろう。暗闇になった。
鼻に草のにおいがした。俺は闇雲に剣をふるった。手ごたえはない。脇腹に冷たい感触があった。血の匂いが鼻を突き、脇腹に湿り気を感じる。痛みはまだ来ない。右耳に草を踏む音が聞こえた。蜥蜴が身をひるがえす音と同じだ。とどめは刺さないのか。俺は全身の力を抜いた。じくじくと切られた脇腹が痛み出した。胴がすでに自分のものではない。俺は刀を地に刺して杖のようにすがった。最後くらいこうやってもたれてもいいだろう。そういえば刀にこうやってすがってばかりの人生だった気がする。こいつは父が形見分けでくれた名刀だ。俺は主も女も数えきれないくらい変えたが、この刀だけはいつも変わらずそばに置いていた。
「とどめは刺したか」森の奥の闇の中から声が聞こえる。「いいえ」「あれはもう長くありませぬ」私は闇に向かって手をつき頭を下げた。「蜥蜴丸、おぬしはいつもそうだな」「とどめを刺せといっておるではないか」「申し訳ありませぬ」私は地に頭を着け詫びた。「まあよい、行け」蜥蜴が動くような微かな草を踏む音がした。風が揺らぐ。そこにはもう誰もいなかった。
おろちのあらまさ、とそいつは名乗った。ふふっと私は鼻で笑った。それは、ちはやぶる神代も聞かずの大昔の有名な剣の名ではないか。ではと私は言った「蜥蜴丸だ」もちろん本名ではない。いつかいわれたのだ。「お前は主様の懐刀だ。魑魅魍魎が現れたら瞬時に飛び出し、成敗して鞘に戻れ」「妖刀、蜥蜴丸のように」それから蜥蜴丸と名乗るようになった。
「蜥蜴丸、次の仕事はなんだ?」あらまさは屈託なく、人の耳の多い料理屋で聞いてくる。俺は鍋をつつきながら、答えた「碁を打つ」「なんだそれは」「碁は白と黒の石だろう?」私は笑った。そしてあらまさに顔を寄せ、囁いた。烏城だ。カラスのしろ。つまり碁だ。私は身を離すと鍋をかき回し、椀に盛ってあらまさに渡した。そうかとあらまさは答えた。
「備前には詳しいと聞いた」それを聞いて、旅支度を整えたあらまさは、私を振り返った「詳しいというほどではない」あらまさは手を振って否定した。「昔、なじみの女が備前に居てな」「いろいろと聞いたことがあるくらいだ」ふふっと私は笑った。「吉備津彦というのを知ってるか?」「昔の話でな、うらという鬼を三人の家来とともに倒したのだ」「次の仕事は備前で三浦俊蔵という男を調べることだ」「鬼が出るか蛇が出るか」そう私がつぶやいたのを受けて、あらまさがいった「江戸の蜥蜴が出るのだろう」ふふっと私は笑った「蜥蜴だけで済めばいいのだがな」
私は隠密だ。父は遠く伊賀の出身だというが、父と私の血はつながっていない。どこかの女郎が生み捨てた子どもを父が連れて来て育てたのが私だ。こういう仕事には身分の定かでない者が適任だと考えてのことだ。私は伊賀直伝の忍びの術を仕込まれて育った。子ども時代を振り返ると、辛い日々だった。それでも私は父を慕っている。父が仕えた江戸城に、陰ながら仕えることを誇りに思っている。私がこうやって生き延びて、職を得ているのは、父や主のおかげだと知っているからだ。
