第2話 治療院
診察室には、ランプが灯されている。
処置台のわきの壁に掲げられた絵は、影が落ちていて、よく見えない。
魔道灯ではなく、火によるランプのため、時おり、明かりがゆらぐ。
魔術がらみの作業をするときは、できるだけ、不必要な魔術を遠ざけたほうが良いのである。
ラスとディックは、部屋のすみに並んで立ち、忙しく動く医師と看護師の動きを見つめていた。
スーザンは、香炉に香木をくべ、リジンは、『夜人形』の額にどろりとした膏薬を塗る。
この膏薬は、この治療院の院長であるハワード・ルクセン医師によって開発されたもので、中毒となっている魔術物質を中和するのに必要な成分でできている。
ツンとしたかおりがたちこめはじめると、処置用のベッドに寝かされた『夜人形』の身体から、いくつものエーテルが、外へ向かって流れだし、部屋をぐるぐると渦巻き始めた。
「中和する」
医師であるリジンの指が、『夜人形』の額に触れると、エーテルのいろが虹色に輝いた。
やがて、その光彩が薄れていき、エーテルの流れがおさまっていく。
静寂の中、ジジッと、ランプの芯が音を立てた。
夜人形の胸がゆっくりと上下するのに目をやって、リジンは夜人形の額から指をおろした。
「終わった」
リジンのことばを確認すると、スーザンは、香炉の火を消して、『夜人形』の額をぬぐう。
リジンは、『夜人形』の手を取り、脈を調べ、小さく頷いた。
「かなり衰弱していますね。意識が戻るとしても、二日はかかります」
「そうか。手間をかけた」
ディックは静かに頭を下げた。
「ラス」
リジンの声が、背を向けようとしたラスの足を止める。
「こんな遅くまで仕事だなんて。このあと、どうするのですか?」
アイスブルーの目がラスを見据えている。端正な顔が険しい。ラスは従兄のこの顔が苦手だ。
スーザンは、黙々と作業をつづけ、ラスから目をそらす。
ディックは何も言わず、表情を消したまま立っている。
中和作業とはまた違う重さがあたりに漂い、なんとなく息苦しい。
「本部に戻って報告よ。大丈夫。さすがに、報告が終わったら、家に帰れるわ」
「もう真夜中なのに」
リジンの言葉に、ラスは苦笑した。
「仕事よ。あなただって、夜勤中でしょ?」
「しかし君は女で」
「スーザンだって、若い女性よ」
ラスの指摘に、リジンは沈黙する。名前を出されたスーザンは、口をはさむ気はないらしい。
「大丈夫よ。私は『ガード』をする側の人間なの。心配しないで」
「『夜人形』にかかわるのは危険だ」
「わかっている。でも、好きでかかわっているわけではないわ。それに、かかわっているのは、あなたも同じじゃない」
リジンは大きくため息をついた。
「まだ、忘れられないのか?」
「その話は、関係ないわ」
ラスは反射でそう言ってから、闇に目を向ける。
鮮血が脳裏に浮かんだ。
胸が痛い。
不意に、ぬくもりを肩に感じる――ディックの大きな手だ。
その手に心を集中して、ゆっくりと息を整える。
「そうね。もちろん、関係なくはないけど。それだけのために、警察にいるわけではないわ」
静寂の中、ランプの明かりが揺れ、長い影がゆれる。
「エルタニン
スーザンが、遠慮がちにカルテを差し出す。
「夜分に失礼した。帰ろう」
ディックは、ラスに目配せをして、扉を出て行った。
リジンは何か言いたげだったが、ラスも無言で頭を下げ、ディックを追って、治療院を出た。
夜は更け、星が冷たく輝いている。何もかもが眠ってしまったかのように、静かだ。
「心配するな、というのは、無理な話だぞ」
御者台に腰かけながら、ディックはそう言った。
ラスは、ディックの隣に腰を下ろしながら「そうね」と頷く。
「男の俺でも、姉貴は、この仕事を辞めさせたいらしいから」
ディックは手綱を握り、馬を走らせた。
蹄の音が、夜の闇の中で響いている。
「私には、この仕事が向いているの」
ラスは、魔道灯に照らされた石畳をみつめる。
「でも、リジンは、私が父の死のことで、仕事をしていると思っている」
「……それは、あるだろう?」
ラスには両親がいない。母は十歳、父は十八歳でなくしている。
