第13話 微笑返し

「やぁ、待たせたちゃったかな?」

 ドアのベルと共に彼が現れた――彼の笑顔がまぶしい。


 わたしは席から立ち上がり、決まりの文句『さっき、来たばかりですから――』といって彼を席に招きいれた。


 社交辞令なんて、ちっともわたしらしくない。

 次の言葉が見つからない。


 あー、わたし……

 なんで?

 どうしてなの?

 わからない。


「コーヒー飲んでるの? ブレンド?」


 正直少し慌てた。

 社交礼儀的な会話のデータベースにこの会話の展開は登録していなかった。


「はい、いつも、これなんです」

 彼は屈託のない笑みを浮かべながら、お水を持ってくきてくれたマスターに声をかけた。


「ボクもブレンドでお願いします」

「はい、かしこまりました」

 わたしは少し後悔し始めていた。あの人を”わたしの居場所”に呼び込んでしまったことを。


 マスターに対してもどこか気恥ずかしさがこみ上げてきていた。もちろんマスターは、相変わらず自分の存在感をお店の雰囲気に溶け込ませているのだけれど、どうしてもわたしが意識してしまっている。


「この店にはよく来るのかい?」

 大丈夫。この話題は想定内。


「週末は時々、ここで本読んだりして……、なんか落ち着くんですよね。この店。コーヒーのこととかはよくわかんないんですけど、たぶん、チェーン店なんかよりはおいしいんじゃないかなぁって」


「うん、最近はこういう個人経営の喫茶店が減ってきたからね。ボクは学生時代はこういう店に入り浸ってね。そこで仲良くなったマスターにコーヒーのことやお酒のことをいろいろと教わったものだよ」


 彼は、お水と一緒に出されたタオルで手を拭きながら、ゆっくりと、丁寧に、どこか遠い昔に思いをはせるような目をしながらわたしに語りかけてくれた。


 好きだ。


 わたしはもうすっかり観念した。


 わたしはこの人が好きだ。


 たった数分しかたっていないのに、わたしはそれを確信した。


 わたしが彼に見蕩れているとマスターが彼のブレンドを持ってきてくれた。


 彼は、まるでためらうことなくマスターに話しかけた。


「実はこの前、ボクが彼女にお願いしたんです。豆を扱っているお店を知っていたら教えて欲しいって」


「そうでしたかぁ」


「ええ、いいお店を紹介していただきました。おかげで好みの豆が手に入りました」


「それはようございました。あの店の主人は、わたしの古くからの友人でして、お役に立てて光栄です」


「今日はそれで、マスターにもお礼が言いたくて伺ったんです。ありがとうございました」


「それはわざわざ、ありがとうございます。どうぞごゆっくりしていってくださいな」


 わたしはマスターをとてもうらやましく思った。そして珈琲に嫉妬した。


 えっ?

 何に?

 どうして?


 わたしがマスターと日常会話をするようになったのは、この店に通い始めて数ヶ月経ってからのことだった。


 もしもわたしが珈琲に詳しかったら、もっとマスターとも彼とも楽しげに話をするおとができたのに……


 わたしはまだ、彼とまともな会話はできていない。


 言葉一つ一つ選ぶのも苦労しているのに、マスターと彼はまるで旧知の仲のように打ち解けている。


 そう見えた。


 だからわたしは……。


 だからわたしは、マスターに嫉妬しているの? それとも珈琲?


 彼は出されたコーヒーを、それはそれは優雅に口に運び、コーヒーの香りと風味を味わっていた。

「う~ん。今日はいい日だ」


 なんて素敵な声、なんて素敵な笑顔、どこまでも自然体な彼。

 わたしはすっかり舞い上がりそうだった。

「そうですね。素敵な日ですね」


 わたしは精一杯努力して、どうにかその言葉を見つけることができた。

 そして、ようやくわたしの言葉が、彼の中に溶け込んでいくのを感じることができた。


 少しずつ肩の力が抜けていった。

 わたしはたぶん、やっと、自然な表情で、彼に微笑むことができたのだと思う。

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