第三章『ウルフボーイ』
第9話 日常は幻想に変わる
まだ記憶が蘇る様子のないカリスが住むようになって二十日目。
そろそろ、村のみんなにも紹介しても良い頃合いかと思い始めていた。
少し外に出れば、記憶が戻るかもしれないという何度目かに閃いた可能性を探りつつ生活範囲が屋敷の周辺だけだったカリスを連れて散歩がてら狩りに出かけることにした。
別に狩りは成功しなくてもカリスの為になれば、それで良かった。
しばらく溶けかけた雪の中を長靴を履いたカリスと二人分の足跡を残しながら進む。
「屋敷での生活に慣れてきたか?」
何気なくカリスに問いかけると、僅かに口角を上げつつ頷いた。
「最初はトゥリアさんも怖かったけど、今じゃ冗談とか言ってくれるしお喋りも楽しいよ。それにアインさんも、この間お掃除の仕方を教えてくれたんだよ」
「トゥリアのアレが楽しい、か……」
実に楽しそうにカリスは話すが、トゥリアの冗談と言うのはほぼほぼ皮肉だ。記憶喪失のせいで素直になったのか、本来の純朴さから来るものなのかは判断しかねるが、トゥリアの小姑のような発言をありのまま聞きなおかつそれを楽しいというのだ。こういうタイプはトゥリアは苦手なのだろうが、どうしても皮肉を言いたいらしい。
トゥリアの皮肉に喜びの表情を見せるカリスは、トゥリアよりも一枚も二枚も上手に見えるのも何だか滑稽な話ではあるが、誤解しているとはいえ関係は良好そうなのでこれ以上の詮索は頭の隅に置いておく。
「近いうちに、村に連れて行くよ。あそこの村はいい人達ばかりだよ」
「早く行ってみたいなぁ。あ、そういえば……トゥリアも私が望めば、村で住んでもいいって言ってくれたんだよ」
「なに!? 本当か! ……意外だな」
ルクスも初耳の情報だった。早く追い出したいのかと思っていたトゥリアが、こっそりとカリスに言っているようだ。関係は本当に良好かもしれない。それとも、厄介払いしたのかいずれにせよトゥリアがよそ者を入れるのは非常に珍しいことだ。
驚きはしたが、これはルクスにとっては朗報だった。既にルクスの中には、カリスともっと話をしたい、ずっと一緒に居たいという気持ちが強くなっていた。この気持ちを何となくルクスも気づいていたし、このむず痒い気持ちをそろそろ隠し切れなくなっていた。
「なあ、カリス。大事な話があるんだ」
「急にどうしたの、ルクス?」
「も、もしさ……カリスが良かったら、これからもずっとここに住んでくれたら――」
「――見て、ルクス」
手汗を掻きながらルクスなりに勇気を出したつもりだったが、言葉は言い終わる前に中断される。何事かとカリスの視線の先を辿ってみれば、視線の先の木々の間にはいつぞやの光景を彷彿とさせる鹿の姿が目に留まった。
ついさっきまで感じていた淡い気持ちはすぐに消え去り、狩人としての気持ちがざわついた。
「下がってて、カリス」
神妙な顔をしたカリスが静かに頷けば、ルクスから数歩下がった。
十分に自分から離れたのをルクスが確認すると、一応持って来ていた弓矢を構える。呼吸を深く繰り返し、乱れた息を止めてカリスの発見した獲物に集中する。
距離としては届きそうだが、滑空している内に速度の落ちる矢は鹿を傷つけることはできても致命傷を与えることはできないだろう。
ちらりと確認したカリスは、心配そうにこちらを見つめている。
狩りは命を奪い明日の糧にする神聖な行為と教えられてきたが、この時のルクスにはカリスの前では恥をかきたくなく自分を良くみせたいという気持ちが出てきていた。ルクスは生まれて初めての邪な気持ちに抗うこともできず、指先に魔素を形作り始める。
「我はある種の咎人であり、しかし、喰らうことが本望である」
魔素が体内で複雑に絡み合っていけば、それは腕から弓矢へと伝わり、体内に魔術を形作るルクスの瞳が赤く染まる。
「――業の血雨を浴びる贄には選択を与えられんっ!」
魔術ラックアウトもいつもより気合いが入っていたように思う。確実にここでトドメを刺すつもりで、ルクスの手から離れた矢が鹿へと向かっていく――。
突然、後方で雷でも落ちたかのような眩い閃光が弾けた。そして、悲鳴。
「――きゃああああぁぁぁぁぁ!!!」
標的へと真っすぐに飛んでいくはずだった矢は、ルクスの魔術が途中で中断したことで地面に突き刺さる。それよりも、ルクスは背後から聞こえてきた悲鳴のことで頭がいっぱいになった。
「――カリス!?」
弓矢を放り投げたルクスは、歩きにくい雪の道を滑るようにカリスに駆け寄る。
長い悲鳴を終えたカリスは地面に倒れ込みそうになるが、それをルクスは寸前で腕の中で抱き留めた。
「カリス! どうしたんだ、カリスッ!」
気を失い、涙を流しながら唇を弱々しく震わせるカリスはとても正常な状態ではなかった。反射的にカリスの額に手を当てれば、ルクスはあまりの熱を持った額に今度は自分が悲鳴を上げそうになった。
人工呼吸や素人の応急措置では、どうにもならなさそうなことを察したルクスは背中にカリスを背負うと安全な道を無視して山の斜面を駆け下りる。
