第30話 愛を止めないで

 10月、いよいよ1999年も終わろうとしている。

 人によっては21世紀が始まろうとしているってなるのかな。でもわたしには実感がない――この先のことなんて。

 

 巷は2000年問題でもちきり。ノストラダムスの予言は、実は10年間違っていたそうで、たぶん、10年後の2009年も何事も起こらないだろう。

「ねぇ、10年後ってどうなってるかな?」

 わたしは不安だった。

「え? あぁ……ごめん、何?」

 あの人が時々、ぼんやり遠くを見ているのが気になっていた。

「もう、聞いてるぅ? 最近考え事とか多くない? わたしに内緒で、何考えてるんだか」

「……エッチなこと」

「もう、うそばっかり」

「本当だよ。あんなことしてみたり、こんなことしたら、どうなるかなぁって」

 あの人は甘い声でわたしの耳元でそうささやいて、頭を撫でてくれた。でもなぜだか、わたしの心はざわついた。あの人の部屋だけど、そのまま身を任せる気にはなれなかった。


「なによ、それ、そんなことより、10年後よ、10年後」

 あの人は少し意外そうな顔をしたような気がする。

「そうだなぁ、10年後には、きっと、ねぇ、2019年ってどうだろう? っていてるんじゃないのかな」


 わたしは少し、意地悪をしたくなった。

「ふ~ん、誰と?」

 一瞬、ほんの一瞬、あの人は悲しい顔をしたような気がした。でも、すぐに笑って、それからキスをしてくれた。わたしはそれを受け入れた。

 受け入れるしか、なかった。


 あんなことや、こんなことは、特別なかったけれど、少しばかり激しく愛し合った。


「ねぇ、仕事のほう、どう?」

 ベッドで顔を合わせながら話をするのは久しぶりだった。

「そうだなぁ。まぁ、ニュースでやってるみたいに、飛行機が落ちたり、証券取引所がストップしたり、銀行の預金残高がゼロになったりするようなことは、起きないと思うよ」

「たいした自信ね」

「そりゃ、そうさ。僕を誰だと思ってるの?」

「キャベツの王子様」

 わたしは少しはにかみながら、ずっと心に秘めていたわたしの気持ちを少しばかり誇張して伝えた。

 そう、わたしにとってあの人は王子様。

「え? 何それ」

「えー、ウソ! 覚えてないの?」

「いや、そうじゃなくて、なんでキャベツ? 普通ほら、白馬とか星とか、そういう言葉と一緒につかうでしょう、王子様って」

「じゃぁー、世紀末王子っていうのはどう?」

「なんかそれ、期間限定っぽくてやだな」


 一瞬ドキッとした。

 また余計なことを言ったと思った。

 どうしようもなく、口をついて出てきてしまう、意地悪な言葉。

 あの人の鼓動が一瞬躓いたような気がした。

「だいたい、僕は拳法とか使えないからね……寝ようか」

「喉乾いた。水、飲んでくるね……いる?」

「いや、いいよ。先に寝ちゃったらゴメンね」

「そう? 額に肉って、書いちゃうかもよ」

「書いても良いけど、水性にしておいてよ」

「さぁ、どうかしら」


 台所の灯りはつけずに、冷蔵庫を開ける。薄明かりが台所を照らす。冷やしてある水を取り出そうとすると、ひんやりした空気が素足を滑り落ちる。気持ちいい。


 コップを食器棚から取り出す。この部屋にはわたしの物は少ない。食器類はすべてあるものを使っているし、洗面用具は必ず持参する。

 唯一あるのは、コーヒーカップだけだ。あの人がわたし用にと、買ってくれたのは、ここに来るようになって一月後くらいのことだった。


 もう一年になろうというのに、わたしのものは、このコーヒーカップくらいしかない。


 それでも……

 それでも、わたしは、いたたまれなかった。


 不意に寒気が走る。さすがに夜になると冷えてくる。激しく汗をかいた後だけに余計にそうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 あの人のシャツを素肌に羽織っているだけなのだから、寒くて当たり前。でも、きっとそうじゃない。

 たったこれだけの、ベッドから台所の距離を離れただけなのに、わたしは寒さを感じている。


「名古屋と東京なんて、新幹線で2時間もかからないのに……わたしなら、耐えられない」


 ベッドに戻ると、あの人の寝息が聞こえた。わたしはあの人の頭をそっと撫でた。

「本当に、書いちゃうぞ、『肉』って」


 その夜は、なかなか寝付けなかった。わたしはあの人の背中にそっと身体を寄せながら呟いた。


「やさしくしないで」

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