第20話 全てを失わないための疾走
深い闇の中に、カリスは居た。そこはまるで、体から意識だけを抜き取られ底の見えない水の中に放り込まれたような世界。
(これは、死……?)
死後の世界とは、もう少し温かいものだとカリスは考えていた。
悩みや、苦しみや、葛藤から解放される唯一の世界だと。
(なんだ、思ったよりも冷たくて……嫌な場所じゃないか)
そう思い至った時、カリスは疑問を覚えた。
自分のいた世界は、最初から暗くて冷たくて苦しい場所だったはずだ。むしろ、そんな自分からすれば、こんな世界は昔から望んでいた静寂というものじゃなかったのだろうか。
何が、自分を変えたのか。
(……ルクス)
一つしかない、ただ一人の存在が静寂を苦痛に思わせた。
静けさが当たり前に寂しく、当然のように温もりを欲した。その全てを、ルクスが与えてくれた。
消えかけた命の灯が輝きを取り戻すように、虚ろな輪郭を取り戻そうとする。
(帰りたい、あの場所へ帰りたい)
手を伸ばす。
しばらく生き抗い続ければ、その闇はまだ死後の世界に至っていないことに気付いた。
今なら見える。己の目の前に広がるのは、魔素の大河。あまりの密度に気付かなかった。
魔素の大河、即ち高密度の魔力の流れ。であれば、アレはまだ見ぬ自分の内に眠る力ということだ。しかし、許容量を超えた魔素は己の肉体や精神を崩壊させる。カリスも過去に何人も復讐に燃えて力の制御を見誤った者達を見てきた。
だが、今のカリスにそんな些細な恐れはない。躊躇は一瞬、魔素を吸収するように心を近づける。
(ルクスを失えば、私は死ぬと同じ。力を貸して、私の為に居場所も平穏も人間すら捨てた……彼のために)
鉄砲水が噴き出すがごとく、魔素がカリスを飲み込んだ。
※
「――まだ、終わってないわよ」
民家から出て行こうとするアーキラが、本来なら聞こえるはずのない声に振り返る。
「よっぽどぉ、しぶと~く生きてきたようねえぇ?」
不満そうなアーキラの視界の先には、血まみれの腹部を右手で押さえながら立ち上がるカリスがいた。
右手の指先を額に当てるアーキラは、酷く面倒くさそうな顔をした後にカリスを睨む。
「アーキラ。貴女は、絶対にここから出さない」
「へえぇ、今の弱りに弱った小娘風情が、よくそんな大口叩けること。笑っちゃいそうよぉ」
言いつつ、アーキラは手の甲を唇に当てておかしそうに身をよじらせて笑い声を上げる。
確かにカリス自身、既に肉体の限界を超えていることを察していた。だが、今立ち上がったのは死ぬ為ではなく、生きて彼の側に帰る為だった。
信じるしかなかった。内側で渦巻く魔素の爆発を飼い慣らすしかない。決心をしたカリスが、ナイフの刺されたばかりの傷口に指先を差し込んだ。
「ああぁっ!」
悲鳴を発したカリスの奇行とも呼べる行動に、気が触れたのかとアーキラはさらに高笑いをした。
ゲラゲラと笑うアーキラの声だけを雑音に感じつつ、カリスは
血液が指先から流れれば、手首や腕を染めていく、次第にそれがただの血ではなく、己に循環する魔素の一部であることを自覚する。ああ、と認識すれば、先ほどまでと別人の自分であることが容易く実感できる。
「やれやれぇ、何が出るかと思ってはいたけどぉ……時間の無駄になりそおぉねえ」
呻くカリスへと誇示するように、再びアーキラの胸元から例のグロテスクな眼球が出現する。
「さっさと、決めるわぁ。――ゴルドアイ、彼女の時間を停止させない」
次は完全に首の骨でも折ってしまおうとアーキラが考えつつ、時間停止の魔術を発動させる。それで、全てが終わるはずだった。だが、ゴルドアイで狙いを定めたはずの、そこには――カリスの姿は見当たらなかった。
「――はぁ?」
調子のとんだようなアーキラの驚きの声が、アーキラしか存在しない民家に響いた。
まさか、幻か何か見せられて、逃げてしまった後なのか。いやいや、そんな時間も余裕すらも――と思考していたアーキラの体が民家の壁に突然叩き付けられた。
