穢された十字架
海 潤航
第1話 キリシタンの町
1570年大村の若き大名大村純忠(すみただ)は、わずか百戸位の家しかなかった大村領長崎村を開港した。開港と言っても、何もない岬の脇に南蛮船を停泊させただけである。この事だけでも大村純忠が切羽詰まっていた様子がよく分かる。
長崎の地質はリアス式海岸と呼ばれる複雑に入り組んだ形状であり、波が低く水深が深いため、南蛮船のような大きな船の出入りの為の港としてはうってつけだったのだ。
しかも回りを山に囲まれ平地が少なく孤立した場所でもあった。陸地からの交通の便が悪いという事は、逆に言うと自然の砦でもある。この地理的条件が長崎村の運命を決めていく。
この時代は世界的に言えば大航海時代と言われ、ヨーロッパのポルトガルは東の涯日本にもやってきた。侵略の為である。そして1549年にあの有名なフランシスコ・ザビエルがポルトガル王の依頼で日本にやってくる。布教のためである。つまり侵略と布教が日本に同時にやって来たのだった。
ポルトガル人はインド、東南アジアを安易に植民地にできたので、日本に対しても高をくくっていたと思われる。最初に日本にやって来たのは、ご存知フランシスコ・ザビエルである。鹿児島に上陸したザビエルは、薩摩の殿様島津貴久の許しを得て布教を開始する。
しかし、この布教は困難を極める。なぜなら日本人の仏教徒はザビエルが説くキリスト教と対立していったのだ。
ザビエル「洗礼を受ければ、皆救われる」
日本人「洗礼を受けた本人は救われるが、自分の祖先は洗礼を受けていないので、皆地獄に落ちているのか?」
ザビエル「その通りである」
日本人「それならキリストの神は、祖先を救わないほど無慈悲であり、さらに全能ではない」
こんな話が伝わっていて、日本人の宗教観と聡明さを物語っている。
様々なトラブルが有り、鹿児島から平戸という地に布教の本拠地を変えたのだが、平戸でも日本人とのトラブルが起こる。平戸において絹糸の取引の商売を始めた南蛮人は各地の日本商人と交渉、しかし決裂。その話の仲裁に武士が加わった。だが南蛮人はその武士を敵と勘違いし、船に戻って武装し日本の商人と武士団を襲撃、それに対して武士団も応戦。結局南蛮人は14名の死傷者を出し平戸から逃げ出した。
これは単なる突発的な争いではなく、フランシスコ・ザビエルが布教した平戸において、1400名ほどがキリスト教に改宗していた事が伏線にある。仏教から改宗した日本人キリシタンは、寺社や墓地を破壊するという騒動を起こしており、仏教徒との間に確執が起こっていた。そのことが平戸の事件のベースになっていたといわれている。日本人にしてみれば寺社や墓地を破壊する行為は、心情的に受け入れられなかったからだ。
これにより平戸から逃げ出した南蛮商人に声をかけたのが30歳前後の大村純忠である。彼は日本初のキリシタン大名になっている。この時のアクションが、今後様々な事柄を起こしていく。
大村純忠もワケアリの人物である。彼は島原の戦国大名有馬晴純の次男として生まれている。純忠の母が大村家の娘であり、その縁で大村家の婿養子となり大村家を継ぐ。
しかし大村家には、本妻以外の女性から生まれた又八郎がおり、純忠が大村家を継いだため又八郎は後藤氏に養子に出されている。この事で又八郎は、純忠に逆恨みをする。
まわりを強国に囲まれた弱小国大村の長は財政難に陥っていた。大村純忠はその解決策として南蛮貿易を始めたのだ。若くて頭のまわる純忠は、貿易と共にポルトガルのイエズス会宣教師の住居等を提供するといった提案で契約を結ぶ。
この契約は最初うまくいくのだが、大村純忠自身が強烈なキリスト教信者となってしまった。結果、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も壊す。さらに坊主や神主を殺害し、キリスト教の改宗を領民に迫り、従わないものは土地から追い出したり、殺害したりする。
この行き過ぎた信心の結果、大村家の家臣団も離反し、大村純忠に恨みを持つ又八郎に追いまくられるようになる。大村純忠は逃げ回り、ついに僻地長崎村を開港する事にした。大村純忠もやられっぱなしではない。ポルトガル人の支援で佐賀藩を追い払う。1580年 長崎・茂木をキリシタンのイエズス会に寄進するという思い切った策に出る。その時から、長崎は日本ではなくなってしまった。
