第25話 終わる世界

 それは、非常に魅力的な提案にルクスには聞こえた。

 カリスの囁きはルクスにとって即効性の催眠術であり、強烈な毒薬のようなものでもあった。

 心の奥底では、ルクスだってカリスと二人だけの世界を望んでいた。それこそ、こんな物悲しい景色でなければ最高の愛の言葉にだと感動したかもしれない。

 ぴたりと寄り添ったカリスの声は幼い少女のものだったが、紛れもなく発言の内容は今のカリスの心から出たようにしかルクスは思えなかった。だからこそ、幼いカリスとしてではなく、自分のよく知るカリスに向けるようにしてルクスは語りかける。


 「……確かに、カリスと二人だけの世界はいいよな」


 「じゃ、じゃあ! 本当にずっとここにいようよ! 他の怖い大人は絶対に嫌だけど、ルクスとならこんな暗闇でも一緒にいられるよ!」


 振り返るルクスは、今にも飛び跳ねそうなカリスの肩をやんわりと押した。最初はルクスが自分の体を押した理由が分からずにきょとんとしていたカリスだったが、それがルクスからの拒絶だと理解したことで一気に表情に不安の影が差した。


 「でも、ここは俺とカリスが住むには寂しすぎるよ。俺達が望んだ世界は、間違いなくこんな寂しい世界だったのか。俺達に新たな生きる道を示してくれた人達は、本当にこんな世界で生きていくことを望んでいたのか。……たぶん、違うと思う」


 「ち……違わない。だって、ルクスもこんな世界を望んでいたはずよ! 二人でいれば、絶対に傷つけられる心配なんてない。二人だけの幸福しか生まれない世界! こんな場所、こんな幸せ、こんなところ……他にはどこにもないわ!」


 カリスはスカートの裾を掴みながら、いやいやと頭を大きく横に振る。その姿は、紛れもなく幼児であると同時にカリスでもあった。

 ルクスは知っている。カリスの願いは、理解のできる祈りのようなものだった。それは、ルクスが願ったことだ。

 自分を愛してくれる人だけの世界にずっと居たい。外に出てしまえば、二度と愛した世界は、温もりに溢れた世界は帰ってこないことを。知っているからこそ、ルクスは帰れない辛さも……喜びも知る。


 「俺はカリスが大好きだ! ずっと二人で穏やかに過ごせたら最高だよ! でもな、俺はカリスを好きになったからこそ、トゥリア達がくれた幸せしかない世界から出て行くことを決めたんだ! 絶対的な幸せな世界なんてものは、この世には存在しない! だけど、俺はそこから出たからこそ、手に入れることのできる幸福も存在するんだ! 約束する、例え苦しい未来だとしても、そこには幸せがある! 俺にとってカリスが居たように、カリスには……俺が居る!」


 沈黙したままのカリスの顔をルクスはじっと見つめていた。その表情は、驚いたようにも息苦しそうにも見えた。


 「ルクス……私は――」


 ――ぴちゃり。


 この世界を終わらせるきっかけになるはずだったカリスの発言は、質量を持った水音に止められた。いや、そんな曖昧なものではない。今の確かに海から何かが陸に上がって来たような足音。

 ぴちゃり、とおそらく二歩目が踏み出された音ではっきりと何かが近づいていることを認識する。


 「何か来る!」


 咄嗟にカリスをルクスは自分の背中に下がらせれば、音のしている暗闇を睨みつける。本来なら、暗闇というのはいずれは目が慣れてくるものだが、体感しているこの島を覆うような暗闇は決して慣れることはなかった。

 闇が蠢いたかと思えば、暗闇に赤い光が二つ浮かんだ。遅れて、それが左右の目だということに気付けた。すると、蠢きはより活発になり、全身を暗闇で覆われた人型の生き物が姿を現した。闇の一欠けらが、人形の怪物を覆う体毛のように体に張り付き、さながら山奥に生息する大男のような生物を連想させる。

