第31話 時の流れに身を任せて
今はこれでいい
それはひとつの決意だったのかもしれないし、そうじゃなかたのかもしれない。
わたしは……時の流れに身を任せることにした。
その先に何があるのか、どうなるのかわからない。今よりも辛い事が待ってるのかもしれないし、そうはならないのかもしれない。
でもだからこそ、わたしは今を大切にすることに決めた。
あの人の優しさに思いっきり甘えて、あの人のいろんなこと――過去も現在も未来もすべて受け入れて、それでダメなら、仕方がないと思うことにした。
想いが報われないことなんて、特別なことじゃない。
それに私たちの関係って、なにも特別なことじゃない。どこにでもある男と女の……でも、あの人はどう考えているのだろう。
それを考えると、どうしようもなく胸が痛くなる。
「最近どうしたの?」
仕事帰りに二人で待ち合わせをして、ふらっと立ち寄った洋風の居酒屋。店内には懐かしい曲が流れ、わたしはついその歌に聞き入ってしまっていた。
「え、なにが?」
あの人のまっすぐな目に、思考が停止する。
「いや、ちょっと、ね」
あの人はすぐに表情をくずし、物静かに笑って見せた。
「なによ」
聞き入っていた曲のことを話そうと思ったけど、それは何か違うような気がした。
「あ……なんでもないよ、ごめん、あのさ――」
何かを察してか、あの人は話題を変えようとする。
「『ちょっと、ね』って何?」
「いや、ほら、なんか、急に寒くなったからか知れないけど、一段ときれいになったかなぁと」
「えーと、前半と後半が支離滅裂なんですけど」
「そうなんだ、もう尻が滅茶苦茶割れてて」
「こら、ごまかすな!」
「最近、意地悪度が増してきてない。実はSだったりして?」
「いまから縛りつけようか……それともローソクがいい?」
「あ、ローソクはなんでできてるか知ってる?」
「え? ローソクって、蝋だから……ロウってなんだっけ?」
「教えて欲しい?」
「なにその反撃……でも、気になるじゃない」
「教えてあげない」
「もう、意地悪!」
「あ、やっと、『もう』って言ってくれたね」
「あ~、もう!ズルいんだからぁ~」
今にして思えば、お互いに感じていたのかもしれない。
気付かない振りして、お互いを気遣って、ギクシャクしないように、明るく振舞っていただけなのかもしれない。
閉店間際に店を出た後のわたしは、それまでに感じたことのないような疲労感に似た戸惑いを感じていたし、もしかしたら、あの人もそうだったのかもしれない。
きっと、そうにちがいない。
「ふ~、寒い」
残暑が厳しかった分、10月の終わりの冷え込みは、まるで二人の心情をそのまま表しているようだった。
もうすぐ、一年、長かったのか、短かったのかわからない。
一年中そばにいたわけじゃないけど、一年中、あの人はわたしの心の中にいてくれた。
でも、あの人は、どうなのだろう……
わたしは不思議な気持ちになっていた。
忘れて欲しくない。
あの人には、名古屋の女(ひと)のことは、忘れてほしくない。
もし、忘れてしまうような人だったら、わたし、きっとあの人を好きになんかなってなかったに違いない。
「もう、そんなの、どうだっていいじゃない!」
駅からのアパートまでの帰り道、わたしはひとり呟いた
何がどうだっていいのか、言ってるわたしがわからない――不意に携帯が鳴る。あの人からだった。
「あ、もしもし、どうしたの」
「あー、なんか、今日は、ゴメン、変なこといっちゃて」
「え? 変なことって?」
「あー、いやー、その……ああ、Sとか、尻とか……」
「は?」
「いや、気にしていないなら、いいんだ。今日は寒いから、ちゃんと布団かけて寝るんだよ」
「あ、あのねぇ、子ども扱いしないでよね、もう」
「じゃぁ、切るね」
「うん、ありがとう」
「え?」
「ううん、いいの、ただ、ありがとうって言いたかっただけ」
「……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
わたしは電話を切ると、その場でしばらく携帯を眺めていた。もう携帯電話は沈黙を守っている。
「あれ、どうしたんだろう、いやだ、もう、こんなところで」
気がつくと、大粒の涙が、わたしの頬を伝わり、冷え切ったアスファルトの上に零れ落ちた。
「やさしくされるのって、こんない辛いんだね」
この日を境に、二人の関係は、急にギクシャクし始めた。
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