第27話 悪女になれない夜

 マズいなぁ……

 最近はすっかり、それが口癖になってしまった。

 どうしてなのか、なぜなのか……わたしにはよく、わかっている。

 わかっていて、どうしようもできないからこそ、口をついてその言葉が出てきてしまう。


 マズいなぁ……

「自分で作って、不味い、不味いって、大丈夫かよ、あれ」

 冷蔵庫がうなる。

「何言ってんのよ、本当にあなたは女心ってものがわかっていないんだから!」

 ティーカップはいつでもわたしの味方をしてくれる。

「ふん! わかるわけないだろう! おれはただの冷蔵庫なんだから」


 最近、お気に入りのティーカップと冷蔵庫がことあるごとに喧嘩をしている。

 それがなぜだかうらやましく思えてきた。

 もし、いま、わたしがあの人と喧嘩をしたら、わたし、自分の思いをそのままぶちまけちゃうかもしれない。


 でも、もしかしたら、そのほうが楽なのかも……楽なのかな?


”それって、ぜんぜん問題の解決になってない”

 そう言ったのは、数日前のわたしだった。



 先日、顧客からの無理な要望と、それに対応するための社内の制作進行の調整についての決定事項に納得いかずに、部長に噛み付いてしまった。

 頭で理解できていても、気持ちの上で納得できませんとか、わたしはよくても制作のみんなの気持ちを考えると、とても承服できませんとか、言いたい放題言ってしまった。


「すまんな、嫌なことばかり押し付けてしまって。今回は俺から皆に話しておくから」

 部長は眉ひとつしかめずに、わたしの言い分を聞いた後、やさしく肩を叩きながらそう言ってくれた。

 ただただ、イライラして、それで部長に思いっきりぶちまけてしまった。

「部長、すいません、わたし、つい……」

「いいんだよ。それぞれ担う役割という物がある。気にするな」


 部長に頭を下げて、わたしは人知れず唇を噛んだ。

 自分は果たして、サッチンやキヨミやアッコのことを思って、部長に詰め寄ったのだろうか。

 そうじゃないことは、わたし自身が一番よく知っていた。


”解決すべき問題から目を背けているだけじゃないんですか”

 食べかけの食器にラップをかける。

 考え事をしてうっかり焦がしてしまった鮭の切り身がぐったりと身を横たえている。

「明日、おにぎりにして会社に持っていきますから。今日は、ご馳走様でした」


 食べかけのおかずと交換に缶ビールを冷蔵庫から取り出す。

 最近、晩酌の頻度があがっている。

 夏はビールだ!ってそんな健康的な飲み方じゃない。

 ビールをちびちびと不味そうに口に運ぶ――とても人には見せられない。


”だからいつまでたっても、前に進めない”

「楽しくないお酒は健康に毒だぞ」

 不機嫌なトースターは目をそらしながらつぶやく。

「あらあら、すっかりお肌の曲がり角、気とつけないと事故起こすわよ」

 洗面所の鏡は日を追うごとに口が悪くなる。わたしもそれに応戦する。

「落書きするぞ」

 息を吹きかけて鏡を曇らせ、へのへのもへじを書き込む。

「下手クソ……」


”見て見ぬふりをしていたら”

 ベッドにもぐりこむもなかなか寝付けない。そうだった。寝付けないから晩酌が増えたんだった。CDボックスからランダムに1枚取り出す。暗闇でスイッチを手探りで押す。なんどかミスりながらもCDをセット。ヴォリュームを少し絞って……なんで中島みゆきかな


 2曲目の『悪女』を有無も言わせずスキップする。


「悪女なんかじゃないもん。悪女なんかに……なれない」

 最後の曲14曲目の『ファイト!』が流れる頃には、わたしはすっかり夢の中にいたのだと思う。『ひとり上手』と『慟哭』がかすかに耳に残っている気がした。

”何もかも、ダメになってしまう”



「『大吟醸』って日本酒よね、あれ?焼酎だったかしら?」

「日本酒だよ。お前さんがべろべろに酔っ払って前後不覚になったお酒」

 トースターは相変わらず機嫌が悪く、今朝も少しパンを焦がしていた。マーガリンを冷蔵庫に戻すとき、昨日の食べ残しのシャケが目に入る。

「いっけな~い、忘れてたよ。ごめん、もう時間がない……南無三!」


 バターン!


 自分が情けないという気持ちが心の底からこみ上げてくる。

「しっかりしないと!ファイト!」


 パーンッパーン!


 いつものように頬を両手で叩き、自分に気合を入れる。でもすっかりガス欠を起こしているわたしの心は、身体にエンジンをかけることができずにいた。すっかり支度を済ませて玄関を出ようとしたわたしは不意に目眩がして、思いっきりよろけてしまった。どうしてだろう。涙が止まらない。あー、わたし、いつの間にかぼろぼろになっている。


 嗚咽が止まるのを待って、会社に連絡した。完璧な鼻声で最高の演技で

「ずいまぜん、ぎょうは、がぜで、やずみまず」


”ただ怖くて逃げました――わたしの敵は私です”


 その後ベッドに横たわり、CDをかけた。今度は『悪女』を飛ばさずに聴き、『ファイト!』を歌詞に身を震わせて、繰り返し『大吟醸』を聴いて過ごした。

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