キリシタンという新しい宗教と、外国人との貿易の登場は、様々な悲劇を生み出しながら、物語を生み出していく事になった。
「なんと言う事だ。正覚寺が燃えている」
晴れやかな長崎の空に黒い煙が立ち上っていた。ぱちぱちと舞い上がっている火の粉に時折噴き出す炎。物の焼けるにおいが辺り一面に広がっている。
道智は仏教再興の説教からの帰り道、お寺の方に煙が立ち上るのを見て驚き走って戻ってきた。回りには人だかりが出来ているが誰ひとり消火しようとする者がいなかった。
それどころか「天火じゃ、天火じゃ」とはやし立てる者までがいた。天火とはキリスト教の天罰の炎という意味で有ろう。
すでに本堂は火だるまになっている。「いかん、大無量寿経の写本があるのだ。あれだけは救い出さなければ」大無量寿経とは釈尊の出世本懐の経で親鸞が著した浄土真宗の根本聖典の冒頭の経である。苦労して手に入れた写本で道智の心の支えでもあった。
道智は門の入り口に設置している火事用の桶の水を頭からかぶり「南無阿弥陀仏」と叫んで、燃え盛る本堂に飛び込もうとした時、道智を後ろから羽交い締めする青年がいた。
「道智様、やめんね! 死ぬばい!」「小太郎止めるな、あれは大切な本じゃ」
止めたのは見習い僧の小太郎だった。だが道智の力は強く簡単にふりほどかれてしまった。
その時である。本堂の屋根がすごい音を立てて崩れ落ちた。煙と火の粉の熱風が道智をたたきつける。その勢いに道智は後ろにひっくり返った。
「うーむ、残念・・・」燃え盛る本堂を、尻餅をついて見ながら力が抜けたようにつぶやいた。
道智はキリシタンの町になってしまった長崎で、寺院復興のため現在の鍛冶屋町付近に苦労の末、寺を建てた。浄土真宗仏光派のお寺で光寿山正覚寺という。長崎市内のキリシタン達から目の敵にされながら、やっと長崎の地に仏様の教えを復活させようとした矢先の事であった。
この焼き討ちは1607年の事である。フランシスコ・ザビエルが日本にやって来てから58年経つ。日本は戦国時代まっただ中で、石田三成と徳川家康の関が原の戦いから7年後である。
ザビエルの日本での布教は困難を極めたが、布教と貿易というセットのおかげで、利に聡い大名は進んでキリスト教に手を出す者もいた。日本国内でまじめに活動するイエズス会とは別に、ポルトガルの奴隷商人は日本を大きな商圏と考え、せっせと仕事に精を出していく。これが日本におけるキリスト教の悲劇の根本であった。
一般の貿易とキリスト教の布教だけなら、ここまでの弾圧はなかったのだが、奴隷貿易の側面を持っていたことが事を複雑にしている。
ヨーロッパでは奴隷貿易は当たり前になっており、新大陸アメリカに売られたアフリカ人奴隷は1500万人とも言われ東京都の人口を抜いている。
ヨーロッパ勢がアジアまで進出してくる理由の一つに、この奴隷貿易があった。その当時日本には外国と貿易できる商品は絹くらいだった。しかし日本側は鉄砲や火薬など欲しいものがたくさんあった。そこでキリシタン大名と呼ばれる者たちや豪族などは、戦いに負けた側の領民を捕らえて売り払い、火薬などを得ていたのだ。
しかし、その有様を日本の支配者は快く思っていなかった。日本統一を果たした豊臣秀吉は1596年再び禁教令を出す。
その理由は、「国として勝手に各大名が貿易をしないようにする為」「日本人の奴隷売買を禁止させるため」「キリスト教徒による神社仏閣への攻撃をやめさせる為」ではないかといわれている。貿易で利益を上げたいが、その代わり日本人が外国に売り飛ばされていく事態に歯止めをかけたかったのだ。
さらに次の覇者徳川家康により、更に中央集権体制の推進があり各大名が南蛮貿易で蓄財することを極端に警戒しはじめ、確実に自由貿易やキリスト教排除の方向に向かっていた。
比較的宗教に寛容な日本人も、キリスト教に改宗した人々が神社仏閣や祖先の墓地を打ち壊すさまを直視した時、反キリスト教にならざるをえないという事だと思う。また、悲劇なのは日本人がキリスト教を信じ切った時、その純粋さで死を恐れぬ信者となった事である。
キリスト教の魅力は、その神話のストーリー性と、わかりやすさである。神を信じるだけで、神の国に行けるという教えは、その当時の日本人に受け入れられた。また住民救済行為が薄い既存の仏教に対しての批判があったと思われる。
