第8話 何も知らない君に

 その花はサクラリスと呼ばれていた。

 湿気の多い山奥の日陰に生えている花で、全長は十五センチ程度だが、花びら一枚でも体内に摂取したのなら幻覚作用や眩暈を引き起こす。しかし、強い毒性を持ってはいるが後遺症はなく、そこに目を付けた魔術師がサクラリスの花を利用し廃人にさせることのない自白剤を完成させたのだ。

 例え体に害を与えることのない魔術薬だとしても、無意識に自白を強制させる薬を飲まされるなんて良い物ではないと考えるルクスの目の前で、そんな薬が、溺れかけていた少女の口に入り喉を鳴らして体内に吸収されていった。

 粛々とした雰囲気の中、外見上は何の変化もない少女を中心に話は始まる。


 「だらだらとした話をしていると、今にもルクスが襲い掛かってきそうなんで、単刀直入に聞かせてもらおう。――お前の目的はなんだ?」


 強い圧力を与える口調にトゥリアはその場に居た全員の首に鋭利な刃物を突き付けたような気分にさせる。ルクスがそう感じているのだから、真正面からそれを受ける少女にはかなり辛いだろう。


 「分かりません」


 薬の影響からなのか答えられないことを聞かれたことで、質問の意図すら理解できませんといった顔で首を横に振った。

 相変わらず少女は混乱しているが、ルクスは身の潔白が証明されたことに安心した。


 「……質問を変えよう、本当に記憶喪失なのか?」


 「はい、何も思い出せません」


 ほっと息を吐くルクスと違い、トゥリアはまだ警戒を解くことなく短い唸り声を漏らせば口を閉ざした。

 続けて質問をしないトゥリアを見ると、よほど少女に飲ませた自白剤の効果に信頼を置いているようだった。記憶の無い人間にこれ以上質問をしてもしょうがないことは分かってはいるが、どことなくこのまま引き下がるのも悔しいといった感じで、トゥリアの良くないところである頑固な部分が出てしまっているようだ。


 「トゥリア、この子に害がないことが分かったならもういいだろ? 疲れただろうし、もう休ませてやろうぜ」


 「……随分とご執心なようだな、小僧」


 文句言いたげなトゥリアが久しぶりにルクスを「小僧」と呼んだ。ルクスには見当もつかないが、どうやらトゥリアは虫の居所が悪いようだ。


 「は、はあ!? 困っている女の子には優しくするもんだろ! 別にご、ご執心とかじゃ……ねえぞ」


 「はん! 小僧のくせに顔を赤くしおって! これだから、この年頃の小僧は色気づいて嫌になるわい!」


 「誤解させるようなことばかり言うんじゃねえよ! トゥリアだって、村のご婦人方には優しくしろって言ってるじゃないか!」


 「確かにそう言ったが、誰も若い女に尻尾を振れとは言ってないぞ! ああそういえば、一時期はよくミリナに会いたがっていたなぁ。女好きもほどほどにしないと、良い縁があっても駄目にしてしまうぞい!」


