第34話 三日月が肉じゃがに刺さる夜

 ほどなくしてあの人がレジ袋を二つ持って現れた。

 あの人は、中で待っていればいいのにと言ったが、わたしは合鍵を作れるところを探しに行って今着いたところだと、悪ぶりながら鍵を返した。


「台所は覗いちゃだめだよ」

「なんかあれね、鶴の恩返しみたいね」


「そう、だから絶対にいいというまでは覗いたら駄目だよ」

「もし覗いたらのどうなるのよ?」


「恐怖の大王が遅れてやってくる」

「結構な遅刻ね」

「なに、ちょっと遠慮していただけさ」

 あの人は、わたしの嘘を、見逃してくれた。

 あの人の優しさがうれしくもあり、悲しくもあった。


 わたしはあの人の声が聞こえるようにリビングとキッチンを仕切る引き戸に背中を預けながら話し始めた。

「じゃあさぁ、覗かないから、その代わり、何か面白い話を聞かせてよ」

「面白い話?」


「うん、面白い話」

「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」


「ふんふん」

「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に……おっと、じゃがいもの皮をむくやつ、どこだっけ」


「ピーラーなら台所の引き出しの中にない?」

「おー、あった、これこれ、おばあさんが洗濯をしていると川上から大きな……」


「じゃがいも?」

「ちがうちがう、桃だよ、桃」


「手とか切らないでよ」

「大丈夫、桃は切っても指は切らないよ」


 それを幸せな時間といえばそうなのだろう。

 不倫とか、愛人とか、そういうのではなく、私たちは愛とか、セックスとかそんなんじゃなく、ただ、こうして会っているのが楽しくて、そして帰らなきゃいけない時間が来ると、ただただ寂しくて、仕方がなくなる。

 寂しいからまた会いたくなるし、それをこうして、一年近く繰り返してきただけ。


 つらいとか、悲しいとか、そういうことじゃなく、でもどこか後ろめたいのも事実。

 何よりも二人がそれを自覚して、お互いを気遣っている。

 もしも、もっと早くに出会っていたら……そんなことを思うことがあるけど、でもいつも答えは同じ。


 こうして出会わなければ、きっとお互いを見つけることはできなかった。

 こんなふうにしか、出会えない、二人だったにちがいない。


 桃から生まれた愛の戦士が、世紀末に訪れる恐怖の大王を倒すために猿と河童と豚の妖怪をお供に世界を旅する途中で、意地悪なお婆さんにいじめられていた亀を助けて竜宮城に案内され、そこで開催された武道会で巨大な熊を相撲で負かして優勝し、賞品として大きな玉手箱と小さな玉手箱のどちらを選ぶかと聞かれ、小さな玉手箱を選んび、地上に戻ってみると、もうすでに1999年の7の月は過ぎて世界は滅んでおり、途方に暮れた一行が玉手箱を開けてみると、中から一寸ほどの侍が現れて、なんでもいいから願いを3つ叶えてやろうと言うので、愛と平和と美味しいご飯が食べたいと願ったところ、大王は消え去り、世界は救われ……

