第10話 暗い月夜に凍える闇夜

 部屋を出たカリスは、足音を立てないように部屋から出るとそろりそろりと暗い廊下を進む。

 いくら広い屋敷とはいえ、何度か行ったことのあるカリスは迷うこともなければ躊躇もなくトゥリアの部屋に到着した。

 ドアノブに触れたところで、部屋に鍵が掛かっていることにすぐに気づいたカリスはそこからゆっくりと離れると、スムーズな動作でトゥリアの部屋の前の廊下の窓を開けた。ここでも一切の音を出すことなく、窓枠に足を乗せれば、顔を出して人に見られていないことと足場の確認を終えて窓伝いに屋根に登った。

 猫のような身軽さで屋根を俊敏な動きで横断すればトゥリアの部屋の窓を眼下に見下ろす。


 「今日は闇夜。獣を狩るには良い日ね」


 屋敷の屋根から森を見渡せば、カリスの頬を風が撫でた。いつまでも風に当たっていたい気持ちになるが、時間はそれほど多くはない。

 屋根から宙にカリスは身を投げる。そのまま重力に引かれたままなら地面に落下してしまうところだが、非凡な身体能力からトゥリアの部屋の窓枠を片手で掴んだ。振り子のように壁に吸い寄せられるようにして、空いた方の手で窓枠をがっしりと掴む。両手で完全に落ちないようにすれば、そっとトゥリアの部屋を覗いた。

 カーテンの隙間から部屋を覗き込めば、盛り上がっているベッドが確認できた。

 用心深いトゥリアは予想通り、窓の鍵を閉めていた。夜も鍵を閉めたり閉めていなかったりするルクスとは大違いだ。

 時間をかければ鍵を開けることもできるが、例え数分だとしても命取りになる。であれば、強硬手段でいくしかない。


 「我が肉体は迸るだけの血であり、失せる熱すら呼び起こす炎である」


 窓の枠に丁度良い取っ掛かりを見つけて、そこに左手の指を掛ければ、自由になった右の手の平がカリスの『魔術の詠唱』によって赤金色に発光を始める。


 「嗚呼、熱いなら触れよう。嗚呼、熱いなら逃がしてしまおう」


 濁るようにしてカリスの目の色が赤に変色する。肉体が魔素を取り込んだ証である。

 右の手の平が魔術を使用した者にしか嗅ぎ取れない焦げ臭い匂いを感じれば、ほぼ完成したようなものだ。


 「――バンドラーアド」


 カリスの手の平が溶解した鉄の断面のような灼熱を帯びる。窓に触れれば、どろりと窓ガラスは液状に変化した。

 念じた肉体の一部分に魔素を流入させることで全てを灼熱によって溶かす魔術『バンドラーアド』。一旦、カリスは魔術を消すと穴の溶けた窓ガラスの穴から手を突っ込み、鍵を開けた。

 声に出すわけにはいけないので、よし、と心の中で呟けば、あっさりとトゥリアの部屋への侵入に成功した。

 何かに躓かないように、足音を立てないように、慎重にベッドまで歩み寄った。シーツを顔まで被っているようで、トゥリアの表情は見えない。だが、カリスからしてみればそっちの方が好都合だった。


 (いつだって殺しは、顔が見えない方がやりやすい)


 忌まわしい幾つかの過去が頭の中に浮かぶが、躊躇はすぐに自分の死に繋がる。標的の元へ潜入し情が湧き、油断したことから死んでいった仲間達のことを思い出せば自然とやる気に繋がった。


 (バンドラーアド)


 一回、体内に魔素を取り込んだことで簡単に右手に灼熱の手の平が宿る。拘束された場合や侵入する場合に使うことが多いこの魔術だったが、鉄や石すら溶かす手に触れられればまともな人間なら息絶える。


 (まずは顔を溶かすことで口を消滅させて悲鳴を上げさせない。そのまま手を押し付けて、首から上を全て焼き切る)


 残忍な殺害方法ではあるが、凶器を持ち込む必要もなく、状況次第では誤魔化すこともできるカリスからしてみれば非常に万能な魔術だった。


 (さようなら、狼のお姫様)


