第2話 宗教戦争

その日から身の危険を感じた道智は、山奥の伊良林郷(いらばやしごう)に逃げ込んだ。その道智の身の回りの世話や護衛を務めたのが、僧見習いの小太郎であった。


小太郎の家は長崎淵村(ふちむら)の半農半漁で生計を立てている伊右衛門の一人息子であった。伊右衛門は長崎界隈の豪族達の勢力争いの中で戦いに明け暮れていた野武士であったが、戦いに嫌気がさして刀を捨て侍をやめた。もともと争いごとが好きでない性格だったのだ。策謀の中の争いの生活は捨てても未練はない。仲間内の非難を受けて、川向こうの渕村の無人となったぼろ家に一人住み着いた。


渕村は名前の通り湿地帯が多く田んぼは作れない。そこで少し奥まった場所の斜面に僅かな畑を作り、小船を操り海に出て生計を立てる暮らしが続く。寡黙で働き者の伊右衛門は、周りの者たちに溶け込み、いつしか渕村の一員となっていった。

やがて漁師の娘ながら華奢で美しい梅と夫婦になり小太郎が生れた。しかし産後の肥立ちが思わしくなく病気がちであった。そんな梅をいたわりながら、伊右衛門は畑と漁に精を出す。

戦いに明け暮れた伊右衛門が、初めて得た貧しいが幸せな暮らしだった。子煩悩な伊右衛門は一人息子の小太郎に文字を教え学問を身につけさせ、その小太郎の利発さに目を細めている良き父親だった。


渕村は華やかさとは無縁の地だ。その淵村もいつの間にか異国の人々がやってきた。イエズス会がこの地を管理するようになったからだ。それから年を重ねる内に、いつも見ている対岸の長崎の岬が整備され、その岬に見た事もない南蛮船が数多く来るようになった。

デウスという神を信じるようにと村々を回っている異人の伝道師が村を歩き回る。村人達はデウスの神様の話より、その時に持ってきてくれる食い物や金品に心が奪われている。


異人の伝道師達の話しに耳を傾け、信じるとさえ言えば手厚くしてくれるのだ。デウスの神様も仏様も村人達にはあまり関係なかった。当然伊右衛門にも誘いがかかったが、今の暮らしに満足している伊右衛門は、新しき神に忠誠を誓うなど心になかった。


時が経ち、豊臣秀吉、徳川幕府のキリシタン廃止の命が下ると長崎は騒がしくなった。キリシタンは精神的に追い詰められていき、行き場を失って過激になり始めたのだ。

何度となくキリシタン入信を断り続けている伊右衛門一家は自然と村八分になってしまった。

「いいかやるぞ。天火の用意はいいか」「おう」

そんな声を寝入りばなの小太郎は聞きつけた。

その直後家に火がつけられた。

その日の強い風で火は一気に室内に回ってきた。

「父上、母上」そう死に物狂いで叫ぶ小太郎を父は怒鳴りつけた。

「逃げろ、ワシは母上を助ける」

小太郎は火炎の中に飛び込み外へ飛び出した。

父の懸命な救助も猛火に阻まれ、寝たきりの梅をかばうように覆い被さったまま、二人共も焼死してしまった。

「父上、母上」そう叫びながら燃え落ちていく家を見つめた。涙と悔しさが溢れ、涙が流れっぱなしになっている。

小太郎15才の冬であった。


小太郎はどちらかと言えばおとなしい子供だったが、この事件により人が変わったようになってしまった。山里に住みつき盗みを生業として生活を始めた。盗みは父母を殺したキリシタン信者の家だけであった。


