第21話 紫陽花
何がいけないのか……。
ちがう。何を恐れているのか……。
それも嘘。
だって本当はわかっている。
誰かを好きになるってことは、その人の今と、これから共に過ごす未来、そしてそれまでその人が誰かと過ごしてきた過去の時間を、すべて受け止めること。
ううんん、そんな理屈っぽいことじゃなくて、もっと感覚的で空間的なことよ。
自問自答する毎日。
"今度こそ、聞いてみよう"
そう思っては、それをなし得ず、思いは募る。
「ねぇ、どんな人なの、名古屋に残してきた……」
その後に続く言葉が出てこない。
頭の中で何度も解析し、何度もシミュレーションをする。
どんな人かなんて、どうでもいい
今、あの人が、その女(ひと)のことをどう思い、どう考えているのか
だって彼はめいいっぱいわたしを愛してくれている。
それは疑いようのない事実。
でも……。
ここにいるあの人は、彼の全てじゃない。
きっとあの人のある一部分だけか、又はその逆にある一部分だけが欠けている状態、本当の彼は、今ここにはいない。
頭ではわかっている。
ちがう、そうじゃなくて、わかってない。
これは勝手な想像だもの、でも、それも違う。
だってきっとそうに違いないんだから。
ぐるぐる回っている。ぐらぐらと揺れている。
女になりきれないでいるわたし、いつまでも恋する乙女じゃいられない……
外は雨――降りしきる雨に打たれる紫陽花を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「お待たせしました! 先輩!」
小さな身体に不釣合いな男物の大きなこうもり傘をさしたサッチンが水溜りをよけながら小走りでこっちに向かってくる。
「どう? いい素材撮れた?」
「はい、ばっちりです! それよりも私はお腹がすきましたよ。もう腹ペコです。朝から腹ペコです」
クライアントとの打ち合わせのあと、近くにある紫陽花で有名な公園に寄ってWEB制作の素材となる写真を撮りたいとサッチンに頼まれた。
あまり打ち合わせの内容が芳しくなかったこともあり、そこは”転んでも只で起きない精神”で寄り道をすることにした。
「わかった、わかった。会社には連絡してあるから、ゆっくりご飯食べられるわよ」
「流石先輩! わかってるー!」
正直、コテンパンにやられた感じで、気分転換に美味しいものを食べたい気分だった。公園かのすぐ近くに感じのいい喫茶店があったので、そこに入ることにした。
「紫陽花、きれいですね。でもわたし紫陽花って好きじゃないなぁ。だって『移り気』『高慢』『辛抱強い愛情』『元気な女性』『あなたは美しいが冷淡だ』『無情』『浮気』『自慢家』『変節』『あなたは冷たい』ですよ」
「な、なによそれ」
「紫陽花の花言葉です」
「い、いや、そうじゃなくて、あんた、なんでそんなこと暗記してんのよ」
「さて、なんででしょう?」
感じのいい店の手作り感たっぷりのミートドリアセットは、散々だった打ち合わせ内容と憂鬱な雨に打ちひしがれた女子2名の心を癒してくれた。
「ふ~むぅ、さてはサッチン、過去に男の子から紫陽花でも送られた事があったり?」
「す、すご~い、先輩するどい!」
「ははは、伊達に30年近く女をやってないわよ」
サッチンの前では三枚目を素直に演じることが出来る。
「ついでに言わせてもらうと、サッチン、その男物の傘、お主、まさか彼氏の部屋から会社に直行か?」
「えっ、えー! 先輩なんでそんなことわかるんですか? 後生です、どうかこのことは誰にも言わないでくださいまし、なんでも言うことを聞きますから」
「ほー、そうか、そうか、ならば今晩付き合え、昨日どんなことがあったのか、根掘り葉掘り聞いてやる」
わたしとしては、してやったりの気分――でもまさかこの後、ミイラ取りがミイラになるとは、思いも寄らなかった。
その日の夜、サッチンと二人で会社の近所で評判の洋風焼き鳥屋に行くことにした。
「……って言うわけなんですよ。酷いでしょう! 先輩もそういう経験ありますぅー?」
飲み始めて30分もしないうちに話題をこっちに切り返されてしまった。
「さすがに紫陽花を送られたことはないわよ。だいたい花なんか贈られたことあったっけなぁ?」
それは本当にそうなのだ。思い返せば案外とありそうでない話。男の子に花を贈られたこともなければ、恋敵に嫌がらせをされたこともない。
基本自爆だ。
「先輩は学生の頃って、どんな種類の猫の皮を被っていたんですかぁ?」
「そりゃ、かわいい、かわいい……って、オイ! 被っていること前提かよ」