 「大きなお世話だよ! ……とにかく、この子は休ませるからな。ほら、行こう」


 この屋敷では日常的な光景だが急に勃発した二人の喧嘩におろおろとした少女の腕を掴んで立ち上がらせれば、出口へと少女の手を引いたルクスが出て行こうとする。

 そんな二人の姿すらトゥリアの神経を逆撫でしてしまい、意地が悪いことだというのを本人も自覚しながら出て行こうとする背中に質問をした。


 「……名も無き少女よ、名前も分からないのか?」


 投げやりな感じで発せられるトゥリアの言葉に、ルクスはもう我慢できずに一喝しようと――。


 「――カリス」


 「え」と聞き間違いだと思ったルクスはカリストと名乗る少女を二度見し。

 「お」と危うくティーカップを落としそうになりながらトゥリアは少女に視線を送り、


 最後まで沈黙を保っていたアインまでもが、「むっ」と声を漏らした。


 「名前を思い出したのか!?」


 抱き着きそうな勢いのルクスがカリスと名乗った少女がおどおどとしつつ答えた。


 「う、うん……。暗い中でモヤモヤとしていたのが、急に光に当てられてはっきり見えるようになった気がする……感じ……?」 


 破顔させたルクスに不服そうなトゥリアが口を挟む。


 「ええい、目の前でイチャイチャするでない! ――アイン、カリスに早く部屋の用意をしろっ」


 「トゥ、トゥリア……」


 「害が無いと分かった以上、このまま放っておくわけにもいかないだろ! それに、お前が頑固な性格だというのは、ここ数年で嫌というほど知ったからな。もしも無理やり追い出しでもしたら、お前がどんな行動に出るか分からんだろ!?」


 やけくそ気味に言うトゥリアに、ルクスはどこか予定調和的な安心感を覚えた。素直に「ありがとう」と感謝を口にするルクスだが、そっぽを向くトゥリアが付け足した。


 「ただし、そこの女……カリスが、よそ者だというのは変わらない。命を救ったこと受け入れたこと、例えそれが善意によって起こした結果だとしてもお前にも責任が発生することをよく胸に刻んでおけよ」


 「俺だってよそ者だったんだ、カリスだって記憶を取り戻す頃には村や屋敷の一員になっているさ」


 「さぁて、どうだかな……」


 自分の名前を確認するように何度も「カリス、カリス」と小さく反復するカリスをルクスは一度見ると、視線を戻したトゥリアに深く頷いた。

 動物とは違う、人間は狡猾で、おぞましい側面も持っている。そんなこと嫌というほど理解していたはずのルクスだったが、一人の世話を焼くことの大変さをこれからたっぷりと実感していくのだった。


 ――こうして、ルクスのカリスの世話を焼く日々が始まったのだった。




          ※



 翌日。


 まずは記憶を取り戻すことが先決だと判断したルクスは、カリスの手を引いて溺れていた場所を中心に川に沿って歩いていた。


 「この辺りで、カリスを助けたんだけど……何か思い出す?」


 すまなさそうにカリスは首を横に振った。


 「気にしないでいい、これからたっぷりと思い出す時間がある。ゆっくりと思い出していこう」


 カリスの背中を押して促すルクスは、ふと違和感を感じていた。それは、昨日ここに放置したカリスの鎧が見当たらないことだった。

 動物が悪戯でもして持って帰ったのだろうか、と根拠のない理屈で納得させてその場を後にした。



 三日目。


 「――おい、そこの小娘の食べ方なんとかならんのか」


 ウォルク家は使用人であるアインも居候であるルクスも記憶喪失のカリスも関係なく同じテーブルで朝、昼、晩の食事をとる。

 それはいいのだが、どうやらトゥリアはカリスの食事の仕方が気になる様子だ。

 言われてルクスはカリスの方を見れば、パスタを手づかみで咀嚼し、スープに顔面を押し付けて飲み、余ったパンはポケットに入れて後で食べておく為に取っておくようだ。


 「……どこか変なところあるか」


 「目が泳いでおるぞ、ルクス」


 驚くべきことにカリスは記憶を失っているどころか、世間一般の常識を無くし、幼児のような存在になっているのだ。

 服の着替えは目隠しをしたルクスがトゥリアの指示の元手伝い、用を足す時もそのままにしておけば下着に粗相する勢いなので、ここでも目隠しをしたルクスがトゥリアの指令の通りにトイレまで連れて行くのだ。

  

 「フォークもナイフも巧みに使っているだろ?」


 「いやはや、失礼したのは私の方のようだ。ナイフでパスタを千切りにして、フォークでスープを掬おうとしていることを『巧み』と呼ぶとは知らなかったよ。私の食べ方など児戯と同じようだな。……さて、ルクス。君の言う巧みな食事方法を教えてくれ」


