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耐震工事が施された新校舎は木の香りが漂っていた。先に卒業する上級生から新校舎を使う。私はウォシュレット付きのきれいなトイレと2年で別れることになる。
中学校は恐ろしい先輩がいて、くるぶしの隠れる白い靴下とソールまで真っ白な運動靴を履かないとしばかれるらしい。そのような噂が聞こえてくるようになった。
国語の時間、担任が「みんなももうすぐ卒業だな」としみじみ言う。
答えたり笑ったりする生徒は誰もいない。実感のない感傷をただ眺めている。
しかし私の右隣では静かなやり取りが繰り広げられている。隣席の男子生徒とその前に座る女子生徒がにやりと笑いながら小さな紙きれを交換している。
廊下側の最後列は、教壇から手元を見るのは難しいだろう。さらに国語の時間は教科書を見ている時間が長い。
二人は私の方をちらちら見ながら笑う。顔に何もついていないのは休み時間にトイレに行ったから分かっている。
彼らはどうやら私の足が内股になっているのがすごく面白いらしい。
視線でそれを感じ取り、私はさらに内股にしてみた。そうするとますます笑うので、何が面白いのか分からなくて笑いを堪えるのに必死になる。
4時間目の終了のチャイムが鳴り、教室内は給食の準備で騒がしくなる。
彼らも自席を離れた。私が見つけたのは、鮮やかなブルーの引き出しの縁に置かれたノートの切れ端。それも1つだけではない。
私はいけないことだと思いながら、二人の引き出しの縁からすべての紙を抜き取った。
そして誰にも見られていないことを確認し、トイレへ向かう。個室の中に入って中身を確認すると思った通りのことが書かれてあった。
私の中で湧いてきたのはどうやって自分の悪事を誤魔化しながら彼らの身柄を大人に引き渡すかだった。悲しい顔をすれば誤魔化せるのか、それとも潔く抜き取った悪事を詫びながら、仕方がなかったと言い訳するか。
どちらにせよ、私は楽しくて仕方がなかった。
個室から出ても高笑いが収まらない。用など足していないが手を洗った。疑われないようにするなど、意外と頭は冷静である。
こういう経験は初めてではなかった。私は初めていじめられたとき、しばらくは孤軍奮闘した。しかし担任に言うと言った途端に敵は引いた。
私はその時の言い尽くせない快感を忘れられていなかったのだ。
「せんせえ」
「おう、どうした」
「これ見てぇ」
私は小声で担任に声をかけ、小さな紙を教員机の下に手を隠しながら渡した。
担任はなんだこれ、と笑いながら紙を開いた。
私は担任の眉間の皺が寄っていくのを嬉々として見つめた。
「これは?」
「隣の机の引き出しに全部のってたの。授業中に私のこと見ながら、前の子と回してたみたいだったから気になって取っちゃいましたぁ。でも先生、マヌケだと思わない?本当に引き出しの縁にのってたの」
「……そうか」
え、それだけ?
私は拍子抜けして担任を見返した。なんだか悲しそうな顔をして、思案しているようだった。
「今、話してくるから。みんなで先にいただきますしておくように日直に言っておいてくれるか」
「はぁい」
その後、給食を食べ始めてしばらくすると彼らは泣き腫らした目を誤魔化しながら戻ってきた。
「…すいませんでした」
「ごめんなさい」
「え、いいよいいよ、全然気にしてないし!」
不満気に小声で謝った二人に、私はメロンパンを頬張りながら笑い返した。
この日の給食のメニューはメロンパンとクラムチャウダーと人参とほうれん草の炒め物だった。とても美味しかったのをよく覚えている。
放課後になると私は空き教室に呼ばれ、学年教師3人に囲まれた。皆そろって眉間にしわを寄せ、私を心配していると言った。
私へのお咎めはいつ言われるのかと待っていたが、それは最後までなかった。
「辛かったでしょう」
「いえ、別にそこまで」
「無理しないでいいのよ」
隣のクラスの担任が私の頭を撫でる。
私はそこで、担任が他の教師に嫌味でも言われるのではないかと心配になってきた。
母は電話で今日の事態を聞いたらしく、私にも詳しく話すように言った。
私は母に嘘を言うのが嫌だったので高笑いしたことを白状した。夕食はチャルメラのラーメンで、私の好物だった。母の意図を感じる。
チャルメラのスープを飲みながら、「本当に面白かったんだけど、先生たちは無理してるって思ったのかもしれない。私も人のものを勝手にとったのに」と言うと、母は大笑いした。
「その子たちも先生たちも間抜けねぇ」
「だよねぇ」
「でも、悪口言われた後だけど自分が悪い事したっていうのを分かってはいるんでしょ。そういうの、世間じゃ正当防衛とか、情状酌量とかいうらしいよ。よく分からないけど。あ~、久々にこんなに笑った」
まだ資本主義の意味も、罪についてもよく分からなかった頃だった。
大人って意外とセンチメンタルでロマンチックなのね、と思った。
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