ある時宣教師の家に盗みに入ったのだが、家の者に発見され捕まってしまった。結局ぐるぐるにしばかれ広場でリンチに遭う。そこに道智が通りかかった。

血だらけになっている少年を見て、道智は駆け寄っていく。

「何をしとるか。まだ子供じゃないか」

「こいつは盗みの常習者じゃ、奉行所に突き出さんば」

「なんばいうとか。こいつらが家に火ばつけて父ちゃん母ちゃんば焼き殺したけん、その仕返しじゃ」小太郎は叫び立てる。

その話を聞き、道智は腹が据わる。

「まて、そこにいる宣教師と話ばさせてくれ」

その集団から少し離れているポルトガル宣教師の駆け寄り、懸命に話始めた。

何時間話し続けただろうか。土下座をし、回りにいる信者たちに有り金を全部差し出し、少年を許してくれと頭を下げ続けた。

あまりのしつこさにポルトガル宣教師と信者たちは根負けをして、再び盗みに入ったら叩き殺すといわれ、やっと少年を開放した。


「行くところがなければ寺に来い」そういわれ、そのまま道智について行った。

その後道智は、仏教再興の拠点として初めて町中に正覚寺(しょうかくじ)という寺を建立したのだ。その正覚寺の普請の手伝いの一人として小太郎は加わっていた。


小太郎は道智の仏教再興の真摯な態度を慕い、見習いとしてついて回った。すっかり改心したらしく生活も規則正しくなった。朝夕のお経に参加し父母を弔い続ける。キリシタンへの恨みは消えないが、道智の真摯な態度に我慢というものが出来るようになったのだろう。また小太郎の心には父の面影を道智に重ねていたのかも知れない。


道智は小太郎の正直さに加え行動的で聡明な資質を見抜き、可愛がる様になった。今では息子のような一番弟子になっている。

寺が出来た道智は積極的に動き回った。キリスト教信徒らと堂々とした宗論を交わしていく。そのそばについて回った小太郎は改めてあこがれの眼差しで道智を見つめるようになった。


実はキリシタンだらけの長崎に寺を建てたのは道智が最初ではない。道智は町中に初めて寺を建てたという事であり、町の外に初めて寺を建てたのは、稲佐(いなさ)の悟真寺(ごしんじ)というお寺である。筑後善導寺の僧・聖誉玄故(せいよげんこ)上人は勇敢にも、キリシタンの地と湾を挟んだ対岸に仏教再興の為、浄土宗のお寺を建てた。

町の外の対岸といっても目の前はカトリックの地である。寺は建てたが寺の周りといえども気軽に出歩くのは危険だった。その当時、僧侶は昼は岩窟に潜み仏像を拝むという「隠れ仏教」と言われるほどだったからだ。


表立っていないがイエズス会は邪教排除という名目で長崎に点在する神社、仏閣をことごとく焼き払っていた。

「天火じゃ、天火じゃ」

そう叫びながら、キリスト信徒は寺や神社に火をつけて回った。まさに十字軍さながらの勇ましさだ。僧侶や神主達は本尊を持ち出して逃げ回っている。


史実では長崎の神宮寺、神通寺、森崎神社、神宮寺支院薬師堂、毘沙門堂、観音堂、満福寺、鎮通寺、斎通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺など破壊された記録が残っている。それほど当時のキリスト教伝道は攻撃的だった。


また神社仏閣を破壊するだけではなく長崎開港と同時に修道士ガスパル・ヴィレイラは、仏寺を改造して長崎最初の教会・トードス・オス・サントス教会を開設している。その後、様々なキリスト教施設が長崎に建てられた。セミナリヨと呼ばれる神学校さえあった。


今、長崎で生き残っている僧侶は五人。正覚寺の道智、光永寺の慶西、大音寺の伝誉、晧台寺の泰雲、大光寺の慶了である。この長崎での争いはキリスト教対仏教だ。つまり日本で初めての宗教戦争勃発だった。



伊良林郷の雑木林の奥に建てられた小屋に、二人は潜んでいる。

伊良林は後年坂本竜馬の亀山社中があった場所で、英彦(ひこ)山と烽火山(ほうかざん)の間の木々の深い地域である。この地には窯があり、それ用の薪の置き場に使われていた小屋だった。


広さは十畳ほど、手前は土間で煮炊きが出来る簡単な竈がある。奥半分が板張りになっていて小さな囲炉裏がある。布団はないので板張りにごろ寝をしている。

もう1週間にも寝泊まりしている。正覚寺の放火で二人とも着の身着のままで逃げ出してきたので、着替えもなくかなりむさ苦しくなっていた。


頭をそり上げて精悍な面立ちの道智もひげ面になり、黒い袈裟はほころび乞食坊主のような風体になっていた。食べ物は小太郎が里まで行って調達しているが、何かと不自由な毎日であった。