 屋敷での日々を振り返れば、信じられないぐらい楽しい時間だったのかもしれない。それでも、ここでずっと生きることはカリスには許されない。どの道を選択しても、何かを失い何かを奪わなければいけないのだ。

 腕を振り上げれば、脳裏にあのお人好しな少年の顔が浮かんだ。どこの誰かも知れない人間を屋敷に招き、善人だと信じて物事を教えた。彼の恩人であるトゥリアを殺せば、きっと彼はもうお人好しではなくなる。いや、きっと復讐に狂う一匹の獣を生み出してしまうかもしれない。


 (ごめんなさい、ルクス……)


 もう二度と戻れない幸福な日々に別れを告げ、手を振り上げたその時だった――。


 「――食事の支度ならよそでしてくれ」


 「は――」


 少女の声に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになったカリスは、一瞬にした大量の汗を流しつつ声のした方に顔を向けた。

 部屋の隅の暗闇の中から優雅な仕草でトゥリアは近づいてきた。


 「どうして……!」


 右手を背中に隠すと左手でカリスはシーツをめくった。――そこには、両手足と口を縛られたヤギが寝かされていた。

 愕然としたカリスは、そこから一歩も動けずにいた。


 「ヤギの肉はあまり好きじゃないんだ。別の肉にしてくれても構わないぞ」


 トゥリアがそんな冗談を本気で言っていないのは、カリスも百も承知だった。それゆえに、恐ろしく発言一つ吐き出す僅かな息すらも恐怖を感じさせる。

 硬直して動けないままのカリスとは反対に、トゥリアはそれこそ獲物を前にする肉食獣のように親指の先をぺろりと舐めた。


 「――例えば、無駄な贅肉を蓄えた恩を仇で返すような新鮮な獲物とかな」


 その時、カリスの中には幾つかの選択肢が打ちあがる花火のように浮かんでは散っていった。

 窓から脱出を図ろうか、何を言っている、二階から落ちて着地できたとしても無傷ではいられない。足を引きずったままではまともに走れる自信はないし、確実にどこからか執事のアインもこちらを窺っているに違いない。

 いっそのこと、トゥリアに襲い掛かるか? いいや、完全に戦闘態勢に入ったトゥリアが”噂通り”なら真正面から戦っても勝算はゼロに等しい。

 その他にも逃亡するパターンで二通り、戦った場合のイメージが三つ程浮かんだが、打開策というには程遠い。カリスの完全に思考は袋小路に陥っていた。


 「随分と余裕がなさそうだな、カリス。そう急ぐなよ、物事には順序があるだろ。何故、私を殺しに来た?」


 助け船になるわけがないことを知りつつも、カリスは必要最低限のもはやトゥリアからしてみれば周知の事実かもしれないことを声にした。


 「それは、私が……銀器狩人シルバハルトだから」


 落胆と共に溜め息がトゥリアの口から零れた。


 「最悪な状況で、最低な答えが出たな。まだ操られているなら良かった、ただ事情も知らないなら生きて外に放り出す道もあった。使命を持たないなら、ルクスと生きる道だって用意しただろう。……だが、シルバハルトの名前を出した時点で、お前の命運は尽きた」


 カリスは死刑を宣告されたような気分になった。拷問されることはないだろうが、トゥリアは命を奪うつもりなのは明白で、むしろ余計な情報を吐き出さなくて済むことで多少なりとも気が楽になった。

 人生の終わりが見えたところで、カリスは蛇に巣穴を覗き込まれた蛙ような気分が軽くなり、切り替わっていくのを感じた。


 「ルクスは……?」


 ルクスの名前が出たことで、トゥリアは不満そうに目を細めた。


 「奴は人間だよ。私達の正体も知らない。まともな人間じゃないことは薄々気づいているようだが、ルクスはちょっと魔術をかじったただの人間と変わらんさ」


 また少しだけ、カリスは自分の心が軽くなったことに気づいた。どうして、ルクスの名前を出してしまったんだろうと考えるが、きっとこれは深く考えない方が良い。ルクスには、何も知らない世界で生きてほしいのだ。