「くっそ……! どうして、こんなことにっ」
何がダメだったのか自問自答しつつ、それ以上の弱音を飲み込んで屋敷を目指した。
※
血相変えて帰宅したルクスはアインにカリスのことを頼めば、素早く薬草を煎じて飲ませて、精神を落ち着かせる作用のある魔術薬の香水を嗅がせれば部屋に寝かせた。
費やした時間は一時間弱だったが、ルクスにとっては一年にも匹敵するような時間の間隔だった。
「カリス……きっと俺のせいで……」
後悔と懺悔に苦しむルクスは何度もカリスの枕元で謝り続けたが、次第に呼吸が安定していくカリスにルクスも次第に気持ちが落ち着いていった。
陽が沈む、部屋の中が暗闇に覆わても、起きるまで側に居続けようとするルクスにアインは声をかける。
「ルクス、カリスも随分と良くなってきています。慣れない環境が続いたので、きっと今頃疲れが出たのでしょう」
「お、俺のせいかもしれないんだ……。俺が魔術を使ったから……きっと……」
アインは困ったように溜め息を吐く。
「確かに魔術を使ったことは良いことではないですが、今回の出来事はルクスのせいではありませんよ。今日は一日ぐっすり休ませて、明日顔を見に来るといいですよ」
意識を失う前に背後から感じたのは魔素の衝撃だったことをルクスは気づいていたが、それを冷静に考えるほど今のルクスの精神状態は乱れていた。
何か言わなければいけない聞かなければいけない、気持ちは急かそうとするが、諭すようなアインを前にルクスは口を閉ざすしかなかった。
「いろいろ言いたいことはあると思いますが、今日はゆっくりと休むことにしましょう。……温かいスープを部屋に運んでおいたので、それを飲んでから休みなさい」
一度、穏やかな寝息を立てるカリスをルクスは見れば、不安な気持ちを振り払うように首を振れば立ち上がる。
「……カリスを頼むよ」
「お任せください」
部屋から出たルクスは、廊下の窓枠にもたれるトゥリアに気づいた。
トゥリアに声をかけようかルクスは躊躇していると、トゥリアから歩み寄ってきた。
「疲れた顔をしているぞ、ルクス。よほど、あの小娘が心配なんだな」
あまりにトゥリアの声が優しくて、ルクスは胸の奥で固まりつつある感情を声にする。
「……初めてなんだ、こういう気持ち。トゥリアもアインも村のみんなも大切なんだけど、カリスは二人とそれとはまた違った大切さなんだ。……カリスがあんな状態になって、初めて知ったよ」
俯きながら話したルクスが顔を上げると、目の前のトゥリアは何故か悲し気に瞳が揺れていた。どんな時も気丈なトゥリアのルクスのイメージとはかけ離れている。まるで、毎日を一喜一憂するような少女のような儚さがそこにはあった。
トゥリア、と心配したルクスに呼ばれてトゥリアは再び表情を引き締める。
「その気持ちの正体は、自分で見つけろ。奴隷だった小僧が手に入れたその大切だという感情は、簡単には手に入れることのできない心の輝きだ。それを壊すのも強くするのも輝かせることも、全部ルクス次第さ。……私から言えることは多くはない、大切にしたいと願ったものは何が何でも大切にしろ。己の気持ちも、カリスもな」
得体の知れない気持ちに不安になったこともあるルクスだったが、トゥリアの言葉はルクスに何らかの答えをくれそうだった。答えをはっきりすためにも、また明日きっとカリスに会わなければいけないとルクスは思った。
唐突に、ルクスはトゥリアの頭を撫で始める。
「にゃ! にゃにをするんだ!? ルクスっ!?」
顔を赤くするトゥリアにルクスは吹き出すと、数年分の感謝を込めてトゥリアに言った。
「寂しいことを言うなよ、トゥリアもアインも俺の大切だ。二人のことも大切にしないといけねえよな? ……また明日、おやすみ。ご主人様」
どこまで眠れるかは自信はなかったが、アインの用意したスープとやらを飲んでから眠ることにしようとルクスは考えつつ、耳まで真っ赤にするトゥリアの頭から手を離すと部屋への道を進む。
部屋に戻るルクスを目で追いながら、トゥリアは自分の頬に両手を添えた。
「うぅ、熱い……。小僧の癖に生意気に育ちおって」
悔し気に呻いた声は嬉しそうに弾んでいた。
※
カリスの無事を最後まで付き添ったアインが確認すると、部屋の明かりを消してカリスの部屋から退出した。
時刻は日付が変わって、さらに夜を深くさせていた。
時期の問題からか虫の声一つ聞こえないほどの静寂が屋敷に訪れる中、カリスは唐突に両目を開いた。すっかり熱の冷めた様子で、カリスは上半身を起こして部屋を見渡せば、枕元の水の入ったグラスを豪快にぐびぐび喉を鳴らしながら飲み干すとベッドに転がした。
まだ水の入ったグラスから零れた液体が、ベッドにじわじわと染みを作り出す。そして、シーツを少し取り換えるような気軽さでカリスは己の忘れていた使命を意思表示のように口にする。
「――トゥリア・ウォルクを殺す」
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