第16話 試練

「道智様、大変ご苦労様でした。ベロドリアの死体を見ました。やはりこいつが影で動いていたのですね」

「宗件殿も、ただの義侠心でこの計画に参加してはいなかったのですね」

道智は宗件の心を推し量るように尋ねる。

「そうです。この大和国をどうして行くかを決めなければならないのです。道智様、この大和国はやっと徳川様の手で収まろうとしています。

海外貿易は大変利益になりますが、一歩間違えばこの国を滅ぼしてしまうでしょう。このベロドリアの遺体を見た時、私の心は決まりました。

日本はまだまだ未熟です。まるで西洋が大人なら、この国はやっと元服した子供でしょう。大和国はまだまだやらなければならない事がたくさんあります。

惠瓊様は禅宗ですのでお分かりになると思いますが、大和国は外国との交わりを絶ち、己を見つめ直す座禅の行に入らなければならないのです。徳川様もだいぶ迷っていましたが、この件で決断なさるでしょう」


宗件は自分に言い聞かせるように語った。深い苦悩があったのだろう。その決断が正しいのか正しくないのか今も悩んでいるのかも知れなかった。

「さて、私もこの船には用があるのです。娘達は全部助け出しましたから、道智様達も早くこの船を離れて下さい」そう二人を急かした後、手下どもに指示を出す。

「いいか、この船の設計図や世界の海図があるはずです。しっかり探しなさい。それとこの船に積んでいる火薬や銃も全部運び出すんですぞ」そう手下に言って道智の方を向いた。

「徳川様の密命ですので、他言なさらぬように。後始末はこの宗件に任せて下さい」と厳しい声で伝える。

道智と小太郎は顔を見合わせた。そして何も言わず船の滑り台で下に降りた。



あれから三日が過ぎた。世間は静かで何事もなかったようだ。恐るべき宗件の力である。

二人はこの村に戻ってきた。道智は相変わらず畑仕事をはじめている。小百合のことが心配だったのだ。

今日も朝の仕事を終え、あぜ道に座り道智と小太郎は一休みをしている。

「お昼ご飯よ」と向こうから大声を出しながら小百合がやってきた。小太郎はまぶしそうに、走ってくる小百合をみつめた。

「はいこれ」

そう言って弁当の包みを二人に渡すと、小太郎の横へ座り込んだ。

「二人は仲がいいのう」

道智はおどけて二人を冷やかす。仲良く並んで座っている小太郎と小百合は真っ赤になった。二人はあの事件以来、急に仲が良くなった。

お互い失禁したという滑稽な事実が、二人の心の垣根を取り外したようだ。


小百合は爺様がいなくなって辛い筈なのに、ことさら明るく振るまっている。

小百合の受けた心の傷は誰も理解できるものではなかったが、小太郎の包み込むような愛情に、小百合の心に明るさがよみがえってきたのだろう。

ただ小百合は小さな十字架を隠し持っていた。

あれほどひどい仕打ちを受けたのに、マリア像を忘れられなかったのだ。ただひたすらにマリア様にすがって生きていくことを心に決めていたのだ。小太郎はそれを知っていたが何も聞きはしなかった。

小太郎の思いはただ小百合に生きてほしいと思うだけであった。その為にはどんな神様を信じようが関係ないと思っているのだ。

小太郎の献身的な愛こそ、宗教で言う無償の愛なのであろう。

その心の有様は日本独特の融通さを持っているとも言える。なぜなら小百合がキリシタンであろうと関係ないのだ。小太郎は宗教の教義は何も知らないのだが、宗教の本質である「救い」、「慈悲」といってもいいものを実践していたのだ。


山の中の村は日差しがあふれている。その日差しがまぶしいが、涼しい風が吹いていて心地よい昼である。

「道智様、この大和は外国との付き合いを止めるのですか。世界にどんどん取り残されるだけではないのですか」小太郎は道智に真顔で尋ねる。

「そうだな、小太郎。ただ我が国大和は、まだまだ幼い子供のようなものだ。扉を閉じて知恵と力を磨く時期なのだ。自分と自分の国を信じるのだ。いつか、この国は世界に旅だつ日が来るかもしれんからな」