 「もう聞きたいことはないか?」


 「ルクスは、これからどうするつもり?」


 「またルクスのことか、銀器狩人シルバハルトの話から遠ざけたいのか、それとも……まあいい。小僧が、私達の仲間になるならそれもまた良し。なりたくないというのなら、奴には好きな道を選ばせるさ。だが、誤解するなよ雑種――」


 トゥリアの瞳が鋭利な鎌の先のように細めれば、斬りつけるような殺気がカリスを貫いた。


 「――ルクスは私の家族だ。遊びで人間は口にしない、ましてや、人の姿をした生物を食事としか考えない同族と同じ目で見るな」


 死を覚悟しているからなのか、言い放ったトゥリアの言葉にカリスからは恐怖が消えて不思議な安堵の息が漏れる。


 「……変わっているのね、もし貴女みたいな……いいえ、仮定の話はどうにもならないわね」


 既にカリスの震えは止まっていた。右手の平がまだ魔素を持っているのを見ると、さほど長い時間は経っていないようだ。数分間の出来事を何倍も長く感じていたようだ。

 カリスの右手が強い熱を帯びれば、腰を低くすると同時にトゥリアに駆け出した。


 「貴女の想いごと溶かしてあげるわ、魔術バンドラーアド! 覚悟しなさい、トゥリア・ウォルク!」


 距離を縮めるように足に力を入れて幅跳びしてトゥリアにカリスは飛びかかる。

 灼熱の右手が今まさにトゥリアに触れようとしているのに、当の本人は涼しい顔してカリスを見据えていた。


 「お前がルクスの求めたままの人間なら、私はそれほどお前のことを嫌いじゃなかったよ。……残念だ、カリス」


 虫でも払うようにトゥリアが右手を振れば、カリスの体が一瞬にして反転し、カリス自身が何が起きているのか分からぬ内に見えない巨大な手で殴られたかのように壁に叩きつけられた。


 「かっ――はっ――」


 トゥリアのぶつかった壁には、人の大きさ程の亀裂が走り、衝撃の強さを物語っていた。だが、幸いにもまだ意識を失っていないカリスは吐血しつつも立ち上がろうとする。


 「――すまない、手元が狂った。今度こそ楽にしてやる」


 頭上からカリスの耳に声が届く頃には、頭に覚えのある細い手が置かれていた。そして、その手は小枝のような腕からは信じられない程の腕力でぎりぎりとカリスの頭を締めつける。


 「あああぁぁ――!」


 「黙れよ、小娘。簡単に悲鳴を上げるな。死を覚悟し、ルクスを想うなら……歯を食いしばり、黙って息絶えろ」


 トゥリアの言葉に素直に従う必要はないはずなのに、ルクスの微笑みがルクスとの過ごした時間が閉口させた。

 おかしなものだとカリスは思った。使命を受けてトゥリアを殺しに来たはずなのに、彼女の言うことを聞いている。しかもそれは、トゥリアは別の要因によるものだ。これは弱さなのか、それとも他の何かなのか。それは今のカリスも、その原因となった少年も知らないことだろう。

 もう声を出せないカリスは、さようなら、ルクス。と心の中で漏らした。最後の言葉まで彼のことなので、またここでもおかしな気分になってしまうが、最期になってようやく自覚できた。


 (そう、私は――ルクスのことが好きなんだ)


 どうか、自分ことで傷つかないでほしいと祈るしかできない。全てが遅すぎたことに後悔しつつ、一筋の涙を少女の頬を伝ったその時だったー―。


 「――カリスを離せ、トゥリア」


 予期せぬ声がカリスとトゥリアの両者の耳に届いたかと思えば、涙が床に落下する前にカリスの体は崩れ落ちた。

 咳き込むカリスは、前にもどこかで似たような息苦しさの中で誰かに助けられたことがあったのを思い出していた。まだ暗い視界の中で、トゥリアは扉の入り口を驚愕の表情で見つめていた。

 自分が生き残ったことだけは理解しつつ、腫れたように痛む喉元を押さえつつカリスは体を起こせば、自分を庇うようにしてはトゥリアとの間に一人の少年が飛び込んできた。


 ――燃えるような怒りをその瞳に宿らせたルクスが、そこには立っていた。

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