第19話 コーヒーサイフォンの恋
「それにしても不思議よね」
「不思議? 何が?」
ひんやりとした台所――あの人がコーヒーを淹れてくれている。
「だって不思議じゃない。こんなコーヒーメーカー見たことないもん」
「あー、これね。まぁ、コーヒーメーカーっていうのとはちょっと違うんだけど……」
「ふーん」
わたしは嘘をついている。
コーヒーサイフォンのことは知っていた。
もちろんこして目の前でコーヒーを淹れているところは初めてだし、映画だったかドラマだったか見た視覚的なフラスコとアルコールランプのイメージしかなかった。
わたしが不思議に思ったのは、ろくに料理もしない彼が、コーヒーの淹れ方にこれだけのこだわりをもっていることだった。
「コーヒーサイフォンってなんか理科の実験みたいね」
わたしは彼の邪魔にならないように、身体を寄せながら沸騰したお湯がロートを伝わって上がっていく様子を眺めていた。
「まぁ、なんというか、茶道みたいな?」
「え? 茶道?」
あの人はその大きな手に竹ヘラを持ち、お茶をたてるよりは柔らかくお湯とコーヒーを撹拌しながら笑って答える。
「うん、茶道。たかがコーヒーだけど、されどコーヒーみたいな」
「ふーん。わたしなんかインスタントとドリップの区別もつかないけどなぁ」
あの人は時々わたしに目を配りながら、撹拌したコーヒーとお湯と泡のバランスを見て、大きくうなずいた。
ロートはコーヒーお湯、撹拌した泡がきれいに三層に分かれている。
「区別っていうか、味そのものが問題じゃないんだ」
「えっ? じゃぁー、香りとか?」
火を止めて少し待つ。
「まぁ、厳密にはもちろん、味も香りも、口当たりも全然違うもんだけど、こうやってコーヒーを入れる、一つ一つの工程を楽しんでいるというか……、うまくいえないけど」
「うまく言ってよ」
もう一度ロートのコーヒーを撹拌し、フラスコにゆっくりとコーヒーが落ちて行く。二人でしばらく黙ってその様子を眺めている――至極の時間が流れている。
二人の気持ちが溶け合って、雑念をろ過して、ピュアな部分がフラスコに溜まっていくようにわたしには見えた。
”あの人には、どんなふうに、見えているのかしら”
わたしはたまにとても意地悪なこと考えてしまう。
そしてそんな時はきっと、本当に意地の悪い顔をしているに違ない。
”先輩また意地悪なこと、考えてるでしょう!”
サッチンはそういうことをズバリ言うのだ。
あの子の遠慮のないところを、わたしも少しは見習ったほうがいいのかもしれないとも思うけれど、わたしはサッチンのように可愛くは言えないだろうと、ついそんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
「そうだなぁ。ついつい一人暮らしだと、生活の面倒なことは省略しがちになるじゃない。『まぁ、自分だけだから』とか『誰も見てないからいいか』みたいな」
「あー、それわかるわかる。わたしも一人暮らし初めたころに比べると、いろんなことをショートカットするようになったかもなぁ」
……しまくりである。
「うん、そうなんだよ。だからこうして、コーヒー一杯を飲むのに、ある程度手間をかけることで、そうならないようにするっていうか、流されないようにするっていうか」
「へー、なんだか哲学的ね」
「哲学的って言うよりかは、戒めかな。或いは……」
あの人は手際よくコーヒーカップにできたてのサイフォンコーヒーを淹れる。
それはまるで15歳の少女が、憧れの化学の教師と話がしたくて、授業が始まる前に理科準備室に入り込んで忙しそうに次の授業の実験の準備をしている教師を眺めているような、そんな光景だったかもしれない。
「アルコールランプって、なんか素敵ね」
「そうだね。ガスの炎は強いからね。ランプの炎はろうそくの炎ほど宗教的じゃないところがいいね」
淹れたてのコーヒーの香りが部屋中に漂い、ふわふわした気持ちを落ち着かせてくれる。
「また、難しいこと言うんだからぁ……」
「そうかい? だってほら、ろうそくといったら、教会だったり、お寺だったり想像しない?」
「えー、普通は誕生ケーキとか、クリスマスケーキじゃない?」
「なんでも食べ物なんだね」
「もう!」
静かなときが流れる。
二人の間を流れていく。
同じ場所で、同じ時間を過ごしている。
コーヒーサイフォンとは、アルコールランプに温められたフラスコ内のお湯を蒸気の圧力でロートまで上げ、それが濾過されてフラスコに戻って、雑味やえぐみを取り除き、香りの立つコーヒーを楽しむための、どちらかと言えば古風で、スマートさよりは過程を楽しむコーヒーの淹れ方――つまりあの人らしいコーヒーの愉しみ方なのだと思う
わたしは、サイフォンが好きなのではなくて、サイフォンコーヒーを淹れているあの人を見るのが、本当に好きだった。
でもそのとき、どうしてこんなに不安になるのか。
どうしてあなたは時々遠くを見つめているのか。
幸せな時間を過ごしながらも、わたしの頭の中には寂しげな音楽が流れていた。
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