第29話 あっかんべー

会社をサボった日をピークに、わたしはどこかふっきれたような気になっていた。


 "気になっていた"というのは、言葉のとおり、結局何一つ解決はしていない。何よりも、わたし自身が解決を望んでなんかいなかったのだから……


「まぁ、今回の件は、これで行くしかないか」

 部長が企画書とサンプル画面を見比べたあと、見積書の数字を指でなぞりながら確認をする。

 今回の案件はクライアントのニーズとはいささかかけ離れた内容で提案書を作成することになった。予算と要望、期間とボリューム、どれもアンバランスな仕事の依頼に、チーム全員で頭を悩ませていたが、部長のアドバイスを受けてこちらが良いと思う案を強引にまとめることにしたのだった。


「部長、これじゃぁあ、ちょっとマズいんじゃぁ……」

 折衷案でも妥協案でもなく、まるで違う切り口、クライアントの要望を無視したような内容であるが、できないことやスケールダウンした提案をするよりは、思い切って斬新なアイデアで勝負する。調整型のわたしにはできない判断だった。


「何をやってもダメってことは、何をやってもいいってことだよ」

 頭を抱えてしまっているわたしを見かねて、部長が助け船を出してくれたのだった。

「大丈夫、どのみち、正攻法ではどうにもならないんだから」

 部長はすぐにクライアントに電話をした。


 まずは担当者と話をして、予算や要望の確認をした上で、実はこちらでまったく違う案ができたが、担当の方から説明する何かと苦労があるでしょう。上席の方は私と年齢も近い事ですし、良かったら私からご説明します……うんぬんかんぬん


”つきましては、こちらが一切責任を負います、ご迷惑はおかけしませんから”


 という殺し文句の後に最高責任者にに取り次いでもらったようだ。


 担当者の方はとてもまじめな方で、会社の方針に従ってしっかりと仕事をなさっておいでです。しかしこういうことは、少し発想を飛び越えるようなことも大事です。これを両立させればより良い物ができるでしょう……うんぬんかんぬん


”ご担当の方の苦労にも是非報いたいと思い、こちらも最高の案をまずご提案したい”

”予算につきましては、できるだけ勉強させて頂きますが、良い物にはそれなりに費用が掛かります。まずは目で見てその価値をお確かめ下さい。これはトップの方しかできないことです”


 部長はそのままデザインのイメージをメールで送り、こちらの意図を伝えた。


 話がまとまり部長は電話を切ると、私に指でOKマークを作って見せた。

「担当は上の人間の要望を全部きれいにまとめてこちらに投げてきているけれど、あちらだって、そんなこと実現できるとは思っていないさ。要はそれぞれの立場で最大限努力したという経過が必用なのさ」


 部長はネクタイを緩めながら冷めたコーヒーを一気に飲み干す。

「それじゃあ、この案をもとに勧めることになったんですか?」

 部長は首を横に振る。

「いいや、もう一度予算を組み直すとさ。"御社のアイデアは実に見るべきところがある。しかしながら我が社イメージとしては斬新すぎる。ここはひとつ折衷案で、このアイデアはサイトの一部で新規商品の入り口で使うことにして、全体としてはボリュームに応じた予算を検討する。ただし期間は伸ばせても最大一か月だ"ということだ」

 部長はこういうとき、本当に肝が据わっている、或いは楽観的というのか……でも、それが結果的に悪いほうに転がらないところが、わたしにはどうにも頭が上がらないし、頼ってしまう。


 そういう時は、頼っちゃたり、任せたりしたほうがいいのだと思えるようになったのは、最近の話である。


 その日、いくつかの打ち合わせの後、部長からランチに誘われた。

「お前、最近、無理してないか?」

 会社近くの日本そば屋、いつもは愛妻弁当の部長は、奥さんが夏風邪にやられたらしく、今日は珍しく外でお昼を食べることになった。

 そしてどういうわけか、わたしを誘い出して、今、目の前で天ぷらそばのセットをすすっている。


「無理なんか全然……アッコもサッチンもキヨミもみんながんばってくれてますし、部長とマンツーマンでやってた頃に比べたら、全然余裕っすよ」

 決して強がりではない。あの子たちには本当に救われていると思う。公私共に。


「そうか、それならな。まぁ、うちのカミさんでも風邪を引くことがあるくらいだから、お前も無理するなよって、ただそれだけだよ」

 部長の垂れ下がった目じりのしわが、いっそう深く、そして愛らしく見えた。


「ひどーい、部長」

「なにがだ」

「奥さんに対して失礼ですよ。風邪引かないなんて。そ・れ・に、わたしと同類みたいないい方して、それこそ奥様に失礼ですよ」

 部長は口の周りについためんつゆをハンカチで拭きながら、照れくさそうに笑った。そして、意地悪そうな顔をして反撃の体勢を整えた。


「そういうお前はいい男いないのか? ミレニアム婚とかするなら今だぞ、がんばればミレニアムベービーだって夢じゃない」

 西暦2000年というキリ番で結婚や出産をすることは、確かに素敵だとは思うが、何か本末が転倒している気がする。

「ベーっだ」

 わたしは渾身の笑顔であっかんべーをした。思わず部長になら相談できるかもという誘惑に駆られ、そのことを払拭するために、多分、人生で最高のあっかんべーだったにちがいない。


「こら、こら、いい女が台無しだぞ」

 部長は大きな声で笑ってくれた。でも……ちがうんです。


 わたし、結構、悪い女なんです。


 そんなわたしを部長やあれこれ気遣ってくれる。これが年の功というものなのかどうかはわからないけれど、二人でコンビを組んで新規開拓営業を回っていたときのように声をかけてくれる。

 部長から夕食に誘われたのは、残暑厳しい9月のある日のことだった。


「すまんな。お前のおかげで俺はだいぶ楽をさせてもらってる。今どきの娘というのは、どうもきっかけがつかめなくてな、ついつい杓子定規な話し方になってしまう」

 部長は40歳、私は28歳。一回り違うと一週回って相性がいいという話をどこかで聞いたことがある。

「なんですか、それぇー、わたしだって、まだまだ『い・ま・ど・き』ですからね。失礼しちゃうわ、もう!」

 そうなんです。わたしって、結構いまどきの、ダメな女なんです。


「かっ、かっ、かっ、かっ。だって、ほら、お前くらいしか俺のギャグで笑ってくれないから」

「はいはい、どーうせ私のセンスはオヤジですよ」


 わたしは気がついた。そう、これなんだ。

 きっとこれにちがいない。

 わたしをイライラさせていたのは、自分に対する違和感だったんだ。


 部長は部長らしく、アッコも、サッチンもキヨミも、みんな自分らしいのに、わたし、なんか背伸びしてるのかもしれない。


「部長、まさか、家でもお寒いオヤジギャグ飛ばして、奥さんに風邪を引かせたんじゃないでしょうね」

「さて、どうかな。妻は箸が転がったら自分も転がって笑うタイプだからな」

 わたしは本当に、心の底から、笑いたくなった。

 笑い転がりたくなった。

 そういう自分になりたいと、本気で思えるようになった。

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