第23話 Fu・Ri・N
わたしにはわからないことが二つある。
一つはあの人が、名古屋に残してきた人のことをどう思っているかということ。
そしてその人から誕生日にもらったサイフォン式コーヒーメーカーをどう思っているのかということ。
あの人はとても物を大切にする。
ケチというのとは違って物を無駄にしたり、使い方を間違って本来の役割を果たさないことを極端に嫌がる。
”道具って言うのはそれぞれに正しい使い方があるんだよ。だから僕はあまり台所に立たないんだ。だって、正しい包丁の使い方とか習ったことがないからね”
だから、あの人はあのコーヒーメイカーをとても大事に使っている。
他の食器や調理器具はわたしが洗ったり片づけたりするけれど、コーヒーメーカーはあの人が手入れをする。
”大事に使っているのね”とわたしが言うと、あの人はにっこりとほほ笑んで何も語らない。
わたしは考える――あの人が名古屋に残してきた人が、どんな思いでコーヒーメーカーを送ったのかを。
あの人の想い出が沁み付いた品物を、そばに置いておきたくなかったのだろうか。
もしそうならば、わざわざ彼のところに送りつける必要があるだろうか。
戸棚の奥にしまっておくか、いっそ処分してしまうのではないだろうか。
そうだとしたら、自分の思いのこもった品をあの人のそばに置いて欲しかったのではないだろか。
そう考えたとき、わたしの中に芽生えるのは、嫉妬でも、畏れでも、憂鬱でも、まして同情でも僻みでもない――自分に対する後ろめたさと、彼女があの人のことを思う気持ちの深さに、自己嫌悪にも似た、みじめさが、わたしの心をざわつかせ、不安にするのだった。
「ごめんね、急にこんな話をしちゃって」
あの人のやさしい声にすがりそうになるのを必死にこらえて、わたしは平静を装い、嘘つきになった。
「道理でおかしいと思ったわ。だって、コーヒーメーカーがすごいのに比べて、他のものは全然だものね」
あの人の台所には、計量カップや計量スプーン、保存用のタッパや砂糖塩コショウ醤油味噌以外の調味料と言った物は置いていなかった。
「そうなんだ。僕は、なんというかそういうのは全然さ、うちの親も男子厨房に入らずの見本みたいなものだったし」
わたしはあの人の家族構成や幼いころの話をあまり聞いたことがなかったけど、なんとなく頭に浮かんだことをそのまま言葉にした。
「もしかして、お家では”おーい、お茶!”っていうとお茶と灰皿と新聞が出てくるみたいなかんじだったの?」
「まいったね。まるで見たことのようにいうけど、本当にそんな感じだったんだよ」
「やーね、男って。いまだにそんなことが通用すると思ってるんだから、もう20世紀も終わりよ」
そう、もうすぐ一つの時代が終わろうとしている。そんな中で、私達は出逢った。
「あぁ、まぁ、そうなんだけどね。だからこそ、この時代の積み残しを解決するために僕はこうして東京に出てきて、そのお陰で君に会えた」
「何よそれ。わたしと出会ったことを2000年問題のせいにするつもりなの?」
「そうじゃないよ、お陰だよ」
「もしも……」
彼女より先に、わたしと出会っていたらなんて、言えるわけ、ない。
「もしもわたしが頭に糸くずをつけていなかったら――」
「その時は、きっと僕のシャツにクリーニングのタグが付いたままなのを君に見つけられて声を掛けられていたんじゃないかな」
「そんなこともあったわね」
いつだったか、彼と映画を観ようと駅で待ち合わせをしたとき、彼のシャツにクリーニングのタグがつけっぱなしだったのを見つけたことがあった。
わたしは不安を感じ、あの人もそれを感じてわたしを気遣ってくれる。
うれしいけど――なんか辛い
それは手探りでお互いの距離を測ってきた二人が、互いの場所を確認し合い、そしてお互いがどの方向を見ているのか、そしてどの方向に向かおうとしているのかを、互いに気遣う姿。
愛し合う普通の恋人のそれとは何か違う。
「わたしね。学生の頃に付き合ってた彼氏がいたんだけど彼が地方の大学に行っちゃってね、それでしばらくは遠距離恋愛してたんだけど、ダメね。お互いが信じられなくなるっていうか、自分自身が信じられなくなるって言うか……よくわかんないけど、すぐにうまく行かなくなっちゃってクリスマス前に別れちゃった。遠距離恋愛って、お互いを信じあえるかじゃなくて、自分自身をどこまで信じられるかで決まるんだなぁって、最近はそう思うようになったわ。なんでかはわからないけど、そう思うようになった」
わたしは今思ったこと、感じたことを口にした。
でも、それがあの人に伝えたいことだったのかどうか、よくわからなかった。
「自分を信じる……かぁ。なるほど、それは一理……いや二理も三里もあるかなぁ」
ダメ。
そんなに遠くを見ないで。
お願いだからもっと近くの、もっと近くのわたしだけを見て。
そう願うなら、最初からそんなことを言わなければいいのにと、わたしは自分の唇をこっそりと、それでも強くかみ締めた。痛かった。
嫌な女ね。
わたしは自分を責めながらも彼の大きな肩に必死でしがみついた。
本当に嫌な女。
こんなことをして、彼を困らせて、それでも振り向いて欲しい。そばにいて欲しい。
でも、彼らしくあって欲しい。どっちも本当の気持ち。どっちも本当の自分。
わたしの中で、今はっきりと、一つの言葉が頭の中を駆け巡る。
嗚呼、わたし、Fu・Ri・N してるんだ。
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