第24話 君を救うためなら闇にだって

 ごく僅かな時間、ルクスは完全に意識を失っていた。

 意識を完全に取り戻した時、ルクスは夜の海に浮かんでいた。

 ルクスは海に触れたこともなければ、海というものを見たのもマリリアと一緒に船に乗る時が初めてだ。それでも、自分は暗い夜の海に漂っているのだと自覚できた。

 記憶を失う直前の出来事を思い出せば、急に幽霊のようだった体が忘れていた質量も思い出したかのように体は急激に重たくなる。慌てて手足をバタつかせて姿勢を正すが、それでも体にぶつかる揺れる波にぐっと堪えるしかない。

 川で泳ぐこと以上に海で自由に動くことの困難さを肉体で感じながら、何とか持ち前の運動神経で海上でバランスを取ることに成功する。


 (とにかく、泳ぐしかない)


 何かに憑りつかれたように一心不乱に手足を動かして進むことにしたルクス。

 ここが精神的な世界だからか、不思議といつまでたっても息苦しくなることも疲労を感じることもなかったが、夜の闇の中で自分の海を掻く音だけがばしゃりばしゃりと響くのは酷く寂しい音に聞こえた。

 こんな寂しい場所にカリスは居るのだろうか。

 もうしばらくは海で泳がなくていいかもしれないとまでルクスが泳ぐという行為に飽き飽きしていた頃、指先が何かざらついた物に触れた。


 「ん!?」


 驚いて顔を上げると、そこが陸地であることにようやく気付いた。砂浜に顔を埋めていたことに気付いたルクスは、顔を擦り、口から泥を吐き出すと小島に足をついて立ち上がる。

 そこは、本当に小さな小さな島だった。まるで、居場所のないカリスが土と砂を必死に掻き集めて作り出した脆弱な居場所のようにも見えた。

 島には木が一本も無かったお陰で、すぐにその存在に気付くことができた。


 「カリス」


 名前を呼ぶ。見間違えるはずなんてなかった。幼いカリスが膝を抱えて、島の中心に座っている。何かに怯えるように、ガタガタと震えていた。

 カリス、ともう一回名前を呼びながら近づいた。


 「だれ……」


 ようやくカリスが顔を上げた。突然、現れたルクスの姿に狼狽したようで、目を逸らすことができずにいるようだ。

 このままではまずいと感じたルクスは、膝を曲げてカリスにやさしく呼びかけた。


 「俺だ、俺はルクス。……分からないか?」


 相変わらず怯えた様子で首を横に振るカリスにルクスは胸が締め付けられそうになる。

 何を弱気になっているんだと心の中で己に喝を入れたルクスは、カリスに微笑みかけながら手を差し出した。


 「ここは、暗くて寂しい場所だろ。俺なら、ここから外に連れて行ける」


 カリスを連れ出しさえすれば、必ず記憶は戻るはずだと信じて伸ばした手が握られるのをルクスは待った。しかし、思っていた反応とは違うものだった。


 「――嫌! 私から、離れてっ!」


 ルクスの手を払いのけ、カリスはルクスを突き飛ばした。力はさほど強いものではなかったが、拒絶されたショックの方がルクスの踏ん張る力を弱体化させた大きな原因だった。

 呆然としていたルクスは、大急ぎで体を起こすとカリスを見つめた。


 「俺は、君を助けに来たんだ! 信じてくれ!」


 必死に食い下がるルクスからは少なくとも悪意だけはないことは分かったカリスは、少しの間葛藤してから口を開いた。


 「いきなり現れて、そんなこと言われても……信じられないわ。だって、私は……あなたを知らない」


 二度目の強いショックだった。ルクスは、絞り出すように声を出す。


 「……俺のこと、忘れちまったのか!?」


 気味の悪いものを見るような眼差しのカリスは、当然だとばかりに二度ほど強く頷いた。

 はっきりしたことが一つできた。目の前のカリスは、外見年齢の姿と中身が同じになってしまったようだった。




                          ※



 ――それから、数十分、いや、数時間は経過したかもしれない。


 空腹も便意も感じないこの世界では、時間の長い遅いなんてさほど関係ない。ただし、精神的な疲労という意味では間違いなくルクスは消耗していた。

 あれからいくつか質問してみたが、カリスは一向に自分のことを語ろうとしない。それもそうだと、怪しげな場所で初対面の男から親しそうに声をかけられれば不気味に思うのも当然の反応だろうと気持ちが落ち着いてきてから、ようやく納得できた。

 ルクスとカリスは、近すぎず離れすぎずという間隔で座っていた。相変わらずカリスは両膝を抱いて座り、ルクスはあぐらをかいて気まずそうに寄せては返す波の動きを眺めていた。