母は病死だが、父は『夜人形』の最初の事件にかかわって死んだ。
あれは、八年前。
ホルス・ロキシム氏の父親、ダラス・ロキシムがまだ執行官のことだ。
年に一度の、執行官の街頭演説会で、それはおこった。
執行官を狙った三人の『夜人形』と戦い、父、メラク・アルフェッカは死んだ。
犯人である『夜人形』たちも現場で死亡した。彼らは、死ぬまで、執行官を殺そうとし続けていた。
のちに、彼らを操ったと思われる魔術師も特定されたが、そのときには、もう、その魔術師は自害したあとだった。残された遺書にも、犯行内容が詳細に書かれており、その魔術師が主犯であると断定された。
しかし、魔術師が夜人形をつくるために開発した『魔力物質』の製法を記したという『夜人形の書』と呼ばれる研究日誌は、必死の捜査にも関わらず、みつからなかった。
『夜人形の書』は、闇の中へと沈み込み、あらたな『夜人形』を今も産み続けている。
ラスは、父の死を、その目で見た。
血みどろの中で、倒しても、倒しても、執拗におきあがる『夜人形』たちから、執行官を守った父の姿を、逃げ惑う群衆の騒然としたざわめきのなかで、呆然と見ていた。
リジンが、ラスの警察に入った理由を父の死と結びつけるのは自然なことであろう。
『夜人形の書』をみつけ、処分したいという気持ちは、父の死と無関係とはいえない。
だが。
それが達成されたとしても、ラスは警察をやめないだろう。ラスはこの仕事でなければ、ダメなのだ。
「お前は女だ。しかも、重度のトラウマもち。身内なら、安全な仕事について、平穏に暮らしてほしいと思うのは自然だと思うね」
ディックは、馬を操りながら道の奥へと目を向ける。
「……私をやめさせたいの?」
「違う」
ディックは視線を動かさずにそう言った。その目からは、何も感じ取ることはできない。
「お前の従兄の話だ。俺の意見は違う。間違えるなよ」
「あなたは、どう思っているの?」
ディックは、ほんの少しだけラスに目をやり、すぐにまた、前を向いた。
「お前は俺の相棒だ」
手綱を操り、馬車は路地を曲がる。魔道灯に照らされた石畳の向こうに、大きな門が見えてきた。
「……そうね」
ディックは、馬車を門のなかへとすべらせる。
薄暗い夜の闇のせいなのか、ディックの表情が読みにくい。
もう三年もラスはディックと組んでいて、仕事では、お互いの呼吸が手に取るようにわかるようになっているのに、不思議である。
「ついた」
そう言って、ディックは馬車をおり、話を打ち切った。
リジンと会うと、ディックの態度が、少し遠く感じるのは、ラスの気のせいだろうか。
――本当は、警察をやめて、リジンと結婚すべきだとでも思っているのかしら?
ディックの背を見ながら、ラスは呟く。
リジンの親が、ラスの将来を心配して、そんな話を持ち出したことはある。もちろん、ラスは断ったし、当人同士は、そんな関係ではない。
ただ、ラスとリジンに浮いた噂がないせいで、世間がなんとなく、そう見ているのは感じている。
ひょっとしたら、ディックもそうなのだろうか。
――相棒、か……。
その言葉は、うれしくもあり。せつなくもある。
織りまざった胸の奥の気持ちの意味を、ラスは知りたくはない。
知ってどうするのだ。そんな気持ちは、仕事の邪魔だ。
ディックは、仕事上の相棒だ。それ以上でも、それ以下でもない。
そもそも、ディックは、ラスを相棒以外のものとは考えていない。
直接聞いたことはないが、ディックには心に決めた女性がいるらしい。
誰かはわからないが、きっと優しくて可愛らしい女性なのだろう。
ラスには話さないが、同僚から、そんな話を伝え聞いている。
――相棒だもの。
それでいい、と思う。その関係でいることが、ラスにとって一番心地よい状態なのだから。
見上げた空に、冷たい星の光がまたたく。
「ラス、どうした?」
戸口の前で、ディックが振り返る。
「なんでもない」
ラスは、思索のふたを閉じた。
ひんやりとした夜風が、木々の葉を揺らしていた。
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