皇位継承権者

 六九六年七月、朝議の後で讃良は自室に藤原不比等と柿本人麻呂を呼んだ。

 しとしととした雨が降り、まとわりつくような湿り気が部屋に入ってくる。肌寒いが、一枚に羽織ると暑くなる。白湯を飲んでも心は落ち着かない。

 人麻呂は讃良の前に座ると一礼した。

「高市皇子様のお見舞いに行って参りました。私が寝所に入りましたときも体を起こすことができないほど、皇子様はお体が優れない様子でした。肌は土色で唇は乾き手は痩せて枯れ枝のようでした。ご子息の長屋皇子ながやのみこ様は、食あたりであるとおっしゃっていましたが、屋敷の采女に話を聞きますと、ずっと体が悪く寝込んでいるそうです。高熱が続くときもあるそうで、采女たちは大変心配しておりました。私もご様子を伺いましたが、見舞いの私に答えることが大変なご様子でしたので早々に退席しました」

「高市の具合は、思っていた以上に悪いと」

「申し上げにくいことですが、あまり長くはないと考えます。ほとんどの皇族方、参議の方々も高市皇子様の病状をご存じです」

 讃良はため息をつき、冷えた湯飲みをゆっくりと置く。

「私が即位してから、太政大臣としてずっと助けてくれている高市の病状も心配ですが、当初の思いに反して太政大臣が天皇の後継であると群臣たちに見られるようになっていることが気がかりなのです」

「天皇様は、高市皇子様の後任でお悩みなのでしょうか」

 不比等の問いに讃良はうなずく。

「志斐から、高市の病状がかなり悪いと聞いてから、後任をどのようにするかで頭を悩ましています。高市の後任は次の天皇であると皇族や群臣が考えています」

 珂瑠を高市の後任にできればよいのですが、さすがに十四の子供を朝議筆頭の太政大臣にしては、皆が納得しません。他の皇族を次期天皇と見なされる太政大臣にはしたくない。

「悪い夢を見ました。私が死んだ後に、天皇の位を巡って、何人もの皇子が立ち上がり、日本が乱れます。せっかく作った藤原宮が燃え、町が荒れ野に戻り、混乱の中で珂瑠たちが殺されてしまいます。草壁が死んだ珂瑠を抱きかかえながら、悲しい顔をして私を見ていました。長皇子ながのみこが乱に勝利し天皇に就くのですが、暴虐な政を行い、群臣や民の信頼を失って、ついには舎人の一人に刺されて死んでしまうのです。天皇を失った日本国は崩壊し、諸国の国司が争う戦国の世となるのです。私が人生をかけた国創りが台無しになってしまうのです」

 お父様も自分の後任に悩んだ末に大友を指名した。吉野の盟約の前に、大海人様も同じようなことを言われていた。天皇には権威権力があるために、後継についていつも悩まなければならないのでしょうか。

 讃良は自分の両手を見た。

 手の甲のしわは深く、空気が湿っているというのに潤いはない。頬の弾力はなくなり、階段の上り下りで息が切れることに愕然としたことがある。長く伸ばした髪には白髪が目立つようになった。

 高市の病状が深刻だといいますが、高市よりずっと年上の私だって、いつ迎えが来るかわかりません。少しでも元気なうちに珂瑠を天皇にする道筋をつけておきたいのですが、如何ともしがたい。

「天皇様のお心は充分推察できます。天皇様の悩みは私ども臣下の悩みであります。私も天皇様の元で国創りを行ってきたと自負しておりますれば、戦乱ですべてが灰になるようなことは避けたいと考えます」

「壬申の乱の再現はなんとしても避けねばなりません。しかしながら、皇室には有力な後継者候補がたくさん見えます。それぞれに近習や縁者がいて、最悪の場合、壬申の乱以上の混乱を招くでしょう。高市皇子様が亡くなれば、次の太政大臣を指名しなければなりませんが、当初の我々の考えに反して、太政大臣は次の天皇様であると誰もが考えるようになっていますので、早ければ高市皇子様が亡くなった後に争いが起こるかもしれません。実際に長皇子様や舎人皇子とねりのみこ様は今年に入って何回も歌会や周易しゆうえきの講義と称して人を集めています」

「柿本朝臣も歌会へ呼ばれているのですか」

「周易には呼ばれていませんが、歌会には呼ばれています。倭や河内の氏上うじのかみの方々が多く参加されていました。様子を見ている人もいますが、思いを寄せる皇子様に付いて家運を上げようという人も多くいます」

「国の争いを未然に防ぎ、珂瑠を天皇にするためには、高市の後継問題を乗り切らねばなりません」

 草壁が生きていれば、何の問題もなく天皇にできたのに。死んだ子供の年を数えてはいけないというが残念でならない。

 長、舎人、新田部など有力候補たちを大津の変を再現してでも除かねばなりませんが……。

「天皇様の考えていらっしゃることは分かりますが、長皇子様や舎人皇子様を陥れることはやめたほうが良いでしょう。手痛いしっぺ返しを食らうことになります」

「大津皇子様について、我々が行ったことはよく知られていますが、天皇様の権威と実績ゆえに誰も文句を言わないだけです。大津皇子様のときは一人だけでしたが、今回は有力な方が何人もいます。皇子様のどなたかを陥れれば、皆が次は自分ではないかと疑心暗鬼になり我々に手向かってくるでしょう。長皇子様、舎人皇子様が他の皇子様たちと手を組んだら、我々の立場が危うくなります。壬申の乱のようになれば、珂瑠皇子様のお命が危うくなります」

