第22話 言い出せなくて

 彼の部屋で過ごす時間。

 野菜たっぷりのカレーを食べ終えて、わたしが食器を洗っているあいだに、あの人がコーヒーを淹れてくれる。

 それは、当たり前のような、特別な時間。

 いつもこうしていたいのに、毎日することはできない。

 だって、ふたりの関係は……


「ねぇ、わたしたち、これからどうするの?」


 たったそれだけの事なのに……、でも、たったそれだけの事が、言い出せなかった。


 もし言ってしまったら、すべてが壊れてしまいそうだから――

 だから明日のことや来週のことなら話はできるけど、一年後、西暦2000年をどうんなところで迎えようとか、そういう話には、わたしはできなかったし、あの人もしなかった。


 まだ、いい。もう少しこのままでいいの。


 自分をごまかすことなんて、いくらでもできると思った。

 でも初めて知った。

 他人を騙すよりも、自分を騙すほうが、はるかに忍耐が必用だということを……


 ねぇ、今日、これからどうする?


 わたしの口癖がいつのまにか「もう~」から「ネェ……」に変わったねと、あの人に言われたとき、少しドキッとした。


 わたしの中の変化を、あの人はちゃんと見ていてくれたんだ、

 それが、怖かった。

 そしてそれは、突然訪れた。


「聞いて、ほしい事が、あるんだけど……、いいかな?」


 こんなふうに改まって言われることというのは、それはもう、どちらかと言えば聞きたくない事だと世の中の相場は決まっている。

 ”イヤッ!”と心の中で叫んだけど、わたしは沈黙によって彼にYESと答えた。

 答えるしかなかった。


「ボクたちはね……」

 あの人はわたしとのことを”ボクたち”とは言わなかった。

 

「名古屋で学生の頃に知り合ったんだ。それでね、彼女が先に短大を卒業して、社会人になった。僕は大学3年、彼女は東京の会社に就職した。こういうパターンって普通はそこで別れ話になるのかもしれないけど、でも僕等は2年間の遠距離恋愛を乗り越えて結婚したんだ」


 彼は一つ一つの言葉を確かめながら、ゆっくりと静かに語り始めた。


「ボクは大手のソフト関連会社の名古屋支店に就職した。それで彼女は東京の会社を辞めて名古屋で一緒に暮らした。ずっと一緒に居られると思った。だけど人間って不思議だよね。一つ屋根の下に暮らし始めたら、急にギクシャクし始めちゃって、ボクはこの通り不器用だから、そういうのを紛らわす事ができなくてね。ただでさえ残業が多かったのに、より一層仕事に没頭してね。同じ家に住んでいてもほとんど顔もあわせないし、口も利かないような日々が続いたんだ」


 あの人は大きなため息を一つついてわたしを見つめた。彼にしては珍しく、自信なさ気で、まるで母親に自分がついていた嘘を告白する子供のようだった。


「で、どうしたの?」

「うん、で、こうなった」

「え?」

「うまくい言えないんだけど、いや、言えないんじゃなくて、よくわからないんだ。自分の事が」

「わかるよ」

「え?」

「わたしもそうだもん。わたしも自分のことがよくわからない。よくわからないから不安になるし、イライラもするわ」

「そうか、そうなんだね」


 それは会話というよりも、懺悔に近い気がしたし、相手に何かを求めているのではなく、自分の心に向き合い、それを言葉にしている。

 聴いてもらいたいのに、聴いてほしくはない。

 言いたいのに、言い出せない。


 すごくそばにいながら、螺旋を描きながら決して交わることのないそれぞれの軸が早くなったり、遅くなったり、激しくなったり、穏やかになったりしながら、調和の取れない揺らぎのなかでたゆたう感覚の中で、わたしには目に見えるものがすべて白々しく感じた。


 そこには、わたしとあの人しかいないのに、お互いの心はここにはなかった。


「ねぇ、前から聞こうと思っていたんだけど、コーヒーの入れ方を覚えたのって……」

 話題を変えようと思ったわけじゃない。

 だた、もう、どうしようもなく、それまで気になっていたことが頭をよぎって、その見たままを言葉にしてしまったような、オートマティックな戯れ。


「あれは誕生プレゼントだったんだ。結婚して最初の年の……、でも使ったのはほんの数回だった。単身赴任が決まってこっちに来たとき、家から持ち出したものなんか衣類ぐらいしかなかったんだ。引っ越が片付いて落ち着いた頃に、荷物が届いてね。開けたらこいつが……、正直、堪えた言うか、終わりなのかなって、思った」


 ”それはきっと違うと思う”と、言いかけて、でもそれだけは言い出せなかった。


 そんなこと、言えるはずがない。

 だって、わたし、そこまでやさしくなんか、なれないもん。

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