10
その日の朝、慌ててストールを引っ張り出した。風の匂いの変わり目がやってきた。
大学の最寄り駅から歩く道に金木犀がある。見てはいないが、週のはじめからその香りがする。
金木犀が香るのは数日から一週間ほどの短い開花期間のみらしい。
秋の花粉症に悩む鼻でも嗅ぐことのできる少し強引な香りだが、いい匂いだろ、と言わんばかりなのは可愛くて好きだ。
「あー、鼻がむずむずする」
「花粉症だからね」
「あれ、また金木犀の匂いがする」
「あなたね、春にも同じこと言ってたけど、本当は秋の植物だから」
「言ってたっけ?」
うわぁ、と思った。
香りは記憶を呼び起こすとはよく聞くが、余計なお世話はしないでほしい。
しかし金木犀のせいだけではなく、その記憶につながる出来事を思い出していたからかもしれない。
大学2年の冬、ある日大雪が降った。
帰りの電車の運行状況を心配しながらも、5限の講義を受けた。マフラーを巻いて外へ出てみると、靴が軽く埋まるほど積もっていた。
駅までのバスは何分後に来るか分からない上に、長蛇の列ができていた。
「馬鹿馬鹿しい!歩こう!」
晴れていれば20分程度で下れる坂続きの道。いかにも神奈川らしい高低差のある土地で、大学はてっぺんにあった。
「さよならー!」
日焼けした守衛さんに気を付けて、と声を掛けられ大学を出た。
5限後でこんな大雪の中を歩いている学生など他にいなかった。思い出すと腹が立つが、今日も憲法の教授は大した話をしなかった。
「ねえ、なんで折り畳み傘にしたの?」
「いやいや、こんなに降るなんて聞いてなかったし」
雪?傘なんてささなくてよくない?程度の土地で育ったのだ。ちなみに笑っている友人も近い土地に住んでいる。
「私はブーツだけど、そっちはスニーカーじゃん」
「これはミス」
「ていうか降りすぎ!寒すぎ!」
「カイロ神すぎる」
「ていうか電車止まってたらどうする」
「それはやばい」
大学から駅まで歩くことを『下山』と称するのだが、今日ほど皮肉に感じたことはない。
ふたりで大声で文句を垂れながら、大粒の雪が降る薄暗い道をざくざく進んだ。
幸い電車は少し遅れながらも走っていた。携帯には、母からの安否確認の連絡が入っていた。いつもより駅のホームに人が溜まっている。
『すごい雪ですね。僕は少し熱っぽいので学校早退しちゃいました』
当時の恋人からの連絡を見て、同じ電車を待つ友人に携帯を渡した。
「あー、うん、はい、って感じだね」
言葉が出ないときは本当に言葉が出ないのだ。でも私はさっきまでの辛い極寒の下山騒ぎを、文句を言いつつ笑い話にしてしまいたかった。
めっちゃつらかったねん!って言いたかった。
『大丈夫?ちゃんと薬飲んでね』
文字をスライドする指はまだかじかんでいる。コートは濡れている。いつ家にたどり着けるのかも分からない。
人間の脂臭い鈍行で家の最寄り駅に着くと、ひざ下くらいの高さまで雪が積もっていて、写真を撮りながら一人で大笑いした。笑いながら、今日、心の中で何かが冷え切ってしまったなと思った。
あの人だったら。
大変だったなと笑い飛ばしてくれたかもしれない、と思い出してしまう人がいた。
急に冷えたせいで引っ張り出された極寒の記憶。さらに金木犀がドヤ顔で冷やかした、そんな感じだった。
私は足早にセブンイレブンに駆け込んで、いつもと同じ缶コーヒーを買った。
会計中、私がひとつくしゃみをすると、総白髪の店員に花粉ですかと聞かれる。ここの店員はよく客に話しかけてくる。
「はい。あと金木犀が」
「ああ、あのいい匂いだけど臭いやつね」
なんじゃそらと思った。
コンビニを出て大学に着くまで、ずっと金木犀の匂いがする。3年になって都内の校舎へ移動してからはすっかり歩きやすくなったはずなのに。
余計なお世話ができる立場を失ってしまったことを、いつまでも悔やんでいる。
奥底に巣食っている未練に気づかされ、背筋がぞくぞくする。早く花を落として枯れてしまえばいい。
青色が世界を殺すまで 淡波綴里 @31k4ou
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