「丹比様や石上いそのかみ様など群臣まえつきみの有力な方々も、高市皇子様の後継には思案の様子です。群臣の一部は、皇子みこ様では収拾が付かなくなるから、日本国の伝統に従って、皇女ひめみこ様を立てるべきであると主張しております」

「皇女様まで後継候補に数えますと、すごい数になります」

 讃良は後継者候補を数えようとしたが、途中で分からなくなってしまった。

「お父様や大海人様の子供を書き出してください」

 人麻呂と不比等は、木簡を横にして、皇子と皇女の名を並べたが、誰が有力候補かわからなくなった。次に、板を持ってきて、母親や祖父の名も加えた系図を書き始めたが、関係者が多くなりすぎて書ききれなくなった。再度、幅の広い板を持ってきて系図を完成させることができた。

「お父様と大海人様の子供は全部で三一人。うち存命者は二二人」

「系図を見ますと、皇位継承権がある皇子様は五人、皇女様は八人です」

 皇位継承権者が十三人。なんと大勢いるのですか。

 讃良はゆっくりと息を吐き出した。

 文字どおりため息しか出ません。改めてお父様と大海人様が女に関してだらしなかったことを実感します。私の子供は草壁一人だけなのに、大海人様は他の女と十六人もの子供を作っていました。大海人様にとって私はどんな女だったのでしょうか。三人も四人も子供を産んだ后に比べて私は……。

「葛城大王様、大海人天皇様の孫の代はまだ少ないのですが、皇子様、皇女様のお年を考えると、これから増えてゆくと思われます。高市皇子様の子供である長屋皇子様はお母上が御名部皇女みなべのひめみこ様であり、高市皇子様自身が太政大臣を務めていらっしゃいますから、孫の代で比べれば、珂瑠皇子様と同じく皇位継承権があります」

「長屋皇子様に皇位継承権があれば、葛野皇子かどののみこ様や粟津皇子あわづのみこ様にも皇位継承権が出てきます」

 不比等と人麻呂もため息をついた。

 高市の後継者問題は、考えていた以上にめんどうです。どのような決着をつければよいというのでしょうか。

「十三人の皇位継承権者を飛ばして、十四歳の珂瑠を次期天皇にすることなど無理ではないですか」

大王おおきみ様に即位できるのは大王様の子供か大后おおさき様だけでした。珂瑠様は天皇様のお孫様ではありますが、草壁様は即位なされていませんので、天皇様の子供であるという重要な要件を満たしていません」

「高市皇子様は重篤です。皇位継承権者の人数も多いですし、一人一人を追い落とす時間もありません」

 いっそのこと大乱を起こしてすべてを葬り去る……。

 乱など起こしたら、私が生涯をかけた国創りが台無しになります。第一、乱に勝ち残れるという保証はありません。

「最有力者は?」

「長皇子様でしょう」

「長皇子様の母様は大江皇女様ですが、大江皇女様は忍海おしみの一族の出であれば、阿部氏を母に持つ舎人皇子様が第一位でしょう」

「舎人皇子様の名前を出すのならば、新田部皇女様や御名部皇女様も有力でしょう」

「穂積皇子様や大伯皇女おおくのひめみこ様もいらっしゃいます」

 不比等と人麻呂は腕を組んで見つめ合った。

 私の股肱の臣ですら意見がまとまりません。

「要するに、皇位継承権者は五十歩百歩で優劣がつかないと。これでは、珂瑠を天皇にするどころか、私が倒れたら日本国が乱れることは必定ではないですか。八方ふさがりです。打開策はないですか」

「草壁様がご存命ならば、問題など起きないのですが」

 柿本朝臣の言うとおりです。草壁ならば太政大臣を継ぎ、天皇になることに文句を言う人はいません。返す返すも口惜しい。どうして草壁は死んでしまったのでしょうか。

「死んだ子供の年を数えてはいけないと申します。高市様が明日をも知れないという状況で、次の一手を打たねばなりません」

 讃良は板に書かれた系図を見て、再び「ふっ」とため息をついた。

 本当にため息しか出ない。お父様も大海人様も子供を作るだけ作って死んでしまった。残された私に謝ってほしい。

 蝉の声が聞こえてきた。雨は上がり太陽が顔を出したらしい。部屋の温度がジリジリと上がり汗ばんできた。

 不比等と人麻呂も腕を組み思案顔をして何も言わない。

 沈黙の時間が流れてゆく。

丹比朝臣たじひのあそみを太政大臣にして、石上朝臣いそのかみのあそみ大伴朝臣おおとものあそみを左右大臣に据え、皇子たちを政から遠ざける。何人かは国司として諸国に飛ばし、代わりに食封じきふうを増やせば皇子からの文句は出ないでしょう」

 珂瑠が大人になるまで時間を稼げば良い。珂瑠が大人になるまでには、高市のように皇子の何人かは亡くなっているでしょう。

 讃良は自分の手のひらを見た。

 私はすでに五二歳。皇子たちよりも私の方が先に死んでしまう。私が死ねば国が乱れる。

 草壁が生きてさえいれば……。堂々巡りの考えしか浮かばない。

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