禁じられればさらに燃え上がる恋愛に似て、長崎ではキリシタンが盛んになっていたのだ。一方、日本人宗教者は、長崎で神道仏教が衰退するのを懸念していた。そして慶長9年、僧道智はキリシタンの街長崎に正覚寺を開いた。
道智は佐賀藩の竜造寺隆信の一族、牛島隆家の子で、天正20年朝鮮出兵では加藤清正に従い戦ったが、帰国後心を病み浄土真宗に帰依した。
朝鮮出兵は秀吉の一大プロジェクトで、単にアジアを征服したいという内容ではなかった。スペインのアジア進出を警戒し、明の国を日本の占領下に置きヨーロッパ勢と戦おうという構想だった。外国勢へ力を誇示し、日本を平和に保とうという考えは実に真っ当で、当時の大名たちも賛成せざるを得なかった。
秀吉の大号令で日本中の武将に集合がかけられる。その中でも加藤清正は、九州の諸大名の中の中心人物であった。「加藤清正の虎退治」という武勇伝が残るほど勇猛で、武士としての心構えも悪くいう者はいなかったといわれている。
その清正は日蓮宗を信仰しており「南無妙法蓮華経」の旗を掲げて戦ったという。しかしどんなに仏心のある者でも戦争である。朝鮮兵を討ち取った後、日本軍はその証拠に鼻や耳を切り、それを福岡の名護屋城の秀吉に送っていたのであった。送る際に腐らないように塩漬けや酢漬けにした鼻や耳は大量であり、生れたばかりの赤ん坊のものすら含まれていたと言われており、殺された朝鮮人の数は十万人と語られている。
加藤清正に同行した道智は強かった。朝鮮半島は明への通り道に過ぎなかったので、どんどん先に進んでいく。加藤清正の槍と指導力は強力だった。朝鮮と中国の連合軍を相手に、まさに鬼神のごとく戦う。3人をいっぺんに串刺しする腕力はずば抜けていた。部下の道智の得意は剣術である。身の軽さもあり道智が戦う時は、踊りを踊っているように見えたという。
道智は幼いころより実戦的な心翔刀流に入門し、剣術、居合術、柔術を総合的に学んでいる。特に居合術は得意であり免許皆伝を受けている。若い道智は戦う喜びに心が沸き立っていた。しかし、そんな戦いが何ヶ月も続くと道智の心は揺れ続けていく。
「なぜ、私は戦っているのだろうか」
そんな自分自身への問いが少しづつ蓄積されてくる。
朝鮮の兵を斬り殺していく日々に、自分の生きる目的を見失っていく。精神的に弱い質ではなかったが、考え方の分からない朝鮮兵との戦いで、日本人の価値観が崩れていくのを感じ始めていた。今で言うならPTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまったのだ。
朝鮮での戦いの後、道智は頭を丸めて仏門に入る。帰国後廃人同様の道智を救ってくれたのが和尚久庵だった。乞食同然の托鉢の修行、山ごもり、座禅。道智は自分をいじめ抜くことで、精神のバランスを取り戻そうとあがいていく。その時折り、久庵は道智と語り合ってくれる。その問答の中で道智は少しづつ自分を取り戻していった。今風に言えばカウセリング治療を和尚は行っていたのだ。
そんな道智のもとに、長崎のキリシタンの話が伝わってきた。道智は他の宗教を攻撃する気はない。ただ、キリシタンになった者が神社仏閣を破壊し墓地を荒らし回る話に、朝鮮半島での殺伐な戦争風景が重なっていく。信じるものが違うというだけで、絶望的な孤独感が起きてしまうことを道智は身にしみて知っている。
また、なぜ異国の宗教に心動かされていくのかという単純な疑問から、その理由を知りたいと思った。道智が信心する仏様を全否定する人々と話をしたくなったのだ。
「和尚、今までの教えありがとうございました。私は長崎に行ってみたいと思います」
「行って何をするのだ」
「仏の教えを広めたいと思います」
「そうか。心して行け」
和尚は道智の気持ちを十分察した上、寺の門を開けた。
和尚久庵に別れを告げ、熊本の山奥から長崎の地にやってきた。道智は正覚寺を拠点に、キリシタン信者と宗教論争をかわし先鋭的な布教活動をはじめた。立山の「山のサンタ・マリア教会」、舟津村の「サン・ジョアン・パプチスタ教会」の信徒らと宗論を戦わした事が記録に残っている。
そのせいで脅迫、投石、井戸に毒薬を混ぜられるなど嫌がらせが続き、慶長12年(1607年)キリシタン達により正覚寺は放火され全焼した。
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