 口調もそうなのだが、トゥリアは責めるような眼光でルクスを見据えた。

 トゥリアを怒らせた時のルクスは、適当に煙に巻いて逃げ出していたが、一度カリスの世話をしようと決めた以上は逃亡は許されない。ということで、


 「……ご、ごめん、トゥリア」


 素直に謝罪を口にするルクス。

 ねちっこく怒られることも想定したルクスだったが、トゥリアはルクスの思っているよりも良識のある人間だったようだ。


 「謝らなくても良い。ただ飯を食わせて下の世話をするだけなんて、動物と変わらん。お前にカリスを委ねたのは、自尊心や征服欲を満たす為ではない。……お前は人間の世話を焼いているのだ。記憶が蘇らないのならば、再度思い出すまで学習させるしかないだろ。誰も動物の世話をしろとは言ってない、人間の世話をしろと言ったはずだが」


 押さえつけられるように怒られるなら反発していたであろうルクスも、こういう風に諭されてしまえばぐうの音も出ない。

 当然のことを当然のように言ったルクスは、素直に反省する。


 「了解……。俺がどこまでできるか分からないけど、常識を教えていくよ」


 「何を気弱なことを言っているんだ。今、カリスが一番頼りにしているのはルクスだぞ。……お前はただ自分が学んできたことを伝えるだけだでいい。記憶を失う前の生活に近づくことができれば、もしかしたら快復するきっかけになるかもしれないしな」


 トゥリアが一度咳払いをすると、手を止めていた食事に戻る。ルクスはトゥリアから貰った助言を無駄にしないことを誓えば、ナプキンでカリスの口元を拭う。


 「カリス、今日はゆっくりとご飯を食べることにしよう。フォークとナイフ、それにスプーンは分かるな? 俺の真似をして食べるようにするんだ、いいね?」


 ルクスとトゥリアの会話をお理解できていたのか、それとも本来の素直な性格からなのか、カリスはすんなりと頷くと不器用そうにナイフとフォークを手にするのだった。  



 七日目。


 一週間カリスと接してみてルクスは考えてみるが、記憶喪失とはいってもカリスは幼児に戻ったわけではないのだ。

 食事の仕方だって教えれば次の日には、それらしいことをやってみせるし、その翌日にはさらに上手になっている。他のことにしてもそうである。

 最初は用の足し方も分からなかったカリスにはトゥリアが付いていなければいなかったが、今では行きたい時に勝手に行っているようだし、初日に上着とスカートを反対に着るような真似も教えればしなくなった。

 カリスの中の欠けたピースが簡単には戻らない分、代わりにルクス達が作ったピースを埋めていっているようなものだった。


 日常生活にはさほど支障が出なくなってきたところで、カリスには文字を学習させることにした。

 屋敷の庭の隅のテーブルの隣の椅子に座ったルクスとカリスは、分厚い本を広げていた。

 単語を一つ指差したルクスが単語を発音すると、ルクスを真似したカリスも同じ言葉を口にする。


 「――思ったよりも、ルクス先生は様になっているじゃないか」


 カリスがやってきてからもう一週間も経過しているはずだが、近頃のトゥリアは何かに掛けて意地の悪い喋り方をしてくることが増えた。


 「……こんにちは」


 棘のある態度の多いトゥリアに対して、カリスもどことなく苦手意識があるようで、挨拶をしつつルクスの袖を小さく摘まんだ。そこでまた少し、トゥリアは不満そうに眉の端が上がるのだが、ルクスにとっては何故怒っているのか意味が分からないので気づかなかったことにする。


