第9話 逃げるわたし

「いいのかなぁ、つきあわせちゃって」

 彼は振り向いてくれた。わたしは一生懸命に彼を追いかけた。


「いいんです。その……、この前のお礼もしたいですし」

 彼はわたしの少し前を歩きながら、振り向き加減でわたしに話しかけてくれた。


「あー、あの時は」

 彼は大きな手で頭をかきながらやさしく微笑む

「そうだね。もしかしたら逆に恥ずかしい思いさせちゃったかな」

 普段着の彼。

 Pコートが良く似合う。


 彼は私のことを覚えていてくれたんだ。

 本当に一瞬の出会いだったけど、わたしには目の前にいるキャベツの王子様を忘れられない理由があった。


 似ているのだ。


 彼はわたしが高校生のときに憧れた先輩にそっくりだったのだ。

 憧れて、恋をして、そして別れた先輩……。



「あー、そんなの、ぜんぜんいいんです。あのまま家の鏡を見るまで気付かなかったらと思うと……。あっ、あのー、心当たりはあるんです。コーヒー、わたしはあまり詳しくはないんですけど、たぶんわかると思います。こっちです」


 思い出すだけでも顔から火が噴きそうなことを、よくもやったものだ。


 すっかり舞い上がってしまって、十代の夢見る少女よろしく彼のことを”キャベツの王子様”などと心の中だけでも呼んでいたというのは、”少女漫画の読み過ぎだ”と誰かに突っ込んでもらわない事には始まらない。


 駅から線路沿いに5分ほど歩いたところにわたしがこの街に引っ越して来てから良く立ち寄る喫茶店がある。

 そこのマスターとは、とても気さくな人で、わたしみたいなコーヒーの味もわからないようなお客さんにもちょっとしたうんちくを話すようなコーヒー好きの仙人みたいなおじさまだ。


 わたしはぜんぜん覚えてないのだけれど……。

 きっとマスターに聞けばわかると思った。


 いや、もしかしたら、わからなくてもいいなどとと、不貞なことを思っていたのかもしれない。


 『AntiquesMelidy』

 名前がなんとなく気になって入ったお店。名前の通りアンティーク調の家具でまとめられた……というか、たぶんマスターと共に長い年月を過ごしてきた喫茶店。


 わたしは1人で喫茶店に入る習慣はなかったのだけれど、独り暮らしを始めたなら”行きつけの店”の一軒や二軒、見つけないと思って出会った最初のお店。

 珈琲の味も風味もわからないけれど、ここはなんか落ち着く。


 交差点から歩いて5分、私の感覚的にはもっと短かったかもしれない。

 店の前で彼には待っていてもらい、たくさんの荷物を抱えたまま店に入る。


 事情をマスターに話すと、すぐに一枚のメモを手渡してくれた。

 運良くと言えるのかどうか、メモの示す場所はここから歩いて15分ほどかかる場所にある。


 15分……。

 あと15分は彼と一緒にいれる。


 別に彼を店の中に入れても良かったのだけれども、彼と二人でいるところをマスターに見られるのは、なんか照れ臭かった。

「えーと、ここから15分くらいのところなんですけど、ちょっとわかりづらいところにあるから、わたし案内しますね」


 彼は恐縮した顔をして最初は遠慮をした。

 それでもわたしは半ば強引に彼を連れて歩き出した。


 正直わたしも何がなんだかわからなくなっていた。

 どうしてここまで積極的になれるのか……。


 どうして素直に気持ちを出せるのか?


 なんとなく自己紹介をして身の上話になる。当然の流れだけど――

「ボクは先月勤め先で急な移動があってね。ついこの前までは名古屋に住んでいたんだよ。単身赴任ってやつさ」


 わたしは息が止まりそうになった。

 街の雑踏がわたしを包み、すぐ横を歩く彼の横顔が急に遠のいてしまった。


「あ、それは、大変ですね、奥様……とか、心配して、いや、されている、でしょう」

 パニックになりそうになりながらも、当たりさわりのない探りをいれるわたし。


「まぁ、なんというか、そうなんだけど、そうでもないというか……」

 彼は何か言葉を探しているようだった。

「そうでもないというのはちがうか。たまには一人もいいかなぁとか、一緒に住んでいても、仕事で遅くなることも多いし、今とそんなに変わらないかなぁとか」

 わたし、言い難いことを、彼に言わせてしまったのかもしれない。

「あれ、なんか変な話になっちゃったね」

 気まずい空気が漂う。


 わたしの頭の中でいろんな言葉がグルグルと回り出した。


 単身赴任

 奥様

 名古屋

 そうなんだけど、そうでもない……

 今とそんなに変わらない……


「あぁ、持とうか? イヤじゃなかったら……、荷物」

 わたしはいたたまれなくなり、混乱し、取り乱してしまった。


「あ、あの……。すいません、わたし、あのー、本当にごめんなさい」

 わたしは駆け出していた。

 どこをどう走ったのかわからない。

 恥ずかしくて、つらくて、情けなくて、ワケがわかんなくて、せつなくて……。


 たぶん彼はわたしの背中越しに何か呼びかけてくれたようだった。

 でもそんな声わたしの耳には届かない。


 わたしの心には届かない。


 気が付くとわたしは部屋のドアを閉めてドアにもたれながらひとり泣いていた。

「何やっているんだろうわたし。わたし何やってるんだろう。わたし、わたし……」


 昨日一晩、泣き明かしたはずの涙が、今にもこぼれ出しそうになった。

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