 暗闇の怪物は一体だけではない、最初に実体を出現させた怪物の後ろからぞろぞろと赤い目の怪物達がやってくる。


 「――いやあぁぁぁぁぁぁ!!!」


 悲鳴を発したカリスに視線を移せば、ルクスは強烈な光景に目を見開く。カリスは頭を抱えてうずくまり、地面に頭を擦り付けて、謝るように何度も小さな声で「すいません、ごめんなさい」と繰り返す。年齢不相応に気丈に振る舞っているようにも見えたカリスは狼狽し、ただただ恨みの言葉のように謝罪を続ける。

 何が善で、どれが悪か、正しさも不明なままだったが、少なくとも現時点でのカリスを脅かす存在は知ることができたルクスはカリスを庇うようにして前に出る。


 「お前らが何なのか俺には分からない! だけど、カリスを悲しませる存在は絶対に許さない!」


 拳を構えたルクスには何一つ武器はなかったが、それでも明確な敵の存在により活力が満ちてきているのをひしひしと実感していた。


 「安心しろ、カリス。俺は絶対にお前の側にいる。何があったって離れない」


 「どうして……どうして、そこまで……」


 ガタガタと震えるカリスは落ち着くことはないが、一筋の光に縋るように弱った声でルクスに問いかけた。


 「何度も言わせるな、恥ずかしい。……俺がカリスを好きなだけだ!」


 「ルクス……」


 怪物が一歩前に踏み出した。ルクスは全神経を集中させる。ここが、カリスの心の中であるというなら、本来の戦い方は通用しないかもしれないが、それでもここで背を向けるという選択肢はルクスの中にはなかった。

 さらに、怪物が一歩踏み出すと他の怪物達も不揃いなリズムでさらに踏み込んだ。

 直後――。


 ――カリス、さあ、おいで。おじさんと遊ぼう。


 「な……!?」


 怪物が動くと、声が聞こえた。聞き間違えるはずがない、はっきりとした人間の声だった。

 どういうことか分からぬままルクスはカリスを見れば、相変わらず酷く怯えている。

 再び、怪物達が蠢く。


 次は、ルクスの視界の中に幼いカリスと一人の男の姿が浮かんだ。

 幼いカリスと手を繋ぎ、かくれんぼをして追いかけっこをして、最後にその男はカリスに飴玉をあげた。嬉しそうに頬張るカリスの頭を撫でれば、「明日も来るんだよ」と囁く。

 カリスは何一つ疑うことなく、「うん!」と頷いた。


 呆然とするルクスに怪物がさらに接近する。


 それはまだ何も知らない、平和なカリスの姿。今のカリスよりも、ずっと幼い。

 当たり前のように母と父がいて、三人で食卓を囲んでいた。見ているだけで温かな空気が伝わり、トゥリアの家にいたことをルクスも思い出した。


 蝋燭の火を吹き消すように、カリスの幸せな思い出の光景が消える。

 ルクスの前には相変わらず近づいてくる異形の怪物達の姿があった。何故、このような醜悪な怪物達から今のような温かな景色が浮かぶのだろうかという違和感が残る。しかし、ルクスの違和感を誰も答えることのないまま次の回想へと進行する。


