「時間ですよ」

 呼ばれたのに気づかないまま、海岸を歩き続けていた。

「沢木さん。終わりですよ」

 振り返ると、懐中時計を手にした看護婦が手招きしていた。

「帰りましょう」

 意識を現実に引き戻して、周りを見た。

 凪いだ海を前にした浜辺のすぐそこに、木製の小舟が置かれていた。

「……少し、休んでからでいいですか」

「どうしました? 疲れましたか?」急ぎ足で看護婦が近づいてくる。

「いえ、違います」小舟に歩みより、腰掛けた。

「大丈夫ですか?」すぐそばまで来た看護婦が僕の顔を覗き込む。

「ええ」

 胸ポケットから手帳を取り出して開くのを見た看護婦があきれ顔になる。

「またそれですか。いつもいつも、何を書いてらっしゃるんです?」

「いろいろです」鉛筆のキャップを外し、思いついたばかりの言葉を書き留める。

「恋愛小説ですか」

 小説だということだけは、ばれていたようだ。

「いま書いているのは、おとぎ話です」

「おとぎ話って、むかしむかしあるところにって、あれですか?」

「そうです。イギリスのおとぎ話で、竜が出てきます」

「敵国のお話じゃないですか」

 そういう見方をされてしまうのか。

「……ええ。ですが同じ話を書くつもりはないので、いろいろと考えているんです。大昔の英雄が、竜と戦って倒す話です」

「ヤマタノオロチの話みたいですね」

「ヤマタノオロチは飛びませんが」

「イギリスの竜は飛ぶんですか?」

「ええ。そうです」

「それはオロチ退治よりも大変ですね」

「……そうですね」


 手帳に書き付けた文面から顔を上げた。

 胸から息を吐き出し、高く澄んだ秋空を見上げ、思い描く。

 翼を持ち空高く飛ぶ竜と、太古の勇者の戦う光景を。

 その情景が眼前に浮かぶように。

 読む人の脳裏に見えるように。伝わるように。

 そのための言葉をいつも探している。

 この世のどこにもない光景が、ここにあるのだと訴える、言葉。

 それにはまず僕自身が僕の中のイメージを、明らかに、細やかに、見なければならない。

 黒光りする鱗に覆われた巨大な胴体と、それに不釣り合いな小さく短い前脚に、巨体を支えるたくましい後脚と、皮膜がついたコウモリのような翼を大きく広げて飛ぶ竜と。

 その翼竜に、ただ一人立ち向かい、戦おうとする者と。

 今はもうおとぎ話の中にしかいない、その英雄の姿とは、どんなものなのか。

 人間が、大空を自在に飛び回る巨大な竜と、その身ひとつでどうやって戦うというのか。

 思い浮かべようと、首が痛くなるほど見上げた空に──



 空を舞う銀の影が、イメージに重なった。


 