備前は春だった。江戸より暖かいせいか、江戸ではまだ固く閉じたままだった桜のつぼみが、ここでは美しく咲いている。あらまさはいった「まるで桃源郷だな」そうだなと私は思った。このまま安芸の宮島でも見物して江戸に帰れたなら、どれだけ平和だろうか。三浦の俊蔵はこれまでの調べでは、商売人に雇われた素浪人だという。おろちのあらまさはでかい身体を器用にかがめて、山道を登る。だがその実態は、岡山藩に雇われている、隠密だというのだ。「隠密……」私は考えた。隠密くらいどこの藩も内々に持っている。それだけでは処罰の対象にならない。「暗殺か?」私はあらまさにたずねた。そうだとあらまさはうなずいた。「暗殺をしすぎたのだ」「三浦の俊蔵という名は今月に入って急に聞かれ始めた。これは岡山藩が密かに流した情報なのだ。恐らく岡山藩は困っている」「暗殺に利用していた三浦の俊蔵を持て余しているのだ」それで江戸まで聞こえる噂を流した。江戸からの密偵を利用すれば、後腐れなく始末ができると。「では、三浦を切ればいいのだな」「有無を言わさず切れば終わりか……」あらまさはうなずいた。
町に着いた時、宿を取ろうと私がいうと、あらまさは落ち着きを無くした。一部屋でかまわない、夫婦のふりをすればよい。そう続けるとさらに体を失った。「だが、お前……」「私は独り身だ、決まった男もいない、遠慮はいらない」私は素早く宿屋を見つけると、そこに決めた。布団は二組敷いた。私を抱きたければ抱けばいいし、その気がなければ結構なことだ。明日は早い、寝よう。そう私はあらまさに声をかけた。奴は居心地悪そうに、部屋の隅に座り込んでいる。可愛い奴だ。先に寝るぞ。そういって、私は布団にもぐり込んだ。あらまさに背を向けて目をつぶっていると、背中で気配がした。奴の息づかいが聞こえる。あらまさは私の背中から手を回すと、抱き寄せた。奴は私の耳元で囁いた「こうやって、誰とでも寝るのか?」私は答えた「今まで仕事は一人だった。男が出来たこともないよ」あらまさの手が私の胸に触れた。「俺をどう思っている?」「凄腕だと聞いている。女好きなのが玉に瑕だとも」「恐らく、主は私とお前をくっつけたいのだ。身よりのない私とお前を落ち着けるにはくっ付けるのが一番だとね」「主命と思えば逆らう理由もない」私は目を硬くつぶった。「身体に力が入りすぎている」あらまさは私の身体を撫でた。「上半身だけ借りるぞ」そういうとあらまさは私の襟元から中に手を突っ込んだ。肩をはだけ、首筋と胸元を露出させると、私の胸を揉んだ。あらまさの腰のあたりで何かが動く。奴は手淫を始めた。胸を揉み、首筋を噛み、熱い息をかける。四半刻ほどして、あらまさは激しく息を吐きだした、青臭い不思議な臭いが私の鼻をついた、どこかで嗅いだことがある。不思議な臭いだ。「ありがとう」そういうとあらまさは私の身体から離れた。私は乱れた襟元を直すと、何事もなかったように布団にもぐり込んだ。胸は揉まれすぎて痛いくらいだった。「お前、まだ若いんだな」背中で隣の布団にもぐり込んだあらまさはいった。「二十代後半かと思ったら、まだ十代か?」「なぜそう思う?」「胸だよ」「まだ硬い」私は顔が熱くなった。「知らないまま抱かなくて良かった」「いい男を見つけて、幸せになれよ」やがて後ろから、静かな寝息が聞こえた。
三浦俊蔵をおびき出すのは簡単だった。満月の夜、私は三浦を切った。とどめは刺していない。間違いなく致命傷を負わせたはずだから。こんな仕事をいているが、人が死ぬのは嫌いだ。そんなもの生きた魚をさばくようなものだと、おろちのあらまさはいう。あいつはあれから私の家を見つけ出して、何かと入りびたるようになった。私はあらまさが釣ってきた鯉をさばこうと悪戦苦闘していた。刀に持ち替えたほうが上手くさばけるんじゃないか?と柳影を呑みながらあらまさはいう。ふふっと私は笑った。(2018年3月7日 了)
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