第2話 温かさに目を細めて

 その日の内に少年は少女トゥリアに買われることが決定した。

 アイギスロックを両手足装着したまま、馬車に乗せられた少年は表情一つ変えることもなく指示されるがままに荷台の隅で膝を曲げて座っていた。

 この先にどんな運命が待っていても、少年は感情を殺して過ごしていくことを心に決めていた。感情さえ抱かなければ、傷つくことも苦しくこともないからだ。

 馬車が走り出してすぐに執事服の男から水筒を渡された。喉が渇いていたのを察してくれたようで、感謝の言葉を言うのも忘れて飲み干した。空になった水筒を手の中で転がしつつ、布に覆われた荷台の中では外の風景を見ることもできないので、馬車を操縦する少女と執事の後姿をぼんやりと眺めていた。

 トゥリアはやはりどこから見ても十二歳程度にしか見えないが、執事の男も若い。トゥリアと同じく黒髪に清潔そうに短く整えており、キレ長の瞳がよく似合っている。執事の時折見える不愛想そうな横顔は、二十代前半ぐらいか。などと、少年が心の中で年齢を当てていると、馬車はぴたりと停止した。


 「降りるぞ。小僧」


 トゥリアはご主人様である。学はなくても、主人の命令は絶対だということは嫌というほど教えられてきた。

 言われるがままに降りてみれば、それは街から離れた村の一つだということが分かった。街はもう随分遠くにあるようだ。

 周囲を見回し、いくつかの民家と酒場、それから雑貨屋が見える。どこも小ぢんまりとした感じで、奴隷として移動する時に覗き見た街と比べると当然のように小さくまとまっていた。


 「おい、どこを見ておる。お前の前の店に用があるんだ」


 首を傾げてトゥリアの言われるがままにその店を見上げた。

 窓から覗いた店内は今まで見たことのない量の服が飾られていた。木製のトルソーには、きらびやかな服が着せられていた。今の少年には、目が痒くなりそうな服だという感想しか浮かばなかった。


 「服屋だよ。ずっとその恰好だとどう考えても変だろ。後、臭いぞ」


 首を傾げる少年にトゥリアは肩をすくませて溜め息を吐けば、執事を呼ぶ。


 「――アイン、一緒に降りてから服を選んでやれ。それと邪魔な物を脱がしてやってくれ。この調子なら、一着着るのに何時間かかるか怪しいぞ」


 「はい」


 アインと呼ばれた執事は短く返事をすれば、てきぱきと少年のアイギスロックを全て解除し執事服のポケットに直した。

 久しぶりの自由に少年が仰天していると、アインはその背中を押して服屋へ入るように促した。


 「――!」


 服屋に入るとドアに掛けられた来客を告げる鈴が鳴り、少年は初めて聞く音に肩を強張らせた。

 動揺する少年にトゥリアはおかしさからケラケラと同じく鈴が鳴るような笑い声を発した。


 「小僧には、これからは常識というものも教えて行かなければいけないようだな。こんなことでびくびくしていては、屋敷に着く前に気を失ってしまうな」


 ぱたぱたと軽い足音が店の奥から聞こえてきたかと思えば、ポニーテールに淡い桃色の髪をした二十代前半ぐらいの若い女性が出て来た。化粧をしていたのが少年には新鮮だった。


 「いらっしゃーい。あら、二人ともお久しぶりね。……ありゃ、今日はお客様がもう一人?」


 ちらっと女性は少年の顔を見ると、にっこりと今ままで見たことのない優しい笑顔で笑いかける。顔が赤くなることに気づいた少年は、視線を逸らせば自分が裸足であることを今初めて思い出した。

 少年は前髪の隙間から女性の表情を窺えば、どう見ても奴隷だというのに相変わらず穏やかな表情を崩すことはなかった。


 「ミリナ、悪いがアインと一緒にこの小僧に服を見繕ってもらえないか。それと当分の着替えもな」


 トゥリアは少年を親指で指しながら、慣れた様子で女性をミリナと呼びながら注文をした。


 「あら、光栄ね。アイン以外の男性の服を考えるのも久しぶりだし、今日は気合い入れさせてもらおうかしら」


 腕まくりをする女性に手を引かれれば、少年は自分の体はさらに熱くなったような気がした。




          ※


 

 

 服屋の店主はミリナという名前だった。ミリナとアインに着替えさせてもらいながら、少女がミリナのことを話して聞かせた。

 村一番の美人で街からも求愛に来る男も後を絶たないのだという。正直、それほど多くの人に会ったことのない少年には比較のしようがないが、ミリナの漂う甘い香りや服を脱がす際に触れる柔肌には胸が高鳴ったのは事実だった。