「そして今、3つ目の願いが叶おうとしているってわけさ、おしまい」

「すごい、すごい! あー、なんかいい匂いがしてきた」


「あれ? もしかして匂いで料理わかっちゃうかな?」

「どうかな? もし間違っていたらいやだから言わないもん」


「正解した方にはもれなく」

「もれなく?」

「おいしい料理が食べられます」

「えー、正解したい、正解したい」


 肉じゃがかカレーライスのどちらかで、たぶん肉じゃがだと思う。

 醤油の香りがしてくるかどうかで決まるけど……


「お! これはなかなか」

「えー、なになに、味見させて、味見」

「まだ、だめだよ」

 エプロン姿が妙に似合わない。

 あの人は体が大きすぎる。

 でもその大きな背中はわたしを安心させる。

 男の人の背中はときに寂しそうに見えることもあるけど、あの人の背中にはそういう暗さは、ないように思っていたのだけれど……


「ねぇ、まだぁ? お腹空いたよぉ」

「もうできるよ。ちょっと待っててね。今、食器を用意するから」


「あっ……」

「え? どうしたの?」

「ああぁ……やっちゃった」


「え? 何を」

「いやぁ、料理を作るのに夢中になって、ご飯を炊くのをすっかり忘れちゃったよ」


「えー、でも、肉じゃがなら大丈夫じゃない?」

「あ、わかっちゃった?」


 じゃがいもを洗って皮をむく音、タマネギの皮をむいて刻むときに目に染みたこと、ニンジンを切る時にまな板から転がり落ちたこと、白滝を開けるのにざるがどこにあるかと聞かれたこと、肉を炒める音、ぐつぐつと煮る音――見なくてもわかる、あの人の所作。


 食卓に鍋一つ、それを囲む二人の間に甘く香る湯気が立つ。


「すごい! わたしよりも見た目が肉じゃが!」

 わたしはどんなふうに喜んだらいいのか、はしゃいだらいいのかわからなかった。

 うれしいことはうれしい。


 わたしがあの人に作ってあげた料理はポトフ、肉じゃが、シチューにカレー、どれも鍋ひとつでごっそり作れるものばかりだった。

 

 なんでもそつなくこなすあの人に少しだけジェラシーを感じてもいたし、何よりもあの人の中に、わたしの部分、わたしが作って食べてもらった料理を覚えてくれたことに少しばかり動揺していた。


 あの人の中に、わたしは新しいメニューを書き足したという実感が、怖かった。


 このモヤモヤした感じは何なのだろう?

 すごくうれしいのに、後ろめたい気持ちがこみ上げてくる。

 このままじゃいけないと思えてくる。


 ホクホクのじゃがいもはちょうどいい火の通り加減で味も完璧にしみていた。

 美味しい。

 あの人はきっとわたしなんかに出会わなくても、こんなふうに料理を作れたに違いない。


 ”彼女”に、恨まれちゃうかな――


「こうして自分で料理を作って、美味しいって言って食べてくれるのって、結構うれしいものなんだね」

 そんなことをボソリとあの人が言った。

 食べ終わった後、洗い物をわたしがするからと言っても、あの人は最後までやるときかなかった。

 台所で食器を洗うあの人の後姿。わたしはそのとき、初めて、あの人の背中になんともいえない哀愁を感じた。


 男の人ってこういうふうに背中で泣くんだね。


 あの人の心はここにはなかった。


 その日、わたしは明日は朝早くに用事があると嘘をついて、早めに出た。

 わたしの部屋まで送るとあの人は言ったけど、まだ早い時間だから大丈夫だと断ってしまった。

 わたしには自信がなかった。


 もし、あの人がわたしの部屋まで送ってくれたら、きっとそのままあの人を引き止めてしまったに違いない。


 何かが変わろうとしている――そんな気がした。


「月が、なんだか寂しそう」

 夜空に三日月が浮いている。それは今にも消えてしまいそうなくらい細くて、石を投げつけたら壊れてしまいそうに見えた。

 もしそのとき、足元に小石が落ちていたのなら、きっとわたしは石を投げてしまったに違いなかったけれど、アスファルトが無機質にどこまでも続いている。

 仕方がないので夜空の三日月を指でなぞって、そして指で弾き飛ばしてみた。


 わたしには、三日月がくるくるとコインのように回って見えた。

 クルクルまわる三日月にふーっと息を吹きかけるとゆらゆらと回転を鈍らせて空からわたしの手のひらに落ちてきた。

「ごめんね。いま夜空に返してあげるから」

 眼を回している三日月を力いっぱい夜空に向かって投げ返した。

 三日月は冬の夜空に見事に突き刺さっている。

 なぜだか少し、わたしの胸にも何かが突き刺さったような痛みが走る。


「負けないんだから!」

 意味も無くわたしは意地をはって見せる。


 意味なんか、必要ない。

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