 広い草原でカリスは男と遊んでいた。

 カリスは男に何でも話をした。母と父のこと、三人で村や町から離れて住んでいること、そして、家の場所。

 両親が不在の際、いつも一人で過ごしていたカリスにとっては、謎の男は不審な人物というよりも良い遊び相手でしかなかった。

 何度目か遊んでいたある日。ふと、男は「そろそろか」と口にした。

 「どうしたの?」と聞いたカリスの頭を男は優しく撫でると、「さようなら、もう君に会うことはないだろう」とだけ口にしてカリスの前から男は消えた。


 ルクスは膝をついた。次の展開が理解できてしまった。幼いカリスは気付いていなかったが、あの男からは眩暈がしそうなほどの……血の臭いがした。

 そして、目を逸らす暇もなく、ルクスはその現場をカリスと共に目撃する。


 家に帰宅したカリスが見つけたものは、惨殺された両親の姿だった。

 幼いカリスは混乱した思考の中で泣き叫び、喚き散らした先で、絶対に到達することのできなかった答えに辿り着く。

 全てあの男が仕組んだことだった。家の場所を知り、両親の家に居る日を聞き、そしてカリスの相手をしている間に殺害したのだ。

 何時間も泣き続け、母の用意していた夕食の香りに気付きまた泣き、父が用意してくれていた旅先での贈り物を見つけて止まったと思っていた涙が溢れ続けた。

 絶望に頭を抱えていたカリスの隣に、気付けば一人の人物が立っていた。

 男は言った。

 「遅かったか」


 気付けばルクスも涙を流していた。それは、強いカリスの感情が流れ込んできていたからだった。

 異形の怪物達は既にルクスを覆おうとしていたが、ルクスには抗う力がない。カリスの味わった絶望にルクスは声を上げることもできない。


 新たに現れた男は、シルバハルトの人間だった。

 男はカリスの両親がシルバハルトの一人で、ウェアウルフを狩っていたことを話し、ウェアウルフによって殺害されたことを聞いた。

 後は簡単だった。温かな時間が血塗れた思い出に変わった瞬間、カリスはシルバハルトの一員としてウェアウルフを殲滅することを心に決めたのだ。


 異形の怪物はルクスの髪を引っ張ると地面に叩き付けた。これがカリスの苦しみだ憎しみだ。お前は、ウェアウルフであることを自覚して、カリスの為に死ねと。

 聞こえてくるはずのない怨嗟の声にルクスは、異形の怪物になす術もなかった。悪夢は続く。


 シルバハルトの訓練は苦しいものだった。苦しいという言葉では甘い程に。

 肉体を強化し、強引に魔素に適用した肉体に改造し、痛覚すらいじる。戦う為に体を作り、戦うことしか知らない体へと到達させる。

 いつしかカリスは根底にあった穏やかさを奪われていった。もし、次に笑えることがあるとすれば、それは死んだ時か全てを忘れた時だろうとカリスは考えていた。誰もいない、暗闇の奈落に落ちていきながら。


