第15話 日曜の朝のコーヒー

 日曜の朝、わたしは彼の部屋で目覚めた。

 気持ちのいい冬の朝の空気。


 大き目のマグカップに注がれたコーヒーから漂う湯気を目で追いながら、わたしは彼のぬくもりの余韻が熱いコーヒーによって掻き消されてしまうという贅沢な不安を感じ、とても幸せだった。


「ねぇ、いつごろからコーヒーにこだわるようになったの?」

「ないしょ」

 彼は時々、意地悪い笑みを浮かべながら、そうやってわたしをからかう。


 コーヒー一杯分のやさしさと彼の笑顔が、わたしの臆病な心を後押ししてくれる。

「もう、いつもそうなんだからぁ!」

 こんなふうに誰かに甘えられる自分が不思議で仕方がなかった。

「教えてくれたっていいじゃん」

 わたしは口を尖らせながらも、いつになく機嫌がよかった。


 今日は二人で映画を見に行こうと約束していた。

 男の人と映画を見に行くのは……やめよう、もうずいぶん昔の話だ。


「実はわりと最近の話なんだ。身近にね。コーヒーに詳しい人がいてね。まぁ、見よう見まねでというか……」

 わたしは直感的にその身近な人とは、彼の身近にいた女性のことだとわかってしまった。


 彼は変に隠そうとはしないけど、明言もしない。


 でも、どこかわかる。

 そういう話をした後の彼の表情は、どこか遠くを見るような、そんな寂しい目をしている。


「そっか。きっと素敵な人だったんでしょうね」

 わたしは飛び切りの笑顔で――、笑顔を作って、そして心からそう思ったからこそ、そう言ってしまった。


 彼が選んだ人ですもの、きっと素敵な人。

 素敵だった人。


 でも、それは決して口に出して言うべきことではなかったのだと、その言葉を言い終わる前にすでに後悔をしていた。


「あっ、えっと、そうじゃなくて……、あっ、参ったなぁ。もうわたしったら、何を言って……ごめんな……」


 そう言いかけたわたしの唇は、彼の唇によって塞がれた。

 わたしって悪い女なのかなぁ。

 でも、彼は優しくわたしを包んでくれる。

 わたしを守ってくれる。

 わたしを抱きしめてくれる。


 だから今は何も考えない――考えられない――考えたくない。


「さて、今日の気分はアクション映画? 恋愛もの? それとも絶叫ホラー映画?」

「ダメダメ、ホラーはダメなんだから」


 そういいながらも、わたしは震えながら彼の腕にしがみついている自分を想像して、顔を赤らめていたいた。



「どうする? もう一杯飲むかい?」

 彼は台所へと立ち上がった。


「ねぇ、コーヒーのおいしい入れ方、わたしに教えて」

「うん、いいよ……」


 彼はそう言うとわたしの頭をやさしく撫でてくれた。


「もう、子供じゃないんだから」

 わたしは彼の大きな手が好きでたまらなかった。

 彼の大きな手で頭を撫でられるのも、抱きしめられるのも好きでたまらなかった。


「おいで」

「うん」


 彼の大きな手がわたしの手を握った。

 わたしはその手を強く握り返した。

 お願い、もうわたしを離さないで。


 そう願うわたしの気持ちを悟ってか、彼はわたしの手を握ったまま台所まで連れてきてくれた。


 狭い部屋の中で、手を握って歩く二人。

 こんなんじゃダメなのにと思う気持ち。

 わたしは彼に守られなが、らゆらりゆらりと揺れていた。


 恋愛物はダメ。


 もしもあなたが、あなたの身近だった人を思い出したりするのが怖い。

 わたしってズルい女なのかしら?

 でも、それでもいい。


 今、わたしは彼を失うことが何よりも怖い。

 わたしの心は震えていた。

 この幸せな時間を失うことを想像することは、何よりも恐ろしかった。

 不安に思えば思うほどに、わたしは彼に甘えるしかなかった。


 もう他に、どうすることも、できなかった。

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