銀と真珠の宴

日暮奈津子

 暗くて冷たい海の底に、僕は沈んでいる。

 エメラルド色の深海水に包まれて眠り続ける僕の身体は冷えている。

 眠りながら、待っている。

 夢を見ながら、待っている。

 水底(みなそこ)に沈んだこの巨大な都市も、深い緑色の中で静かに眠っている。

 目を閉じて眠っているはずなのに、僕の目にはそれがはっきりと見えていた。

 海底深く眠るこの冷たい石の都市に、陽(ひ)の光など届くはずもないのに。


 何故なら、これは夢だからだ。

 夢なのだから、暗闇の中に色を見た所で何の不思議もない。

 だが、何を待っているというのだろう。僕は。

 誰を待っているのだろう。


 原初の生命よりも古いこの都市には、もう誰も棲(す)んではいない。

 生きている者は、誰も。

 もし棲む者がいるとしたら、それは死んだ者の夢だけだ。


 死んだ夢でも、生きている。

 待っている。

 すべての命が死に絶えるその日まで。


 夢見ながら待っている僕は、いったい誰?

 この夢は、だれの夢?


──この夢を見る者は。


 広大な都市全体が震え、答えようとする。

 巨大な何かが身じろぎし、目を覚ます。

 見たこともない山のような巨体が、ゆっくりと起き上がろうとしている。


──待っている、我は。


 死んでいた都市も目を覚まし、冷たい海の底から浮上し始める。


 死体のように閉じていた僕の唇がゆっくりと開き始める。

 咽喉(のど)をふるわせて、声を出す。

「僕は」

 答えようとする、僕は誰だ。



 1    *     *     *



「やはり熱がありますね」

 体温計の水銀を見た医師に言われる前から、自分でもそんな気がしていた。

「でしょうね。ゆうべ、夢を見ましたから」

 重だるい体をベッドに横たえたまま、答える。

 吐息も熱を帯びているのがわかった。

「夢ですか」カルテに体温を書き留めていた医師が僕の方を見た。

「海の夢です。同じような景色を繰り返し、夢に見るんです。すると決まって、翌日には熱が出て、具合が悪くなる。以前は、そんなことはなかったのですが」

「天候の関係かも知れませんね」

 縁(ふち)の細い眼鏡に手をやって、まだ若い医師は窓の外の海を見た。

「昨夜はずいぶん荒れていましたから。今朝も波が高い。おそらく、気圧の影響を受けているのでしょう。熱が下がるまでは安静にしていて下さい。あちらの方も、しばらくはお休みで」

 頭を枕に沈めたまま、医師の見やった方を僕も見た。

 ベッドサイドテーブルの上には、開いたノートと、万年筆と、何冊もの本が置きっぱなしになっている。

 医師の隣りに控えていた看護婦が、静かにそれらを片付けた。

 それから手早く氷嚢の準備をして、僕の額にあてがう。

 病室の端に置かれた書き物机の上に、ノートと本と万年筆が並んで、僕の手はもう届かない。

 医師もカルテを閉じると、看護婦を引き連れて病室を出て行った。

 氷嚢の冷たさと、頬にかすかな風を感じた。

 病室の窓は開いたままだった。

 医師の言っていた通り、三階の窓から見える海は荒れて白波が立っている。

 ベッド上での安静を言い渡されてしまえば、あとはもう、こうして外を見るほかに体の自由はない。

──いや。

 体は不自由なベッドの上でも、頭はむしろ自由だ。

 目を閉じて、遠く、思いをめぐらせる。


 あの海の底の景色は、どんなだったろう。

 エメラルドグリーンに満ちた都市の光景は、広がりは。

 そこで僕はどんな夢を見たのか。

 思い出せないなら、覚えていないのなら、思い描けばいい。

 氷嚢と風の冷気が僕の中で深海水の冷たさに変わる。

 ここで僕は誰のどんな夢をでも見るだろう。

 思いの及ぶ限り、どこまでも遠く、広く、高く、深く、果て無く。

 そうして僕は小説を書こう。僕の、僕だけの世界を作る、そのための言葉……


 伸ばした手は、けれど何もつかめなかった。

 ベッドサイドテーブルの、いつもの場所に僕の万年筆はなかった。

 あふれる言葉は書き留められることもできずにひたすら頭の中を回り続けている。

 ただ、ぐるぐると。

 だけど、それが心地いい。

 胸の中の世界もさわさわと波立っている。

 窓の外の海のように……。

 いつの間にか額から氷嚢が落ちて、枕を濡らしていた。

 手にとって、自分で頭に乗せる。

 熱が下がったら、また書こう。

 それまで忘れないように。

 もう一度、僕は目を閉じて、いくつもの言葉たちをつまみ上げては、こつこつと世界を築き上げる作業に没頭していった。


(続く)

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