第24話 部屋と冷蔵庫とティーカップとわたし
猛暑――7月の半ばから東京では気温が30度を切ることがなく、我が家の冷蔵庫もビールと缶チューハイが切れることはなかった。
休日、あまりの暑さに何もする気になれないわたしは、ひとり自分の部屋のキッチンで、がらんとしたテーブルに頬杖をつきながら、ただただ、ぼーっと考え事をしていた。
冷蔵庫が心配してぐぉーん、ぐぉーんとわたしに声をかけてくれた。
「どうしたんだい? 浮かない顔して、彼と喧嘩でもしたのかな?」
ティーカップが異を唱える。
「もう、やめなさいよ! そういうこと言うの、本当にデリカシーがないんだから」
「なんだ? そのデ・リ・カ・シ・イィ って新しいお菓子かなんかか?」
「もう、これだからあんたたちみたいな堅物と話したくないのよ」
「フン! 堅物で悪かったな」
ぐぉーん、冷蔵庫が一掃大きな音をたる。ティーカップはそっぽを向いているけれど、臨戦態勢を解いてはいないようだった。
彼女は人一倍、気位が高い。眠気覚ましに入れたアップルティの香りが立つ。
「はぁ」
今日、何度目のため息だろうか?
「ため息をつくと、その分だけ幸せが逃げるそうだよ。どうだい、何か食べないかい?」
冷蔵庫に促されてわたしは冷蔵庫の扉を開ける。缶ビール半ダースに缶チューハイ2本、ミネラルウォーターに卵が3個,3個セットで特売していたハムが最後の1セット、賞味期限切れていないかな?
ふと、思いつきであることを試してみたくなった。
「こらこら! なにを馬鹿なことを!」
わたしは冷蔵庫の前にしゃがみこみ思わず頭を中に突っ込んでしまった。
「ひぃぃぃえる~~。気持ちいいかも」
馬鹿ついでにもう一つ。「オオサマノミミワ、ロバノミミー!」と叫んでみた。
「ねぇ、どうしよう彼女……ついに壊れちゃったのぉ?」
飲みかけのアップルティの湯気がゆらゆらと不安げに揺れている。
「お前らまだいいよ。オレなんか最近すっかりご無沙汰。全然使ってくれないんだから、忘れられちゃったかな」
トースターはカバーの代わりにかけられてフキンの裾から不満をもらす。
不意にある事が頭に浮かんだ。
それは昔流行したあるCMのキャッチフレーズだった。
わたしは笑いそうになるのを堪えながら、当時中学生だったわたしには理解できなかった、社会でバリバリ働くきれいなお姉さんの悲哀を演じきってみせた。
「柴漬け食べたい」
ばたーん!
冷蔵庫から取り出したハムと卵。フライパンの上にサラダ油、ハムを並べそして卵を二個割って落とす。一つは失敗して形が崩れてしまった。
ふと、卵は必ず一度、器に落としてから調理に使うようにと、教わったことを思い出す。
「思えばわたし、一度もそんなことやったことないかも」
ふと、冷蔵庫に取り残された最後の1個をきちんと器に落として割ってみたいという衝動に駆られたが、フライパンの上で私を見つめる二つの目玉がわたしに熱い視線を感じて、それはやめることにした。
「そういえばアイツはソース派だったな。あの人はどっちだろう? まだ聞いてなかったなぁ」
”目玉焼きに何をかける問題”は、2000年問題よりもずっと深刻で、身近で、そして人類の歴史とともに未来永劫答えの出ない問題だ”
と彼なら、言うのかもしれない。
わたしはキャベツを取り出し、まな板の上に置いた。
「キャベツ――そう、出会いは一本の糸と、そしてキャベツ……かぁ」
きっとわたしはハムエッグが食べたかったのではない。
キャベツが食べたかったのかも、いや、それも違うかもしれない……。
わたしは少しばかり切れ味が落ちた包丁を100円均一ショップで買ったシャープナーで磨いでから、無心になってキャベツの千切りを始めた。
そう、わたしは、これがしたかった。
キャベツの千切りはあまり得意じゃなかったけれど、今日はいい感じでさくさくときれいに刻むことが出来る。
なんか、気持ちがいい。
「おいおい、なんだよ、なんだよ、アレ。大丈夫か?」
冷蔵庫が心配そうにうなり声を上げる。
「女だっていろいろあるのよ。こういうストレス解消の方法もあ・る・の。デリカシーの欠片もないあなたには、一生わからないでしょうけどね」
ティーカップはすまし顔で冷蔵庫にひどいことを言っているのに、冷蔵庫はそれにまったく気づいていない様子だ。
「へぇ、女ってやつは、つくづく面倒で変な生き物だなぁ」
ティーカップは冷蔵庫のあまりの愚直さに呆れながらも、話をやめない。
「まぁ、わたしたちに当たらないだけ彼女に感謝しないとね。というかきっと彼女の親ね。ものを大事にしなさいって、きっとお父さんがしつけたのよ」
「え? なんでお父さん? お母さんじゃなくて?」
ティーカップとは実家にいた頃頃からの付き合いだが、冷蔵庫はこっちに着てから購入した家電――いわば新参者ということになる。
「そうよ。彼女はとてもわたしたちを大事に使ってくれたわ。でも、彼女のお父さんはもっとすごいのよ。ずっとずっと大事にしているマグカップとか学生の頃からの付き合いらしいわよ」
食べきれないほどのキャベツの千切りと、そのために放置された少しばかり焦げ付いたハムエッグをテーブルに並べて、わたしは少しだけ幸せな気分になった。
そして目玉焼きとキャベツにソースをたっぷりかけて食べた。
ただただ、食べた。
食欲を充たすことで、別の欲求の代替にする。そんなことしていたら、体重がどれだけ増えるかわかったもんじゃない。
でも、今はこれでいい。きっとこれで、ちょうどいいくらいなんだと自分に言い聞かせる。
「今日は早く寝よう!」
冷蔵庫やカップにからかわれないうちに……
また、彼のことを考えてしまう前に……
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