 聞こえていたはずのプロペラの音には全く気づかなかった。

 いつの間にか背後を振り返っていた看護婦が、片手をひさし代わりに太陽光をさえぎり、空を見上げている。

 僕たちの真上を、内陸側から海上へ向け、思いのほか軽快なエンジン音をたてて戦闘機が上空を飛び過ぎていった。

 銀灰色と深緑とに色分けされた胴体と、翼に描かれた赤い丸印が見えた。

 軍の飛行機は深緑色だとばかり思い込んでいたが、胴体と翼の腹側だけは灰色に塗り分けられているのをその時初めて知った。

 やがてひらりと機体をバンクさせ、無数に浮かぶ小島の上を旋回しながら飛んでゆく。

 太陽の光を受けて、翼がきらりと輝いた。

 銀色に。

 みるみる小さくなってゆく機影を二人で見送った。

「……珍しいな」

「そうですか? ああ、沢木さんはまだ外歩きを始めたばかりだからですかね。時々、ああして水島の飛行場の方から飛んできますよ」

 思わずつぶやいた僕に、看護婦がそう答えた。

「水島の飛行場って、海軍のですか?」

「そうでしょう? だって、飛行機なら海軍でしょう?」

「いや……飛行機なら陸軍も持っているでしょう」

「えっ? そうなんですか?」

「……さあ、たぶん……」だんだん受け答えが上滑りになってゆくのが自分でも判った。

 手帳を閉じて、鉛筆をしまう。

「部屋に戻ります」座っていた小舟の、舟(ふな)べりを握って立ち上がる。

 その指先で、イメージを掴み取れた気がした。

「もう、書くのはよろしいですか?」

「はい」

 いや。

 本当は、もっと書きたい。

 だからこそ、こんな小舟に腰掛けたままでは書けない。

 看護婦の先に立って、病棟へ戻る。

 いい加減、帰りたがっているであろう彼女を気にかけるのもごめんだ。

 さわさわと胸の内で揺らぎつつ沸き上がるものを抑えながら、抱えながら、歩いた。

 空をゆく翼竜を、僕のイメージに捉えて、それから。


──彼も飛べる。


 僕の両肩の付け根から翼が生え、そのまま大きく引き延ばされてゆく。


──飛ぼう。


 いずれそのままの話を書くつもりなどなかったのだから、いっそどこまでも自分のイメージを自由に繰り広げてしまえばいい。

 銀色に輝く翼を背に持つ男は風を蹴って舞い上がると、大顎を開いて牙を剥き襲いかかる黒い竜と真正面から切り結ぶ。

 つかみかかろうとする左右の鍵爪を剣で受け流し、逆刺のついた長い尾がすれ違いざまにうなりを上げて叩き付けてくるのを危うい所ですり抜ける。

 垂れ込める雷雲の中から稲妻を掴み取ると、さらに速度を増して疾風に乗り、翼竜のはるか上空へと駆け上がった。

 下腿が風を受ける。肩甲骨が羽ばたく。

 竜の頭上で身をひるがえし、加速度をつけて駆け下りた。

 その手に掴んだ稲妻を黒い翼に叩き付け、砕く。

 片翼を奪われた怒りに咆哮しながら真っ逆さまに竜が地に落ちた。

 墜落してなお猛り狂う翼竜の前に降り立つ。

 腰を低く落とし、身の丈ほども長く大振りの剣を両手で構え、切っ先を竜の目と目の間に向けて突きつける。

 真っ赤な口腔を見せ、黒竜が吠える。

 ぎらつくその目と対峙する。

 銀の翼を広げ、両脚に力を込めて、立っている。

 まるで僕自身が戦っているかのよう。

 歩いて帰る間も、僕の中でひたすら広がるイメージはとどまるところを知らない。

 さらさらした砂浜を、足裏でしっかりと踏みしめながら歩く。

 そうでもしないと僕の体が浮かび上がってしまいそうだ。

 奥歯を咬(かみ)み締め、両手を軽く握って手のひらに爪を立て、心を身体につなぎ止める。

 頭頂部からあふれる情景が、かすかに両腕をしびれさせながら水のように流れ落ちていくのがわかる。

 僕の幻想が僕の胸骨を内側からこつこつと叩いている。

 音を立てて広がる物語が胸郭に響いて震わせる。

 震えている。

 だが、それは決して不快なものなどではなかった。


──これがあるからこそ、書けるのだから……


 病室まで戻るとベッドの上でうつ伏せになり、その有様を思い出しながら手帳に書きつけた。

 いつの間にか、もうノートよりも手帳の方が僕の世界という気がしてきていた。

 時折、書く手を止めて目を閉ざし、手探りするように情景を組み立てながら思い描く。

 物語の終わりはまだ見えない。

 終わりなんて、見えなくていい。

 今、心に浮かぶものだけが、すべて。

 逸(はや)る気持ちを抑えられない。

 頭と記憶の中を発掘する。

 化石でも宝石でもいい。

 ここに置かれるべき言葉を必死で探し続ける。

 そうして戦っているのは、僕だ。

 いま見たあの光景を掴み取るために──


 そうやって、僕だけが見た世界にふさわしい言葉をひたすら追い求め、ときおり頭を抱えながら、時間も忘れて書き綴った。

 子供のように、いつまでも。ベッドの上で。


(続く)

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