第4話 小百合
平穏な潜伏期間がたんたんと過ぎていった。今日も又畑仕事をして過ごす。夕暮れになって、みんな畑仕事を終え家に戻っていった。炭焼き小屋にいつものように小百合が握り飯を持って来た。
「道智様、夕餉を持ってきましたよ」
「おーすまんのう、そこに置いといてくれ」
小百合は部屋を見回す。
「あれ、小太郎さんがいないわ」
「小太郎か、まだ畑の脇の雑木林におるんじゃろ。最近暇を見つけちゃ石つぶての練習ばかりしちょるからの」
「わかったわ。呼んでくる」小百合は駆けだしていった。
まだ日は落ちてはない。小太郎は雑木林の入り口で石つぶてを投げている。
「おかしいな。曲がるんだけど思い通りに当たらないな」
小太郎は独り言を言いながら何度も練習をしていた。石の大きさを変え、握り方を変え、フォームを変えながら練習している。まるで現代の高校球児のようだった。
「小太郎さん、ご飯よ」
小太郎はびっくりした。練習に夢中で小百合がそばにいる事に気がつかなかったからだ。
「あっ小百合さん」思わず声が出る。
にこにこしながら小百合は小太郎を見る。
「へー、すごいね」妙に感心している。
小太郎は照れて真っ赤になった。そんな小太郎をにこりと笑顔で見つめながら話しかける。どの時代でも女性の方が一枚上手のようだ。
「ねー、小太郎さん。道智さんはなぜ狙われているの」
「小百合さん、知らなかったのか」
小太郎は急に真顔になった。そしてこれまでの事情を説明した。
話している内に夕日が西の空を真っ赤に染めてしまった。風も少し出てきた。山の空気は冷たい。小太郎も汗が引いてきて寒くなった。
「帰ろう」
話し終えて小太郎は歩き出す。二人は夕日に照らされながら並んで歩き出した。
「ねえ、小太郎さん。キリシタンの神様をどう思うの」
小太郎は、道智に聞いていたキリスト教の話しと、今思っている事を話した。
「どんな神様でもいいと思うけど、その為に誰かを傷つけたり人間を売買いするのは駄目やと思う」
「そうよね」小百合もうなずく。
「だけど、私は一度その神様の事を聞いてみたいの」
「なんで」
「噂話しか知らないけどマリア様がどんな神様なのか気になるの。なんだかお母さんのような神様だから」
小太郎は黙り込んだ。
「私はおっかさんの事を知らないの。マリア様って人間なのに神様の子を生んだんでしょ。きっとすばらしいお母さんだと思ったの」
小百合の家は昔長崎の領主、長崎純景(ながさきすみかげ)の城下近くで魚や野菜の商いをしていた商家だった。同じ長崎湾の南側に深堀純賢(ふかほり すみかた)という豪族が山城を構え長崎氏と争っていた。また少し離れているが伊佐早(いさはや)の西郷純尭(さいごう すみたか)も長崎を狙っていた。
その勢力争いに巻き込まれて小百合の家は燃やされ、父、母共々亡くなり、爺様は小さな小百合を抱えて逃げ出し、今の場所で暮らしているのだ。
小百合は爺様の下で育てられ、父母の顔は覚えてはいなかった。それゆえ、町の噂に聞くキリスト教のマリアに関してただならぬ興味があったようだ。
とりとめも無い会話を交わしている内に、炭焼き小屋が見えてきた。
「俺も、おっかあの事はよく覚えてないけど、子供を抱いた観音様の像を見ると、なんだか似てると思った事があった」
小太郎も小百合との別れ際にぽつりと漏らした。
二人はそれぞれ家に戻っていった。冷たそうな空には一番星が瞬いていた。
若い二人には、父母がいないという深い悲しみを抱いているのだ。小百合はキリスト教のマリアに、小太郎は慈母観音に母を重ねている。
宗教は癒やされる事のない悲しみを、一時癒やしてくれる偉大な力がある。人は何かにすがらなければ生きていけない、弱い生き物なのだ。
それなのに長崎の町では、その宗教家が争っている悲しい現実があった。
道智と小太郎は今の所、爺様の家を動けない状況だった。
