第37話 エピローグ


「本当に、ここ、閉めちゃうんですか?」

「はい。残念な気持もありますが、永遠に続けるわけにも、いきませんからね」

 喫茶店『AntiquesMelidy』が店を閉めると聞いたのは先週のことだった。


「このお店なら、マスターの後を継いでやりたいって人も……」

「いえいえ、今の時代には、なかなかそうもいきませんよ。それにこの店を他の誰かに任せるなんてことは……ちょっと私には想像できません」

 あれから10年――2009年の11月いっぱいで、この店の歴史が終わる。


「なんだか、さみしいなぁ」

「そういっていただけるだけで、十分です。ありがとうございます」」


 街並みはすっかり変わり果てていた。でもこの店の中は、あの頃と何一つかわっていないように見えた。

「たくさんの人に愛されて、いろんな物語を見せてもらいました」

 マスターはいろんな人の人世を、このカウンターかた眺めていたのだろう。そこにわたしも、あの人も入っているのだとしたら、それはとても素敵なことに違いない。


「コーヒーの味も香りもわからない小娘が言うのはおこがましいですけど、わたし、ここのコーヒー本当に大好きでした」

「ありがとうございます。みんなにそういって頂けて、この店も満足でしょう。お店はなくりますが、きっとみんなの心の中にいろんな物語と一緒に残ってくれるんだと、そう思っております」



 この店での思い出は、どれも素敵なものばかり。

 わたしは3年ほど前にこの街を出て、今の夫と一緒になった。

 そういえば夫とは、一度もこの店に来た事がなかった。

 ううん、そうじゃない。

 来れなかった。

 ここには常に先客がいたから――わたしの素敵な思い出。


 わたしがここに来たのは、サッチンからの電話がきっかけだった。


「先輩、お久しぶりです」

「先輩はよしてよ。もう上司とか部下とかじゃないんだから」


「でも、わたしにとっては先輩は先輩です!」

「で、そっちはどうなの? うまくいってる?」


「そりゃあもう、ばっちりです!」

「なにがよ」


「今度の彼、すっごくやさしいんですよ。まぁ、でも先輩の旦那さんには負けちゃいますけど」

「おいおい、そういう御世辞はいろんなところが痒くなるからやめんかい!」


「ははは、でも本当に素敵な旦那さんですよね。私がなかなかいい人にめぐり合えないのは先輩のせいですからね! 先輩の結婚式に出て、このままじゃいけないって、本気で思いました」

「あ、あのね。あんたの前の彼氏もなかなかのいい男だったと思うけどね」


「えー、あれはダメですよ」

「あれって、オイ! 罰当たりなことを言うでない! サッチン」


 わたしは今の夫に4年前に出会い、結婚して会社を辞め、家庭に入った。

 結婚式には部長をはじめサッチン、アッコ、キヨミみんなが祝福してくれた。

 今でも3人にはときどきメールやSNSで連絡を取り合っている。

 『AntiquesMelidy』が11月いっぱいで店を閉めることを聞いたのはサッチンからのメールだった。

 今付き合っているサッチンの彼氏が、たまたまこの街に住んでいて、彼氏の部屋に遊びにいったときにそのことを知ったのだという。


 それから久しぶりにサッチンと電話で話をした。

「私的には、どうかなぁと思ったんですけど、一応報告しておいたほうがいいかなぁと思いまして」

「ありがとう、サッチン。『AntiquesMelidy』のマスターには本当にお世話になったから、ちゃんと挨拶しておかないとね」


「前の彼のこと、思い出してセンチメンタルモード突入ですか?」

「あ、あのねぇ」

 サッチンにはあの人とのことで、相談に乗ってもらったというか、乗せられたというか、話せることは全部話してしまった。

 正直、それでやっと吹っ切れたのだと思う。


「はい、わかっております。このことは他言無用ということで」

「わ、わかればよろしい。えっ、何よ、まさかあんた口止め料になにかおごれと?」


 結局サッチンに最近巷で話題になっているスウィーツバイキングをご馳走することになった。

 いや、それはむしろわたしが食べたいだけなのかもしれないが……。


 サッチンとはこのあと合流する予定だ。


「で、マスター、ここ閉めてどうされるんですか?」

「コーヒーの愉しみ方を知らない子が増えているのが残念でね。おいしいコーヒーの入れ方を本にでもまとめてみようかと思っての」


 店内にはわたしの他に、一組の老夫婦だけだった。この店は変わっていないけれども、わたしもこのような喫茶店にはすっかり足が遠のいていた。


「本って……作家先生になるってことですかぁ?」

「まぁ、そんなたいそうなものじゃありません。何も後継者というのは特定の誰かである必要はない。一人でも多くの人にコーヒーの愉しみ方を伝えるにはどうしたら良いかなと考えていたら、本でも書いたらどうかって、昔のお客さんに薦められましてね」

