第6話 傷ついた手は闇の中をさまよう

 その日は午前中まででアインとの鍛錬は終わり、二人には釣りに行くと言い昼食を食べた後にルクスは屋敷を出た。

 屋敷からは歩いて五分ほどで清流の流れる川に到着する。空からは木々の間をすり抜けて陽光が照らし、寒いことには変わらないが雪の中を歩いてきたことも手伝って程よく体を温めた。

 良い釣り日和だと思いながら、岸辺に腰を下ろせば、適当な拳サイズの石を持ち上げると石の下にはミミズなどの様々な虫がひしめていた。寒さからなるべく逃れようと虫達は土の中に潜り込もうとするが、土を指でどかしてからミミズを竿から垂れた糸の先の針に刺した。

 後は川に向かって投げるだけだ。

 この辺の地域では冬場は魚はあまり釣れないと言われいるが、長年趣味でやってきた魚釣りと毎年積み重ねた情報がこの時期はここに来ればいいという最善の選択肢をルクスに掲示するまでになっていた。

 確実に釣れるかは分からないいし、トゥリアには寒い中馬鹿らしいと呆れられることもあったが、自由に過ごせる贅沢な時間を趣味と呼ぶなら、これは間違いなくルクスの趣味であった。


 「いつかは、海でも釣りしてみたいな……」


 生まれて一度も嗅いだことのない潮の香りというものに胸の高鳴りを感じていると、釣り針が急激に重たくなった。


 「あれ? 根掛かりでもしたか?」


 この辺りは水深が深い方なので、早々に根掛かるようなこともないと高を括っていたが油断が裏目に出てしまったのかもしれない。

 立ち上がり竿を上下左右、針が引っかかってそうな方向を考えながら動かしてみるが外れそうにもない。


 「おや……」


 穂先が折れることも覚悟して脇に竿を挟んで体ごと引いてみれば、引っかかった何かごと動くではないか。もしかしたら、今までに釣ったことのない種類の魚かもしれないと考えたルクスは引けば引くほどに重量を感じつつ自分の体重をかけながら竿を思いっきり引いた。


 「――え」


 最初は丸太のような物体が浮かんできたかと思ったが、どんどん陸地に近づくにつれて、次は動物の死骸でも釣り上げたと考えてしまう――が、そのどちらでもない。


 「女の子……?」


 肩にかかる程度の長さの金髪はぐっしょりと濡れ、髪の間から見え隠れする顔にはルクスから見てもあどけなさが色濃く残る。顔よりもルクスを動揺させたのは、銀の鎧を装着していたことだ。

 少女の肩や胸、膝周りと足を覆うような鎧は錆付きまるで歴戦の戦士が愛用してきたかのようだが、とても天使のような少女の横顔からは関連付けることはできない。どこかに所属する兵士であることは間違いないようだが、鎧だけでは判断しようがなかった。


 「――て、見ている場合じゃなかった! 早く助けないとっ」


 運良く鎧の端に引っかかった針を外せば、少女をそっと横にさせたところでルクスははっとした。


 「息をしていない……!」


 既に少女は死体と変わらない。どうしようもない事実が胸を打ち付けた。

 何か争い事に巻き込まれたのかと名前も知らぬ少女の頬に手を触れれば、微かにまだ温かい、もしやと思い手を首の元にずらせば僅かだが脈の動きもある。改めて少しでも冷やしてしまえば消えそうな少女の温もりに、ルクスは幼い頃に見送るしかできなかった奴隷の少女の顔を重ねた。歌が好きで、動物を飼いたいと願ったあの子の姿が。

 もうトゥリアやアインを呼んでいる時間は無い。その為、二人から教わった付け焼刃の知識で目の前の消えてしまいそうな命を救うしかない。


 「こういう時は……そうだ、確か口から口に……」


 人工呼吸という知識はあったが、実践したことはない。しかし、今ここで使わなければ一生後悔するのは目に見えていた。

 同世代の少女と唇を重ねる行為が特別なものだというのはルクスも薄々と知っていた。それ故に、逼迫感と妙な興奮がごちゃ混ぜになったような気持ちに襲われる。だが、改めて青白い少女の唇を目にした時に腹がすわった。