 「今日三回目の挨拶だぞ、カリス」


 「……ごめんなさい」


 「まだ挨拶の練習中なんだ。そんな風に言わなくてもいいだろ、トゥリア」


 「別にそんなつもりで言ったわけではない……ふんっ」


 ルクスの物言いが癪に障ったのか踵を返すとトゥリアは大股歩きで屋敷へと戻っていった。


 「いったい、何しに来たんだよ……。さあ、カリス。勉強の続きを始めようか。……ん? どうした」


 記憶が戻っていないせいなのか、カリスはぼんやりとした目をすることが多いが、そのぼーとした瞳の中にルクスが映っていた。


 「トゥリアは、ルクスのお母さん?」


 「ぶっ――!」


 思いもよらぬ質問にルクスは吹き出す。


 「あ、あんな小さな母親いるわけないだろ!?」


 「うーん……けれど、この間ルクスと一緒に読んだ絵本の中の『おかあさん』は……少しトゥリアに似ている、気がする……」


 「あー、あれか……」


 文字を学ばせる前にトゥリアがどこまで読めるのかを確認がてら、子供の頃にルクスが買ってもらった絵本を読んで試したのだ。その時のことをトゥリアは言っているようだ。

 絵本の中に出てくる主人公の少年レンは口うるさい母親と喧嘩して家を飛び出してしまったことがきっかけで、ちょっとした家出のはずが冒険になってしまう物語だ。


 「そうだな、口うるさいところがよく似ているよ」


 思い出しながら言えば、トゥリアはゆっくりと首を横に振った。


 「違うよ、絵本の最後はお母さん違った」


 しっかりと自分の意思を告げようとするカリスによって、自分にとって不都合な部分は知らないふりをしていたことをルクスは気づいた。


 「……だな。最後、冒険を終えたレンは、心配して泣き続けていたお母さんに再会して優しく抱きしめてもらうんだ」


 「おかえりって」


 「そう、お母さんが『おかえり』て抱きしめて、レンの好きな料理を作ってくれて……おしまいだ」


 「やっぱり、ルクスにとってのトゥリアはお母さんみたいだよ?」


 「そうか?」


 「そうだよ、そう」


 そうかぁ、そうなんだよ、そうかな、そうだといい、というやりとりを二度三度繰り返して単語を読み上げたり、紙に文字を書き写す勉強を再開した。


 「ねえ、ルクス」といまいち勉強に身が入ってなさそうだったカリスが憂いの帯びた眼差しの目を向けた。

 今まで見たことのないカリスの表情にルクスの鼓動は自然と早くなるが、記憶が少しずつ呼び起こされている証拠のようにも感じられた。


 「ルクスのお母さんて、どんな人だった?」


 素朴な質問にルクスは自分の感情にうねりが生じているのを自覚していたが、肺に空気を送り込むことで平静を取り戻す。


 「……俺は奴隷だったから、お母さんはいないんだ」


 カリスがはっとした表情を一瞬浮かべて、口を閉ざす。何かカリスが言おうとしている様子だったので、ルクスは『奴隷』という言葉を教えていなかったことを考えて、奴隷の言葉の意味を聞かれるのだろうかと苦い気持ちで次のカリスの発言を待っていた。

 しかし、ルクスの予想外のことを口にした。


 「じゃあ……ルクスは私と同じだね」


 次に驚愕したのはルクスの方だった。

 憐れむでもなく失笑することもなく、ただ素朴にルクスに共感したことに驚いていた。

 もしかして、記憶が戻ったのか、いいや、自分の今の状況と照らし合わせているのかもしれない。だが、そのどちらにしても、カリスにとっては辛い現実だということをルクスは嫌といほど『共感』できた。

 今の発言をルクスはそれ以上掘り下げる気も起きない代わりに、自分と同じ目線を持つカリスと過ごすことがとても楽しくなってきたルクスは微笑みかける。


 「今日のルクスは、怒ったり楽しそうにしたり不思議だね」


 「確かに、不思議な気持ちだよ。……さ、続きだ」


 「はーい」


 トゥリアに怒られることも、アインに注意されることも、カリスに驚かされることも、こんな穏やかな日々がずっと続くことを祈りながら手元の本に再び気持ちを傾けた。

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