第10話 Return to Myself

”どうしたの? 浮かない顔して……、あんなに元気いっぱいに出ていったのに”

 玄関に置き去りにされたブーツがわたしに恨み言を言う。


”ワタシと一緒だったら、きっといいことあっただろうに……”

「うるさい! なんでもないわよ!」


 あまりにも苦しい言い逃れに、わたし自身も腰が砕けそうになった。

「なんでもないんだから。本当に……」


 わたしはヒールを脱ぎ捨てて、買い物袋をテーブルの上に投げ出してその場にしゃがみこんだ。


「こんなはずじゃなかったのに……」

”何がこんなはずじゃなかったんだい?”

 冷蔵庫はいつも愚直だ。


”ワタシ、彼はとても素敵だと思うわよ”

 テーブルの上に買ったばかりのアクセサリーが買い物袋の隙間から声を揚げる。


”そうよ。何も置いてけぼりにすることはなかったわね。少なくとも彼には何の責任もないわ”

 洋服たちまで騒ぎ出した。


”まだ間に合う。まだ、間に合うよ”

 壁にかけた時計が、わたしを諭すように繰り返す。


「まだ、間に合う……、まだ間に合うの?」

 わたしはテーブルの上のティッシュを二枚とると思いっきり鼻をかみ、ついでに思いっきり顔を二回両手で叩いた。


 パン、パーン!


「まだ間に合う!」


 わたしはみんなに送り出され玄関を飛び出した。


 いないかもしれない

 見つからないかもしれない

 でも、もし、もう一度会うことができるなら……


 わたしは駆け出していた。


 家から駅までは歩いて10分、駆け足で来たから片道7~8分

 ということはあの人と別れたあの場所にまだ彼がいるとしたら20分近くそのばにいることになる。


 お願い、彼にもう一度合わせて――。


 わたしは心の中で何度も叫んでいた。


 狭い路地から駅へと続く広い通りへと出ると夕方のこの時間、さすがに人通りが多くなっている。


 まっすぐに走ることはできない。


 ――もどかしい。


 ダメ! こんなんじゃ間に合わない!

「あー、キミー!」


 駅へと向かうワタシの背中に向かって誰かが声をかけたような……。

 まさか、そんなことが。

 わたしは振り向いた。


 どこ? どこにいるの?


「こっちだよー!」

 通りの反対側から声がする。

 あの低くて心の底に響く声――そこには屈託のない笑顔で大きな手を振る、彼の姿があった。


 彼は車を避けて道路を渡りわたしに駆け寄ってきた。

「えー、どうして?」


 思わずそう口走ってしまったわたしに彼は右手で頭をかき、困ったような顔をしながらこう言った。


「あー、えーと、それは、そのー、こっちの話で……いったいどうしたんだい? 急に部屋にカギをかけ忘れていたのを思い出したとか?」


 またしても、あのまぶしい笑顔。

「あー、あのー、ゴメンなさい、本当に、ゴメンなさい……」


 わたしは多分真っ赤な顔をしながら、平謝りに謝って、そして、でも心の中ではずっと「ありがとう」って言っていた。


 それは彼に対してなのか、神様に対してなのか、部屋の中のやかましい同居人に対してなのかわからない。でも、わたしはすごくハッピーだった。


「いやー、いいんだよ。そんなに謝らなくても……まぁ、この辺を歩いていれば、店も見つかるかなぁと思って……」


 そんな奇跡は起きないと思う。

 多分彼は、わたしの後を追って近くまで来て、そして見失ってしまった……。


 でも何のために? まさか、わたしを探すために?

 わたしには、そんなことを彼に聞く資格はなかった。


 わたしは彼を置き去りにして、逃げてきてしまったのだから……。

 それからわたしたちはマスターから教えてもらった店に向かった。


 店に着くまでの間のことは、あまり覚えていない。

 どんな仕事をしているとか、慣れない土地での一人暮らしは大変だとか、どこのスーパーがいつ特売をやっているかとか、そんな話をしたと思う。


 ちがうかな。


 記憶に自信がない。


「あのー、また、お会いできますか?」

 彼が10分ほど店の人とコーヒーについてのやり取りをしていた。


 わたしには、コーヒーのことはちんぷんかんぷん。

 目的のコーヒーを手に入れ、店の前で別れようというとき、わたしは思い切って切り出した。


「そうだね。この店を教えてくれたマスターにもお礼を言いたいから、来週あの店で……そう、このくらいの時間に待ち合わせっていうのはどうかな?」


 彼は一度腕時計を見て、その時計をわたしに見せた。

 時計の針は――。

「4時半……ですか」彼はにっこりとわらい、そして少しばかり慌てた様子だった。


「あー、まずい、布団干しっぱなしなんだ。早く取り込まないと……じゃぁ、また来週に」


 あー、どうしよう。

 電話番号、聞いていない……。


 でも不思議と心配はなかった。

「きっとまた、会える……」


 ともかくわたしは、自分らしさを取り戻した。

 あの日、先輩と別れてから、恋に臆病になっていたわたしは、重たい荷物を投げ捨てて、彼の胸に飛び込んだ。


 冬の暖かな陽射しは、かげりはじめるとあっという間に暮れてしまい街は肌にさすような冷気に包まれる。


 でも、なぜだろう。今は少しも寒く感じない。

「あ、いけない! わたしも洗濯物を取り込まないと」


 わたしは再び駆け出した。無我夢中で逃げ出し、不安にかられながら追いかけ、そして今、自分自身のために、わたしはわたしに向かって走り出した。

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