 心の中で何度も謝罪をしつつ、ルクスは少女の唇に自分の唇を重ねた――。



                         ※


 少女は夢を見ていた。

 暗い夜の海で、小さな小船にたゆたう夢だった。

 夜空はひたすらに漆黒、月も出ていない。まるで一人だけ暗闇の世界に置いてけぼりにされてしまったかのような、どうしようもない孤独感。

 ある時、船が全く動いていないことに気づく。

 小舟から顔を出して外を眺めると、これまた小さな島に乗り上げたようだ。

 仕方なく船から降りれば、降りたばかりの船が少女が出ていくのを待っていたかのようにどんどんと沖の方に流れていってしまう。

 置いてけぼりにされたと思った少女は、咄嗟に「待って」と夜の闇に消えていく船に手を伸ばしたが潮の満ち引きに乗るような自然さで、すぐに小舟は見えなくなった。


 途方に暮れた少女はわんわん泣いていると、島の闇の中から声が聞こえた。正確には声じゃなかったかもしれないし、足音のようにも聞こえたが、動物の鳴いていたような気もしたが、少女にとっては何か生き物が居るということが恐ろしくもあり嬉しくもあった。

 「だれ?」と少女は呼びかけた。


 だが、それはすぐに悲鳴に変わる。


 ――いくつもの真っ赤な瞳が、闇の中から少女を見つめていた。

 



         ※




 「――ぇほっ! ごほっ!」


 少女に人工呼吸を終えたルクスが顔を上げれば、程なくして少女は肺に溜まった水を吐き出した。

 ぜーはーと荒い呼吸をする少女に、ルクスはほっと胸を撫で下ろす。無事に息を吹き返したようだ。

 青紫色した唇は徐々に朱色を取り戻し、氷のように冷たかった体温は温かみを持つようになった。

 すぐに目を覚まして起き上がることを期待したが、まだまだ苦しそうな様子は変わらない。先程からの違いといえば、息をしている程度じゃないのだろうか。


 「早く屋敷に連れて行った方がいいな」


 背負う前に少女の鎧が目に留まる。そこで、トゥリアとアインが兵士を嫌っていることを思い出した。

 まさか怪我人を追い出すような真似をすることはないだろうが、対応は露骨に良くないものに変わるのは目に見えていた。その為、少女の鎧を悪戦苦闘しつつ脱がせれば、鎧の金属から守る為なのか厚めの生地のワンピースのような恰好になった。肌の露出が増えたことと無事に生きていることへの安心感で、今までに感じたことのないドキドキをルクスは感じるが、雑念を振り払い少女を背負うことにする。


 「もう少しの辛抱だから我慢してくれ、屋敷まで行けば薬もあるし、医者とまでいかないけど治療もできる人だっているんだ」


 少女に告げたのか、それとも自分を励ますために言ったのか自分でもうまく説明できないことを言いながら少女を抱えたままで屋敷へと歩き出す。

 鎧が見つかる心配もあったが、今はそれどころではないし、この辺りはルクスしか釣りに来ない穴場だ。後で取りに戻ることを決めて、足早に屋敷への道を戻った。



           ※



 少女はまだ夢の中に居た。


 赤い瞳達が、ずっと少女を追いかける。

 狭い小島でばたばたとどたばたと。

 ついに少女は力尽き、その場に座り込んだ。赤い瞳達はぐるりと少女を囲むと、子供の泣き声を何百倍も高音にしたような不快な笑い声が周囲を支配した。

 笑い声は少女の耳に入り、頭の中をめちゃくちゃに壊していく。


 闇の中で頭を押さえてうずくまりながら、少女はひたすら「ごめんなさいごめんなさい」と謝り続けた。

 石を投げられ、鞭で叩かれ、唾を吐きかけられ、体だけでなく心も赤い瞳は壊し殺すことを止めない。

 赤い瞳の声が静かになったことに気づいた少女は、必死に闇の中走り出し、そして、海に飛び込んだ。


 海の中は暗く魚も泳いでいない。でも、あの小島に比べればずっと天国だった。そう考えた少女は、当然のように泳ぐことを止めた。

 もうこのまま沈んでしまおう。そうすれば、きっとあの小舟が迎えに来て一緒に本来あるべき場所へ帰ることができるんだ。


 目を閉じて、暗く冷たい海の底へと落ちていく――少女の腕を誰かが掴んだ。


 顔は見えなかったが、この世界で体験した誰よりも優しい人だと気づいた。もう優しさなんてどういうものか忘れてしまっていた少女に、優しさというものを思い出させた。

 「だれ?」と少女は聞いた。

 その人は何も答えることはなく、力強く冷たい海の底から引きずり上げる。


 もうやめて、そこは怖いの、その世界は私には辛すぎるの。

 少年は少女の希望に応じることなく、海の底からあの暗闇の世界へと浮上した――。

 

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