「道智様。私たちはいつまで此処に隠れていればよかとですか」

「そうよのー。ワシの知り合いのお寺に話をしている。もう少したったらそちらに身を寄せよう。ここは不便でいかん」

ボリボリと体中をかきむしりながら答える。ヤブ蚊にいいように刺されてしまっているのだ。

「道智様。おいはよく分からんとばってん、なんでキリシタンの連中は、あげんひどか事ばすっとやろか。キリシタンの神様はそげん事ばせろと教えよっとやろか」


囲炉裏に新しい薪を加えながら道智は話す。

「キリシタンは世界でただ一人の神様を信じちょる。それ以外の神様は認めないという事だ」

「仏様も神様も認めないってことですか」

「そういう事だ。例えば何もない野原に、突然一本花が咲いたとする。我々大和の人々は土の神様や、お天道様や神様のおかげだと思う。ところがキリシタンの人たちは、デウスの神様のおかげだと思う。すべての世界の出来事の良い事はデウスの神様の力だと思うし、悪い事は悪魔のせいだと思っているのだ」

「キリストの神様は一人でなんでも出来る全能の神様なら、なんで悪魔をやっつけてしまわなかとやろか」

「うーむ。その事はワシも宣教師に聞いてみたのだが、何も言わんやった」

「おいは異国の神様を悪くいうつもりはないけど、お寺や墓地を壊す信者の人たちをゆるせん。ご先祖さんは大事にしなくちゃいけんと思う。それが普通ばい」

小太郎は、自分の家に火をつけたキリスト教信者を許すことは出来ないと思っているだから、話すたびに腹が立ってくるのだ。それを感じた道智は話す。

「いいか小太郎。人間は弱い。弱いから何かを信じるのだ。それは神様かも知れないし、仏様かも知れない。それでいいんじゃ。人は何を信じてもいいんじゃ。それはデウスの神様でもいいんじゃ。しかし、その為に誰かを傷つけてはいかん。それだけの事じゃ」

小太郎黙って頷く。

「そうですよね。おいもそう思います。それと日本人の娘ば外国に売り渡しとるという噂ば聞きました。なんちゅう事やろか。人間は牛や馬じゃなかとに」

「そうじゃ、それはわしも気にしとる」

道智は思案顔になる。

小太郎が本気で怒っている。父母を焼き殺された恨みは心の底に深くよどみ、硬い澱のようになっている。道智と行動にともにするようになって、私怨は口にしないようになっているのだが、宗教を口実に火をつけまわったキリスト教信者を憎んでいるのはしょうがない。


山や海で育った小太郎は、山の神様、海の神様、お天道様、精霊、幽霊も信じている。それが小太郎の自然な心だった。小太郎が思う宗教とも呼べない心はアメニズムという自然崇拝の心だった。

大和の宗教観は曖昧さが大きな特徴である。シンプルだが構造は複雑だ。古来の神道にくわえ仏教全般が組み合わさり、さらに日本人の柔軟さがそれらを融合させていく。一つの家に仏様と神様が祭られていて、何の違和感も感じないのが日本人である。


ちなみにアジア諸国の中国や韓国の宗教感覚は比較的シンプルである。中国の場合、豊かな自然の中で生きてきた農耕民族が大半で、人が人と付き合う教えが道(タオ)などの形をとっていき人間至上主義とも言える宗教が根付く。韓国は日本と同じく天を最高神とし、自然崇拝がベースとなっているが儒教の影響が強く、家族や国家という枠組みが強く意識されている。

一方ヨーロッパ生まれの宗教は神の下ではすべて平等であるというシンプルさが大きな魅力である。世界最大の宗教キリスト教は、現在信徒が二十億人を超えている。


島国の日本にとって、これらの一神教が広まりにくかったのは周知の通りである。21世紀の日本で、キリスト教徒の数は人口の1パーセント以下という最低の状況であり、先進国でキリスト教国でないのは日本だけである。それがすべてを物語っている。

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