道智は時折、いなくなりなにやら工作の為に動いているのだが、小太郎の出番はなかった。爺様の仕事の手伝いを真面目にやってるせいか、飯をよく食う。食べ盛りなのだ。道智も小太郎もその事は分っていて、食料や金を工面して爺様に渡していた。しかし男二人が増えたので、食べ物はすぐなくなってしまう。
小百合は爺様から言われて、町に買い出しによく出かけるようになった。小太郎も一緒に行けばいいのだが、キリスト教一派に顔が知られているので町には行かないようにしている。
小百合は年頃の娘だった。町に降りていくのを楽しみにさえしていた。町の華やかさや、外国の珍しい洋服、装飾品に目を奪われ心が沸き立っていたのだ。
買い出しから帰ってくる小百合は、何かしら小物のアクセサリーの類いを持ち帰ってくる事もあった。しかし、爺様や小太郎の前ではそれらを見せた事はなかった。今置かれている立場をよく分っているからだ。小百合は抑制のきいた賢さをしっかり持っていた。
「ごちそうさまでした」
大きいお握りを三個と、小太郎がとってきたウサギの肉の煮込みをがつがつと平らげた。道智も山を上ったり下りたりで活発に運動をしているので、お握り二個は食べる。
小百合は食の細い爺様と暮らしているので、こんなにモリモリと食べる男達を見ると嬉しそうだった。
「二人とも、本当によく食べるわね」とにこにこしながら言う。
道智も照れながら言う。
「すまん、飯ばかり食って。小百合さんには世話ばかり掛けるのう」
「どういたしまして。小太郎さんが石つぶてで、ウサギや鳥を捕ってくれるので、おかずの種類が増えて私も美味しくいただいています」
後片付けをしながら小百合は小太郎をチラリと見て微笑む。小太郎もその視線に気づいて微笑む。小百合と小太郎は日が経つごとに親密になっている。お互いの境遇が似ているのもあり、二人で話す度に友達から恋人へ進んでいくようだった。しかし、奥手の小太郎は手さえ握っていない。プラトニックラブに近い所をうろうろしているのだった。しかし、それさえ嬉しい小太郎だった。
小百合も、日ごとに美しくなっていくようだ。小太郎を意識し始めて、心が女に成りつつある。共に青春なのだ。
そんな甘酸っぱい雰囲気を感知している道智は逆に照れくさい。エヘンと咳払いをして話し始める。
「異国人は肉をよく食うのだ。それ故体が大きいという。仏様の教えもあり、我々日本人はおおっぴらに肉を食していなかった。しかし、こんなに異国人と体格が違うと、わしも考えを少し改めておる」
「そういえば、お坊様は肉は食べてはいけないと思っていたんですが、道智様はぱくぱく食べていますね。いいんですか」
小百合が道智の顔を胡散臭そうに見ながら話す。
「うむ。我が宗派真宗は、妻をめとっても肉を食べてもいいのじゃ。他にもあるが、他の宗派が行っている戒律がない。それは親鸞様の、如来様の力を借りて成仏する事のみ考えよという教えからである。我々は自分たちの僅かな力を過信せず、ひたすら仏様に念仏を唱え祈りなさいという事なのじゃ」
「よく分りません」小百合が困った顔をする。利口なのだが学問をした経験がない。道智の言葉がよく理解できないのだ。
「南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人でも救われるって事だよ」
小太郎が得意そうに答える。
「その通りじゃ。南無阿弥陀仏と唱えるだけで、どんな人でも成仏出来るのだ」
道智は小太郎に、仏の教えなど教えたわけではなかった。門前の小僧習わぬ経を読むのたとえ話の通り、道智の話しをそばで聞いて覚えたのだろう。
「どんな人でも念仏を唱えるだけでいいのですか。例えば悪い人でも」
「そうじゃ。悪人でも念仏を唱えれば成仏できる」
「えー、それは不公平だわ。真面目に生きている人がかわいそう」
