高市王子薨去
志斐が入ってきて、
「高市皇子様が
と、報告した。三人は顔を見合わせる。
「亡くなったのですか」
志斐は首を縦に振る。
「使いの者に、お悔やみの品を持たせて返しなさい。丹比朝臣のところへ知らせを出し、
三人は志斐が部屋から出て行くのを眺めた。
「高市皇子様が重篤であることを伺ったときから用意していましたが、こんなに早く使うことになるとは思いませんでした」
人麻呂は持っていた風呂敷をほどいて、讃良に木簡を渡した。
「挽歌でございます。挽歌は一日、二日でできるようなものではありませんので、一ヶ月ぐらいかけて推敲を重ねてきました」
木簡には
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに
玉たすき 懸けて偲はむ
と書かれてあった。
「歌の名手と言われる柿本朝臣らしい、すばらしい挽歌です。長いにもかかわらず、淀みなく詠ませてくれます。高市の人生を網羅して称え、死を悼む気持ちに共感を誘います。亡き高市も満足することでしょう」
高市が重篤になったときに、後継が問題となることは分かっていたはずです。私も柿本朝臣のように前もって手を打っておくべきでした。
不比等は挽歌の書かれた木簡を何回も読み返す。
「私も柿本殿のように秀逸な歌が詠みたいものです。高市様の人生と功績を余すことなく詠むことは余人にはできません。太政大臣として高市様の実績は誰もが認めるところですが、高市様の名声はご子息の
「藤原殿の言うとおり修正しましょう」
「挽歌は柿本朝臣に任せますが、後継の太政大臣を任命しなければなりません。問題は太政大臣は次の天皇であると皆が考えていることです」
腕組みをしてため息をつく讃良に、人麻呂が提案する。
「阿陪皇女様を太政大臣になさったらいかがでしょうか。突拍子もないように聞こえるかもしれませんが、阿陪様が太政大臣を務められれば、珂瑠様を天皇様にしやすくなります」
「阿陪を太政大臣にするということは、柿本朝臣の言うとおり珂瑠を天皇にする布石になりますが、女が二人で国を治めたら、群臣たちにも抵抗感があるでしょう。そもそも、阿陪は朝議に参加していません。太政大臣なら自分に任せろと、
人麻呂は「だめですか」と言って下を向く。
「珂瑠様に『皇太子』。すなわち次期天皇になっていただきましょう」
「藤原朝臣は何を言い出すのですか。十四歳の珂瑠では、いくらなんでも幼すぎます。板に書いたように、私の
「天皇様のおっしゃるとおり、たくさんの皇位継承権者がいらっしゃいます。しかし、この系図をご覧ください。どなたも同列で、誰一人として飛び抜けて優位の方はいません。ですから、高市皇子様の後継、すなわち次期天皇様候補を決める会議を開けば必ず揉めます。有力な群臣の方々も呼べば、それぞれに思う方を推して収拾がつかなくなるでしょう。混乱を極めたところで、どなたかに、皇位でもめ事を起こせば壬申の乱の再現になると言わせるのです。壬申の乱から二十五年経っていますが、天皇様や私、柿本殿が覚えているように、多くの者が乱を記憶していますので、乱が起きると脅せば黙るでしょう。間髪を入れず天皇様が珂瑠様を後継に、すなわち皇太子に指名するのです。時間が経てば不満を持つ者が裏工作を始めます。珂瑠様を皇太子にしたら、早いうちに天皇様に即位していただきます」
「十四歳の珂瑠では政が立ちゆきませんし、天皇である私はどうするのですか」
「譲位された天皇様として
「藤原殿の言は名案であると考えます。天皇様が後見なされば、珂瑠様が若くても天皇様の職責を勤めることができるでしょう。長く政に携わっていらしたので、天皇様には誰も逆らうことはできません。天皇様の権威で珂瑠様を即位させ、皆を黙らせましょう」
珂瑠を皇太子に、次いで天皇にするという案は奇をてらうように聞こえたが、有力者が多すぎるということを逆手に取った妙案かもしれません。たとえ珂瑠を次期天皇に決めても、即位する前に私が死んでしまったら、皇太子の決定をひっくり返そうとする者が出るでしょう。私が元気のうちに、珂瑠を即位させ、国創りを完成させるのです。
「問題になっている太政大臣はどうするのですか」
「浄御原令で太政大臣は適任者がなければ則ち空けておくという
「
「律令の本質は、王が民を支配するための道具です。天皇様の都合の良いように書き換え、解釈すればよいのです」
「藤原殿は会議が紛糾したところで壬申の乱の話を持ち出すと言うが、どなたに話をしていただくおつもりか」
不比等は腕組みをして答えた。
「葛野皇子様がよろしいと思います」
葛野?。
壬申の乱で父親の大友を失い、母親の
「乱の勝者が語るよりも敗者の言葉の方が説得力があります」
乱に敗北すると、自分のような惨めな生活をすることになる、と言わせるのでしょうか。葛野に壬申の乱を言わせるのは酷ですが、乱を防ぎ珂瑠を天皇にしなければなりません。
「葛野皇子様に根回しして参ります」
「私は、高市皇子様の屋敷へ弔問に行き、皇族方や群臣様たちの動向を探ってきましょう」
二人は一礼して部屋を出て行く。
珂瑠が成人するまで私が天皇を務めれば良いと考えていましたが、高市が私より早く死ぬとは、思わぬところに落とし穴が開いていました。対応を間違えれば、珂瑠を天皇にできないばかりか、日本国が大乱となり私の努力がすべて消えてしまう。
私の人生の正念場です。
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