第20話 春はあけぼの

「春はあけぼの……」

 夜が明けようとしている。


 あの人が部屋に来たのは12時を回っていた。

 わたしも新年度のあれこれやクレーム処理やらで、帰ってきたのは11時を回っていた。


 会う約束はしていなかった。

 だから部屋の中は散らかっていたけど、何から手を付けていいやら考えていうちにあっという間に時間は過ぎてしまう。


 夕方、彼からの短いメール

 ”会いたい”にわたしが返信したのは”わたしも”だった。


 返事はすぐに来なかった。


 6時を過ぎてようやくきたあの人からのメールには”12時過ぎる”だけだった。


 ”待ってる”


 メールを返信したのは、7時を回っていた。

 お互いに仕事を持っていて、相手の時間を気遣いながら、わたしたちはこうしてお互いを求めあい、甘い時間を過ごしていた。


 いつの間にか、特別なことが特別ではなくなったり、憧れが親密になったり、言葉の代わりに肌で感じあったり、そういうことが当たり前になっていく。


 それがいいことなのか、悪い事なのか、わたしにはどうでもよかった。


 ちがう、どうにもならなかった。


 ”トン、ト、トン”

 呼び鈴を鳴らさずに、ドアをノックする音――あの人だ。

「ごめんね、わたしも今帰ったばかりで、何もしてな……」

 あの人は玄関に上がるなり、わたしを抱き寄せ、キスを求めてきた。


 お酒の匂い――彼は少し、酔っているようだった。

 前にもこんなことがあった。

 正直に言うと、わたしはちょっぴり怖かった。

 いつもとは違う激しい息遣い。

 普段は物静かに、やさしく包んでくれるように愛してくれるあの人が、わたしのなかの一番女の部分だけを求めてくる。


「だめ、まだシャワーも浴びてないから……」

 わたしの中でも、何かのスイッチが入ったのがわかった。

 部屋の灯りを消して、そのまま何度も愛し合った。


 ベッドの上で酷い喉の渇きを感じたわたしは、こっそりと蒲団から抜け出した。

 玄関からベッドの間に、コートやネクタイやブラウスやスカートが脱ぎ散らかしてある


「下着はどこいったかな」

 うまく立ち上がれず、よろめいたところに小さく丸まったピンクのショーツが転がっていた。

「ぷっ」


 わたしはなんだか、おかしくなって、声を押し殺して笑った。

 笑っているのに涙がこぼれた。

 彼の寝息が聞こえる。

 わたしは幸せだ。

 愛してくれる人がいる。

 あの人を愛しているわたしが、愛されているわたしが幸せでないはずがない。


 下着を履いてブラウスを羽織ろうとして、それをやめて、彼のワイシャツに袖を通した

「はは、一度これをやってみたかったんだ」

 彼の大きさを感じながら、わたしはコップに水を入れ、一気に飲み干した。

 乱れた髪を整えることもせず、ずっとベッドの方を眺めていると、彼が寝返りをうった。


「起きた?」

 返事はかえって来なかった。


「キスマークとかつけちゃおうかなぁ」

 ワイシャツの袖にすっぽり隠れてしまった私の手で袖の内側にキスをした。


 白々しく夜が空けようとしている。ベッドを通り過ぎて、カーテン越しに外を見る。

「やうやう白くなりゆく……窓際」


 今年の桜はあっという間に散ってしまった。

 ふたりで近くの公園にでも観に行こうと言っていたことが、随分昔のことのように感じた。


「少し明かりて、紫だちたる雲の……」

 窓の外の景色は、わたしの心そのものだった。

「細くたなびきたる……かぁ」

 彼の寝顔を少し眺め、それからシャワーを浴び、脱ぎ散らかした服をきれいに畳んだ。


 わたしは私の女の部分を仕舞い込んで、もう一度ベッドに潜り込んだ。

「ごめん」

「いいのよ」


 わたしはとても、とても幸せだ。

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