焼き鳥にチーズやバジルソースを使った変り種もさることながら、まず普通に焼き鳥が美味しい。
「きっと先輩って男の子からだけじゃなくて、女の子からもモテたタイプじゃないですか? ワタシみたいなかわいい後輩からチョコレートもらったりとか」
「あっ、あのねぇ~、ナニそのまるで見てきたかのような言い草は! それに『ワタシみたいな』ってところ、ちゃっかりしてるなぁー。も~う、サッチンは!」
カクテル系の飲み物が充実している。ワインの種類も豊富だ。
「あっ、でたでた! 先輩のもぉ~が」
「こらこら、大人をからかうんじゃ……」
気がつくとカウンターもテーブル席も満席になっている。
「きゃはははは、先輩次何飲みます?」
「あ、えーっと、じゃぁピーチフィズ」
すっかりサッチンのペースだ。もうこりゃ、白状させられるまで時間の問題だなぁ。
「ねぇ、サッチン、結婚とか考えたことある?」
「えー、何ですかいきなり、わたしどんなに好きでも先輩とは結婚できませんよ」
サッチンは絶好調だ。
「おいおい、誰がお主にプロポーズするねん!」
「ははは……まぁ、そうですねぇ。ないこともないですけど、そういうのはたぶん、びびびーっとくるのかなぁと」
往年のアイドル歌手じゃあるまいし。
「びびび?」
「そうです、こう、ひらめきの電球が頭の上に点滅するみたいな感じです」
ゲーム好きなサッチンらしい表現であることを知っているわたしも嫌いではない。
「つまり、頭で考えるより、心で感じろみたいな?」
「というか、『子宮で感じろ』みたいなんじゃないですかね」
ブルース・リーで責めたが、スージー・クワトロで返された。
「おー、参った、参ったよ~。で、今付き合っている彼氏っていうのは、どうなのさ?」
「帯に短し、たすきに長しって感じですかね」
なにやら新しい理論が生まれそうな予感だ。
「ほー、その心は?」
「えーっと、よくわかんないです!」
最高の笑顔でそうこたえるサッチンを見ていると恋やら男やらで悩む事が馬鹿馬鹿しく感じてくる。
「でーもー、先輩が男のことで悩むってことは、よっぽどのことですね。不倫ですか?」
「ぎゃーーーーー! お、お主、まさか盗聴器とか仕掛けてないだろうな」
語るに落ちる。いや、もう、完全にしてやられた。
「盗聴器なんてそんな無粋なものは必要ありません。わたしの透視能力は先輩のことなら何でもお見通しです」
「わわわわわ、参った。参ったからこれ以上いじめないでおくれ~」
赤上げて、白下げて、赤上げないで、白旗あげる。
「そうはいきません。今日という今日は洗いざらい白状していただきますよ」
「お願いです。なんでも言うことを聞きますから、どうか堪忍を~」
サッチンの目がきらきらと輝いている。危ない目だ。
「ならば、これから話すワラワの愚痴を黙って聞いてくれるか、そして他言無用を誓うか」
「誓います、誓いますとも」
それから2時間近く、サッチンの彼氏に対する愚痴と、とても人には言えないような恋人同士の営みについての疑問やら不満やらをたくさん聞かされた。
女同士というのは得てしてこういう話でこっそりと盛り上がっていることを、世の男子はあまり知らないだろうが、それこそ10年の恋も冷めてしまうような話ばかりである。
「……というわけで先輩、先輩も話したくなったらいつでも声をかけてください。がーっとしゃべってしまえば、案外と楽になりますよ」
「うん、そうだね、でも、本当、今日は良かったよ。サッチンのあんなことやこんな事が聞けて」
サッチンにまた救われた。
「あー、あー、わかってると思いますが、このことを誰かに漏らすと、3分以内に先輩の全てのライフライン、ネットワークが切断されて、1時間後には全ての生活の記録がこの世から抹殺されますので、そこのところ宜しくです」
「は、ははは、どっかで聞いたセリフだな」
このノリについていける男子をわたしは知らない。
「でも、一つだけ言わせてもらえば、不倫は不倫ですよ。あまり何とかしようとか、どうしようとか考えないほうがいいかと、そのー、出口のない迷路みたいなものだって……スイマセン生意気言っちゃって」
「ううん、ありがとう。わたしも頭じゃわかってるんだ。あとは気持ちの問題というか……」
わたしはその後の言葉を口には出さなかった。サッチンとお店の前で別れる。
少し歩いて夜空を見上げると、そこにはきれいな三日月が浮かんでいた。そして思わずつぶやいた。
「それはきっと、覚悟の問題」
雨のち晴れ、ところにより三日月。
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