 異形の怪物にルクスは首を絞められながら、ぼんやりとカリスのことを考えていた。

 復讐の炎に焼かれながら、死ぬことでしか追われないカリスの絶望に自分が死にかけていることを忘れていた。

 抵抗する気すらないままのルクスに赤い瞳が次の過去を映す。


 「簡単な任務だ」

 そう言われたカリスは、とある村に潜入した。

 ウェアウルフが潜伏しているというので、カリスは他数名のシルバハルト共に向かった。

 向かった先はどこにでもある民家であり、どこにでもいる家族が民家の中で食事をしていた。

 呆けたようなカリスを無視し、他のシルバハルト達は家に上がり込むと、殺戮を開始した。

 「待ってくれ、俺達は人を襲わない!」「子供だけは助けてください!」「ただ、生きているだけなのに!?」

 悲鳴と泣き声、先輩のシルバハルトに手を引かれたカリスの前に縛られた子供が放り投げられた。

 「――そのガキは、ウェアウルフだ。……分かるな?」

 消毒だと言いながら、燃え盛る民家。そして、足元の心が壊れた子供。

 喚き、泣き、謝罪をしながら、カリスは――子供に最後の一振りを――。


 「こんなことって……」


 ルクスは呟いた。まだ息があるようだが、先程と同じく首を絞められたままの景色に変化はない。

 ただ永遠に苦しみを与えることを目的のように、殺しもしないまま異形の怪物はルクスの顔を覗き続けた。


 感情を殺してカリスは任務を続けた。

 疲労を重ねた肉体を休ませるために、貪るように睡眠を取れば、必ずといって良いほど死の間際の子供の顔が目に浮かんだ。

 既に壊れていた心だ、どちらにしても先は無かった。それでも、罪悪感がカリスを苦しみ続け、目覚める度におびただしい量の汗を流していた。

 いつしかカリスは、死を望んでいた。


 「……だめだ」


 それだけは、絶対にダメだとルクスは考える。生きるという意思が、無意識にルクスに力を与えて、伸ばした腕が異形の怪物の腕を掴んでいた。


 「死んでは……ダメだ!」


 いとも容易く、ルクスの右手は首を絞めていた怪物の腕を粉砕した。血飛沫一つ上がることなく、埃が舞うように闇が散れば、異形の怪物は後退する。  

 異形の怪物の集団が戦法を変えるように、二つの赤い目が一斉にルクスを睨んだ。


 死にたい、消えてしまいたい、どこか遠くで溶けてしまいたい、辛い、生きていたくない……。

 聞いているだけで胸抉られるようなカリスの声がルクスの心を重くさせる。深呼吸をしたルクスは、覆い被さろうとする闇を拳の一振りで払う。


 「――死ぬことで、罪は消えない! 俺達は生きながらにして、咎人なんだ! 俺は奴隷で、大勢の仲間の苦しみを耳にしながら偶然に生き残った。それも、罪だ。……カリスも、生きる為に命を奪った。それすらも、罪でしかないんだ! 俺達にできるのは、罪を背負い続けて生きていくしかない! 逃げるな、生きて戦え! 奪い取った命を無駄にするなっ!」


 いつしかルクスの姿はウェアウルフに変身していた。長い爪を振り回し、大きな口で異形の怪物を噛みちぎり、闇に包み込まれようとするカリスを抱きかかえて飛翔する。

 ルクスの腕に抱かれたカリスは、衰弱し弱りきっていた。

 島を覆いつくそうとする異形の怪物を眼下に、それがカリスを追い詰める罪の形であることを理解する。


 「まだ、それでも消えたいと思うなら……俺と一緒に罪を罪と呼ぶことすら、馬鹿らしくなるぐらいの幸福を手に入れよう! 俺達は逃げて、走って、醜く生き抗うしかない! 例え、いつ消えるかも分からない命だとしても、最後の瞬間は心の底から幸福だったと笑い合おう! 罪は消えない……だったら、その罪ごと幸福になってやる!」


 もう一度、強くカリスを抱きしめた。たったそれだけのことで、ルクスは力が漲ってくるのを感じている。

 きっとカリスの心が前を向かなければ、この絶望は終わらない。もしかしたら、永遠に悪夢を見せられるかもしれない。それでも、とルクスは口角を歪める。


 「悪夢のような光景でも、絶望しかない世界でも、俺達が二人で居れば……幸福でしかない!」


 右手を広げ、指先の爪が闇の中で踊るように輝く。

 爪の輝きにはっとして空を見上げたルクスの背後には、闇が晴れ、大きな月が輝いていた。

 そして、小さな笑い声。


 「……ルクス、おっかしい。真面目な顔して、そんなめちゃくちゃなことを言うなんて」


 ルクスの胸に抱かれていたカリスは、指を口に当ててクスクスと笑っていた。その体は、ルクスのよく知る大きさに戻っていた。


 「そうだ、本来なおかしなことだ。でも、俺達からしてみれば、ただの真実だよ」


 優しく目を細めるルクスにカリスは顔を赤くすると、ルクスの口の端にキスをした。


 「お願い、ルクス。――徹底的に、この世界を壊して」


 「ああ、君の為に世界を壊そう」


 今までは全てを奪おうとしていたこの暗闇の世界が、カリスの意思の変化によりルクスに力を与えている。

 いつしかウェアウルフのルクスの背中に翼が生え、左右の爪はさらに鋭く、まるで磨き上げられた剣のように立派なものに変わっていた。カリスを抱えていた手を離せば、ルクスの首にカリスは手を伸ばしてしっかりと落ちないように掴んだ。


 「荒療治になる、落ちないで掴まっていてくれ」


 カリスは青空を彷彿させるような、爽やかな笑顔で頷いた。


 「――ええ、貴方とならどこへでも」

 


  

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