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ときどき微熱が出て、体調もすぐれなかったのをだましだまし勤務を続けていたが、授業中に生徒達の前で喀血してしまっては誤魔化しようもなかった。
すみやかな退職を勧めてくる学校側に対し、兄は面目からか形ばかりの抗議をしたが、僕にはむしろ好都合だったから、双方の顔を潰さぬよう切りのいいところで辞表を提出して下宿も引き払った。
やがて兄は、僕が家業の役に立てないのを肺病のせいにしておけば世間体もそう悪くはないと思ったか、こちらで良い療養所を見つけたと言ってきたので、そこへ僕は入院することになった。
これ幸いと、荷物の中に読みかけの本と、既に何度も読み返した本と、買ってきたまま開いてすらいなかった本と、それから真っさらのノートとインクと万年筆とを詰め込んで、体だけは熱と咳とに痛めつけられながらも浮き立つ心を胸に抱えて、夏の終わる頃に僕は故郷の近い海辺の療養所に入った。
日がな一日、ベッドの上で好きなだけ本を読んで、思考を自由にめぐらせては小説を書く。
そうしているだけで食事が出てきて、あとはもう、僕をわずらわせるようなものは何もなかった。
消灯時間後と医師の診察中だけは何もできなかったが、学校の仕事に比べれば何ほどのこともない。
勤務中だとか、明日に差し支えるからここまでとか、そんな配慮も何もいらない。
読むのも、書くのも、ひたすら自由だった。
いつからでも、いつまででも、読んで、書いていられる。
講師をしている間も書くことは続けていたが、時間も何もかも全く足りてはいなかった。
いまや時間はいくらでもあり、とめどなくあふれる物語を押し殺して従事すべき職務もない。
そうして書き留めながら、その世界に頭と心の全てをゆだねる。
そこはどんな風景なのか。彼が、彼女が見ている光景は、思いは如何なるものなのか。
ひとつひとつを確かめるように、頭に思い描きながら、言葉を積み重ね、あるいは削り落とす。
熱で安静を命じられ書くことはできない時にも、ひときわ胸はざわついて鮮烈な情景をあふれさせ、ベッドの上で病室の天井を眺めながらも、熱を帯びた僕の頭はいっそう深く明晰にその場面を言葉で紡ぎつづける。
いつでも、いつまででも、今の僕にはそれができる。
今までなんて不自由だったのか。
こんな自由なくして、いったいどうやって生きていたのだろう。
数日で熱は下がり、すっかり氾濫してしまった言葉を手当り次第にノートに書きつけていた僕に、医師は病室の外を少しずつ歩くようにと命じた。
まだ若いし回復も早いのだから、完治してのちのことを考えれば、ちょうど秋が来て季節も良い頃だし今から少しずつでもリハビリを始めておいた方が良いのだという。
手始めに、病棟の廊下を何往復か歩かされ、それで熱や咳の悪化がないのを確かめてから、今度は療養所のすぐ側の海岸を看護婦や医師に見守られて少しだけ歩いた。
初めは、書き物をする時間が減るのが惜しいとしか感じられなかったが、歩いていてもベッドで寝ていても頭の中であれこれと考えるのは全く同様に自由だと気づいて、かえって外出が楽しみになった。
それでも、どうしても、思いついたことをすぐに書き留めたくなる時もあったので、僕はワイシャツの胸ポケットにキャップをつけた鉛筆と小さな手帳を入れておいて、時折その場で立ち止まっては書き付けた。
看護婦はそれを見とがめて、ちゃんと歩くようにと文句を言ったが、やがて何度も繰り返すうちに何も言わなくなった。
医師も、そのことを聞かされても、ただ苦笑するだけだった。
(続く)
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