小百合は混乱していた。この混乱は一般の人が浄土宗の教えを聞いて、最初に思う驚きでもある。僧に戒律もなく、念仏さえ唱えればいいというお手軽さは、これまでの仏教の常識を覆す革命的な教えだったからだ。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。この悪人正機説こそ、浄土真宗の教えの本質である。浄土真宗の宗祖である親鸞の視点は高くて広い。教えの誤解も多いが、結局日本人の約半数が浄土真宗の信者と言われている現状を見ればその偉大さが分るであろう。
「小百合さんよ。人とは仏様から見たらみな悪人じゃよ。自分さえ真面目に生きてさえいれば、いいではないか」
「うん、分るような気もするけど・・」と小百合は困った顔をしている。
「小百合さん。俺も全部分ってはいないけど、道智様の言う事は全部信じているんだ。いつか俺にも解る日が来ると思う」
小太郎は謙虚で従順である。しかし愚かではない。小百合の真面目さと小太郎の心の広さは、愛すべきものであった。
「小百合さん、小太郎。わしとて修行の身、わしの考えなど浅はかな事かも知れん。共に精進しようではないか」
小百合と小太郎は大きく頷いた。
「そうそう、明日食料の買い出しに行ってきます。二人とも何か食べたいものはありますか」
小百合は思い出したように尋ねた。現実的なのも女性の美徳だ。「ああ、道智様何かありますか。俺は魚が食べたいな」
小太郎はあっけらかんと言う。小百合と打ち解けている証拠である。
「いや、わしは今のままで何の不満もない。小百合さん、手数を掛けるなあ。もう少し我慢をしておくれ」
「我慢なんて。実は私、町に行くのが嫌いじゃないんです。この前小間物屋さんでとってもきれいなビードロの櫛を見つけたんです。なんだか嬉しくなって。だから町に行くたびにその小間物屋さんの前を通るんです」
小百合は楽しそうに言う。さすがの道智も娘心には疎かったのだ。
「おお、そうか。此処に小銭を持っておる。小百合さん、これはお小遣いじゃ。欲しい物を買うといい」
そう言うと懐から銭を出した。そして小百合の手に握らせた。
「道智様。めっそうもない。そんなつもりで言ったんじゃなかとです」
小百合はびっくりして手を引っ込めた。
「小百合さん、貰っておけば。小百合さんの嬉しい顔を見たいんだ」
小太郎は真顔だ。小百合の献身的な働きに何か報いたいと思っていたのだ。
「そうじゃよ。これは仏様からのご褒美じゃ」
道智はにこにこして言う。
小百合は少し考えていたが、小太郎の真剣な目が可笑しかったのか、少し微笑んで貰った小銭を握りしめた。
「道智様有り難うございました。買い出しに行ってきます」
そう元気に言うと、小走りに表に飛び出した。「小百合さん」小太郎も後に続いて表に出た。
残った道智は、ひげ面をつるりと撫でた。「南無阿弥陀仏。世のなか安穏なれ・・か」
この言葉は不安と争いの中を生きる念仏者の生きる方向を述べた親鸞の言葉である。道智は、若者達の未来を慈しむひとりの大人でもあった。朝鮮半島で戦いに明け暮れていた時期、戦場で倒れていく若者達を多く見て来た。女子供も容赦しない戦争に修羅の世界を見てきたのだ。戦場である。武器を持って塊でかかってくる敵は問答無用で打ち払う。戦いが終わり、死体になっているものを見た。そこには青年にもなっていない子供や娘がいた。
そんなことが続いた時、道智の心に大きな傷が打ち込まれていった。戦場から戻ってきた時、道智の心はずたずたになっていた。
そんな身も心も汚れきった自分を救ってくれたのが、この真宗という教えだったのだ。「世のなか安穏なれ」という教えは道智の心の叫びでもあるのだ。
道智は大きく背伸びをして、ごろりと床に寝転んだ。外では小百合と小太郎の笑い声が聞こえる。腹がふくれている道智は、眠ってしまった。
穏やかな、風のぬるい日だった。
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