 「……あなたは、私の何?」


 まるでいじめられた後の動物のようなカリスの質問に、ルクスは戸惑う。

 互いの気持ちは伝えたので、それなりの関係ではあるが、それを口にしたことはない。それなりに、それの、それなのだが、つまるところ曖昧な関係である。


 「やっぱり、怪しい人?」


 疑惑の目がさらに強くなり、ルクスはしばらく悩んだ末、思ったことをそのまま口にする。


 「ち、違う! その、君は、一時的に俺のことを忘れているから、俺が君のことをとやかくは言えない。だけど、俺は俺のことなら話せる。……俺は、君のことを大切に思っている。さっきも忘れられて、凄く残念な気持ちになったし、今も悲しい。それなのに、おかしな話だけど……元気なカリスとこうやって話ができることが、たまらなく嬉しくもあるんだ。カリスを信じさせるものなんて一つも持っていないけど、一つだけ言えるのは、俺がカリスのことを大切に思っていることだけは信じてほしい」


 「んなぁ――?」


 心の底から吐き出されるルクスの言葉に、カリスは今まで生きてきて経験したことのない頭の先が熱くなるようなおかしな感覚になれば、みるみる内にカリスの頬は朱色に染まっていった。


 「カ、カリス!? どうした、顔が赤いぞ! まさか、どこか具合悪いのか……!」


 「わわわ、悪くないっ。悪くないわっ! だ、だから、あんまり近づかないで! ばかぁ!!!」


 「え、えぇ――!?」


 さっき拒絶された時とは違い、まるで触れ合うことを楽しむかのようにカリスは心配そうに顔を寄せるルクスをぐいぐいと両手で押し返そうとする。ルクスのありのままの気持ちが、先程よりもぐっと二人の距離を縮めたことは、目標であるカリスも当事者であるルクスも気付いてはいない。

 しばらくじゃれあっていた二人だが、いつしか互いに気が楽になったのか地面に横になっていた。見上げた空は、相変わらずの暗闇だった。まるで、自分達の未来のようだともルクスは考えたが、今隣に居るカリスとならこの程度の暗黒飛び込んでいけると思えた。


 「……ルクスは、どこか行っちゃうの?」


 水面に波紋が打つようなカリスの一声にルクスは返答する。


 「どこにも行かないよ。俺は、ずっとカリスの側にいる」


 「ほんと?」


 「本当さ。君は知らないけど、俺は約束したんだよ」


 ルクスの一言にカリスは拒絶することはなかった。ルクスも、自分の発言が乾いた地面に染み込むようにカリスに伝わったことは理解できた。


 「何で、私は知らないのかな……?」


 「それは……」と一度言いよどむルクスだったが、意を決して言葉を続けた。


 「……君は、悪者に追われて、酷い怪我を負ったんだ。その時に……俺のことを忘れてしまった」


 全てを話すことはできなかったが、カリスはルクスが隠そうとしていることを追及するような真似はしなかった。だが、悲しそうに「そうか」と呟いた。

 静かな波の音に耳をすましていると、ふいにぽつりとカリスは言った。


 「ルクス、もうこのままここで一緒に暮らさない?」


 「え!?」


 自分よりも十歳以上離れている少女の言葉にルクスは飛び起きる。子供とは言っても、カリスはカリスなので、ルクスにとってはドキリとする発言だった。

 想像以上の驚きを見せるルクスを見て、カリスはおかしそうにケラケラと笑う。


 「はははっ、おっかしいー」


 「へ、変な冗談言うんじゃない!」


 子供に馬鹿にされているような気持ちになったルクスは、変な汗をかいていることに気付いて慌てて汗を拭う。動揺している自分を隠すように、ルクスはカリスに背を向けた。


 「ルクス、怒った?」


 相手の様子を伺うようなカリスの声に、ルクスは背を向けたままで答える。


 「……少しだけな。馬鹿にされたのが嫌とかじゃなくて、言われた時に……俺は、二人だけの世界もいいなって思ったんだ。俺に戦いを教えてくれた師匠は、孤独への願望こそが弱さと語った。俺に愛を教えてくれた人は、一人になるのは簡単だ、二人になるのは少しだけ難しいが、全てを壊すのはどんな道を選ぶよりも単純で愚かだと教えてくれた。要するに……破滅を望んでしまった弱さが、悔しかったのさ」


 最後までルクスの言葉を黙って聞いていたカリスは、上着でもかけるようなやんわりとした仕草でルクスを背中から抱きしめた。

 少し驚いたルクスだったが、あまりにも優しげなカリスの抱擁に気持ちは静かになっていく。そっと、カリスがルクスの耳に息を吹きかけた。幼いカリスから出ているとは思えない、甘い吐息にルクスの背筋がぞくりとした。

 そして、カリスはそっと囁く。


 「――ずっと、この世界に一緒に居ようよ」


 

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