道智の言葉は、自分に言い聞かせるようにも聞こえた。

「道智様。西洋の人たちはなんで、奴隷をそんなに欲しがるのか、わからんとです」

「うむ。進んだ社会なのに、世界中から奴隷を集めている。実はわしにも合点がいかんのじゃ。まるで西洋の人間じゃない人間は、こき使ってもいいと考えているようじゃな」

「そこですばい。自分は働かんで、他のものを働かしておる。日本の国じゃそんな人はおらんとです。なんで自分で汗水流してはたらかんとやろか」

「まあ、日本も変わらんかもしれん。農民たちが汗水流して作った米で、我々は生きている。その事をもっとみんなが考えないと、南蛮人のようになるかもしれん」

「そうじゃと思います。日本では自分で汗を流して働く心を大切にしてしとります。おいもそう思います。南蛮人は働くことを嫌がっているごたる」


道智の目がキラリと光った。

「そうじゃ、小太郎。人間は働くことを大切にしないといけない。日本の国は昔から働くことを尊いとしておるんじゃ。だからこそ奴隷なんぞは必要ない国なんじゃ。働くことを卑しいと考え始めたら、大和も朝鮮や支那、南蛮たちと同じになってしまう。小太郎はその事をわかったのじゃな。偉いぞ」

褒められた小太郎はハニカミ笑いをして小百合の方を見る。小百合はただニッコリと笑うだけだった。

まだ若い二人は、やるべき事がたくさんある。回りの事は気にはなるが、まず自分たちの目の前の事を何とかしなくてはならなかった。

生きていく事だけで大変な今、生きている事に感謝できる人が一番すばらしい。亡くなった爺様がにこにこした顔で話しかけてくれる様だった。

「さあ、小太郎。仕事をするぞ。この畑仕事もわしに与えられた修行かも知れん。小太郎よ、どんな場所にいてもどんな仕事をしても、その時を一生懸命生きるのじゃ。それが仏様の教えじゃぞ」


「分かりました。さあ小百合、草むしりに精を出すぞ」小太郎は少し大人びてきたようだ。

「はい」素直な小百合は元気よく答えた。

共に歩き出そうとした時、小百合は突然吐き気を覚えた。道端にしゃがみ胃の中にあるものを吐き出す。

小太郎はびっくりして駆け寄り肩を抱く。

「大丈夫よ」吐いたことでスッキリとしたようだ。二人は寄り添いながらゆっくりと畑の方に歩んでいく。


小百合はまだ知らなかった。

お腹の中にあの異国人の子を孕んでしまったことを。

後数ヶ月もすれば小百合と小太郎はその事を知るだろう。

それは一つの大きな試練となり、二人を襲う。

そんな運命をなぜ神と仏は与えたのかわからない。いやわかるはずもない。

神や仏の考えることなど人間にわかるわけはないのだ。人間は運命を受け入れることだけの生き物なのである。

また、涼しい風が畑に吹いてきた。


その後西行と惠瓊は、自分の寺に戻っていった。宗件にはそれから会っていない。それぞれ自分の人生に戻っている。

道智は伊良林の地に戻り仏教再興の為に活動を続けた。

その活動に触発されてか多くの僧が長崎の地を訪れた。事件のあった五年後ついに徳川幕府からキリシタン禁教令が発布された。


これまでの禁教令は「牽制」というニュアンスが強かった。しかし、今回の公式の禁教令は徳川幕府の覚悟を秘めていた。これより本格的なキリスト教の弾圧が始まる。それから二十五年後島原の乱が起き、翌年鎮圧される。

この一連の歴史の流れに善悪の区別はつけられない。様々な正義と信仰がぶつかり合い、これからも多くの悲しみと血を流していったのだ。

人間の悲しみを救うために生まれてきたはずの宗教なのに、人は宗教のために他の人を悲しませてしまう。

ただ小太郎と小百合のように、愛というものだけが絶望的な連鎖を打ち破ってくれる。しかし、小百合の妊娠という大きな試練が待ち受けている。そしてまだまだ試練は続いていくのだ。

その試練を乗り越えていくのに必要なのは宗教なのだろうか。その答え知っているのは未来の小太郎と小百合だろう。


パンドラの箱を空けて様々な悪が世界に広がってしまうのだが、最後に残ったのは希望という話だ。しかし本当は愛だったのではなかろうか。

愛と希望は、いつだって一緒だからである。そして愛こそが宗教の本質だからである。


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穢された十字架 海 潤航 @artworks

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