 少年は皮の靴を買い、ボロ雑巾のようだった服を着替えグレーのジャケットに白いシャツの上から蝶ネクタイに着替えた姿は、奴隷というよりも裕福な執事見習いという感じだろうか。

 見違えたね、と少年の頭を撫でれば、少年の前髪にヘアピンを刺した。ずっと薄いカーテンに覆われていたような少年の視界が広がれば、目の前にはミリナの顔がすぐ近くに迫り、反射的に顔を逸らしてしまう。


 「はい、これは私からの贈り物。新しい世界に旅立つなら、ちゃんとよく見えるようにしとかないとね。でも……うふふ、可愛い顔しているじゃない。いい趣味しているわね」


 満足そうに腕を組みながら、ふふんと鼻息荒くしていたトゥリアが何度も頷く。


 「そうだろ、私の目に狂いはなかったようだな。これから、こいつに必要なのは日常というやつだ」


 少年はただ顔を赤くしているだけだったが、周囲にミリナとトゥリアだけにしか分からない肌が痺れるような緊張感が流れた。


 「日常を教えるのはいいけど、日常のその先はちゃんとこの子に選ばせてあげてね。始まりは貴女の野望かもしれないけど、過程は彼に委ねるのよ」


 「心配するな。奴隷は買うが、私は一度たりとも生命を奴隷なぞという畜生の命以下には考えたことはない。……時として例外はあるが」


 当人同士の緊張感が霧散すれば、ミリナは少年の頭を慈しむように撫でながらトゥリアに聞いた。


 「そういえば、この子の名前は?」


 あ、と少女は今日一番の間の抜けた顔をしたことで、少年は無表情のままで面白い顔をしているなと少しだけ思った。


 「……名無しなのに決めてもなかったわけね。かわいそうに……こんなご主人様なんて放っておいてお姉さんと一緒に服屋さんでもやっちゃう?」


 ぬいぐるみを抱くようにミリナから少年は抱き寄せられると、問答無用の温もりに閉口するばかりだ。内心、ミリナの提案は少年には非常に魅力的な響きがあった。

 むっとしたトゥリアはミリナと少年の間に手を突っ込むと強引に引きはがした。


 「こら、デレデレするでない小僧! お前の主人は私だろ! それとも、この乳と服作りしか取り柄のない女の方がいいのか!」


 「もう、そんなにぷんすか怒らなくてもいいじゃない。そんなに怒ると貧乳になるわよ?」


 「もうなっといるぞ! 現在進行形でな! くうぅ……こんな不便な体じゃなければ、魔術師にでも頼んで理想の体型を手に入れるところだ!」 


 「――お静かに、お二人とも」


 二人のやりとりを傍観していたアインが、そこで初めて口を開いた。妙に艶のある声をしていた。

 口喧嘩が盛り上がりつつある二人の視線は、挟まれた少年に注がれた。どうやら、アインは少年が何かを喋ろうとしていることを察知したらしい。

 口を開けて、また閉じる。会話に入ることに少年は怖気づいてしまう。トゥリアはその理由にいち早く気づく。


 「良い、喋っていいぞ。なお、これからも私に許可を取ることなく、好きな時に好きなことを喋るんだ。命令じゃない私の希望だ」


 トゥリアの態度はずっと上から目線かもしれないが、少年が今まで聞いてきた命令の中で心を強く震わせた。

 おっかなびっくりしつつ少年は深く呼吸をしてから頷いた。


 「うん」


 たったそれだけの返事で、周囲に温かな空気が満ちていくを少年は感じた。アインですらもどこか嬉しそうにしている。


 「小僧の思うがままに喋ってみろ。名前のことでもいい、服のことでもいい、これからの疑問でも良いぞ」


 少年はトゥリアの言う通りに心のままに、鳥かごから鳥が青空へと飛び立つような自由な気持ちで思ったことを口にした。そっと、ミリナの方を指さして。


 「――ミリナの家の方がいい」


 あららーと口に手を当てて笑うのはミリナ、アインも僅かに口角が上がっている。どうやら、自分の発言に間違いはなかったようだと少年が胸を張っていると、一人肩をわなわなと震わせるのは怒りのトゥリア。


 「――調子に乗んな、マセガキがっ!」


 容赦なく振り上げた拳をトゥリアは少年に振り下ろす。


 「えー―!」


 事態も飲み込めないまま少年は床に顔面をぶつけると、肉体から引きずり下ろすように急激に意識を失っていった――。 

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