 10年前と何も変わらないと思っていたけれど、やはりマスターの顔にはそれ相応の年輪が刻まれていた。ありていに言ってしまえば、本物の仙人のように見えた。


「なんかそれ、素敵かも。わたし、絶対その本買います! 買ったらサインしてくださいね」

「ほう、これは幸先がいい。もう予約が2件も入った」

「へぇ、私以外に予約している人がいるんですね。ああ、その本を出せばって勧めてくれた人ですね」


 マスターはにこにこと笑いながら、カウンターの下からメガネケースのようなものを取り出した。

「実は本を書くことを勧めてくれた人が、これを私にプレゼントしてくれてね」


 ケースにはマスターに似合いそうな素敵な万年筆が入っていた。

「へぇ、いまどき万年筆の贈り物なんて珍しいですね。でも素敵」

 マスターは大事そうに万年筆を眺めながら、わたしに言った。


「これはね。あなたのよく知る人からのプレゼントなんですよ」

 マスターは目を細めて、わたしに微笑みかけてくれた。

 その笑顔の向こうに、あの人の面影が浮かんだ。


「えっ、よく知っている人とって……まさか」

「二日ほど前、ふらっと現れて、東京に来たついでにどうしてもここのコーヒーが飲みたいって」


 胸がドキドキする。

 それはまるであの時の感覚。

 初めてあの人に会ったときの、少女が恋をするような、甘酸っぱい思い。

 きっと今、わたしの顔は赤くなっている。

 思わず下を向いてしまった。

「元気そうでしたよ。それから、よろしく伝えて下さいと。きっとあなたが現れるだろうからって」


「嘘、そんなこと、どうして」

「この店で、そういうことが起きるのはちっとも不思議なことじゃないですよ。私はもっと数奇なドラマをいくつも見てきました。もしかしたらこの店には物語をつむぎだす、不思議な力があるのかも知れません」


 マスターがにこっと笑ってそう言い終えると、お店に懐かしい音楽が流れだした。

「あ、この曲、懐かしい」

「たとえば音楽もそう。その人が聞きたいと思っている音楽が、自然とラジオから流れることがある。きっと今、あなたはこの歌のように、甘くせつない想い出に充たされているんじゃないかな?」


「そうかもしれません。そういうことって、あるのかもしれないですね。この店では……」

「おいしいコーヒーには素敵な物語と音楽、そして素敵な人が集まる。だから私はコーヒーがたまらなく大好きなんですよ」


 わたしはその曲を最後まで聴いて店をあとにした。

 すっかり変わってしまったこの街。

 でもあの頃と変わらないコーヒーの香りと、心のどこかに引っかかっている曲に耳に傾ければ、セピア色の想い出が街を覆い尽くし、10年前にタイムスリップできる。

 2009年の冬。そう、あの人と別れてから10年。街の風景は移ろいで行くけど、素敵な音楽とコーヒーの香りは何も変わらない。


 『土曜日のタマネギ』は、わたしの中で、大切な、大切な想い出。

 想い出の扉のカギ。

 背伸びしていた頃のわたしを見ることができる魔法の鏡。


 わたしはひとり、暮れなずむ街の中を『土曜日のタマネギ』を口ずさみながら歩いた。


  さよなら、ニンジン、ポ テト

  宇宙の果てにおか えり

  胸に残り火ごと 残部捨ててきたと思ったのに


 駅に向かう交差点。

 信号待ちをしているとき、ふと誰かの視線を感じた。

 まさか、まさかあの人?


  おなべの底にタマ ネギ ひとりしがみつい てる

  イヤヨ、アキラメナイ!…たぶんこれがわたしね


 それはあの人に良く似た背格好のぜんぜん別の人だった。


  WHY.WHY.WHY? 今夜 わたし

  いらないオンナになりました

  ころがる床の上


 安心をしたのか、残念だったのか――或いは、その両方だったのかもしれない。

 わたしは懐かしさと、こそばゆさを心の片隅に飾って、しばらく10年前のわたしを眺めていた。


  バカげた小指のバンソーコ 見せるつもりだった

  いっしょに笑ってくれないの?

  いつもの土曜日なのに



 背伸びしていたわたし、バイバイ



おしまい


土曜日のタマネギ

作詞:谷山浩子/作曲:亀井登志夫/編曲:武部聡志

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最後の晩餐~土曜日の玉ねぎとあの人と めけめけ @meque_meque

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