顔面を蹴られたのだと理解したのは、アーキラの前に魔素で瞳を赤くしたカリスが足を下したのを見た時だった。今までアーキラの立っていた位置にカリスが入れ替わるようにして凛と立つ。
「くっ……。まさか、消えていた……!?」
アーキラの質問にカリスは人が変わったように、ゆっくりと首を横に振る。
「そんな凄い魔術は私には使えない」
「嘘をつくな! それとも、魔術薬の類か!? お前は、異能か!? 教えろっ!?」
「狼になって力強く守ることも、人魚になって海を泳いで守りたい人達を逃がすこともできない。そんな私にできることは……」
発言しようとしたカリスの視線がアーキラから外れたのを見逃すことさない。
「油断したわねぇ! ――停止しろ!」
カリスの時間は止まるはずだった。しかし、アーキラの魔法をすり抜けるようにして、カリスは再びそこから姿を消した。
愕然とするアーキラは腹の下を抉られるような痛みに襲われた。ひぃっと息を強引に吐き出したアーキラの視界の下には、アーキラの懐に潜り込み真下から拳を叩き付けるカリスの姿があった。そこまできて、カリスはようやく真実を声にする。
「最後まで聞いておけば良かったのにね。――私にできるのは、ただ走るだけ。それも、早く、速く、高速で、光速で、疾風のように、誰にも認知されない時間のように。私は……駆ける」
はっとアーキラが気付いた時には遅かった。
まだこの刹那には、ゴルドアイの時間停止の魔法をかける余裕もあったのだが、そう考えるよりも動揺が上回ることで、最後のチャンスを失った。
カリスは決してアーキラの考えているような、出来損ないでも捨て石でもなかった。
忘れていたのだ。そして、忘却していた力は、死の瀬戸際に己を使えと主を求めた。結果、消されていた記憶は復元する。
自分には、研鑽された最強の武器があるのだと。
シルバハルトに選ばれた暗殺者の持つ強力な魔術を持つ一人だった。それは、誰よりも高速で動き目に留まることもなく、誰かに気付かれることもない。ただひたすらに、素早さだけに特化したカリスの磨き抜かれた魔術――。
「――速度の概念を超越する、魔術ハイルドラーガ」
カリスはアーキラの視界に飛び込むことすらできない速度で駆けて、次から次に地面に落ちることもできないまま、見えない壁にでも殴られるようにしてアーキラに連打を叩き込む。
「油断したのは、貴女よ」
連打。アーキラは、頭二つ分以上宙に浮いたままだが、顔面は形を変えていく。
「時間を停止するなんて、大嘘。停止できるのは、この私だけ。正確には、貴女の視界で念じた物体だけね。それも、停止できるのは……ただ一つ」
連打。アーキラの手足はおかしな方向に曲がる。
「まだ、ただの素人なら良かった。まだ、どこにでもいる追手なら加減した。……でも、お前はシルバハルト――完膚なきまでに叩き潰す」
連打の勢いを増していけば、その空間には見えない誰かに高速で殴られながら天井に浮き上がっていくアーキラの悲鳴が響き渡った。
※
辛うじて生きているだけのアーキラを民家に放置し、ルクスを助ける為に進もうとしたカリスは力が抜けていくのを感じて倒れこんだ。
何十分も潜水でもしていたかのように意識が朦朧とするのを精神力だけ這って進もうとするカリスの前に、影が差した。
やっとのことで顔を上げれば、上からキャロルが見下ろしていた。心配そうに半泣きになりつつ、声をかけているが、その声もカリスの耳には届かない。
魔素が体内に流れたことで、多少は体も頑丈になってはいたカリスだったが、どうやらナイフに刺された傷は深く、心よりも先に肉体が限界を訴えていた。
涙を拭ったキャロルが意を決したように、カリスの上半身を重たそうに抱きかかえる。全く体に力が入っていないので、それも当然である。
「大丈夫です、後は私にお任せください」
何を馬鹿なことをと笑い飛ばしそうになるカリスの耳に、それだけがはっきりと聞こえる。
すると、淡い光の温かさに包まれれば既に限界を迎えていたカリスの意識は途切れていった。
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