伊勢巡幸
六九二年三月、伊勢巡幸を朝議で指示した讃良に、
「三月は春耕の時期です。伊勢および東国への巡幸の期日をずらしていただきたく存じます」
「
高市麻呂は口をしっかり閉じ、讃良から視線をそらそうとしない。
「私は巡幸を諮っているのではありません。命じているのです。すみやかに車駕や服を用意なさい」
「農耕は国家の基本であります。すでに春の田起こしが始まっていますし、養蚕も準備を進めています。畑を耕し種をまくという、一年で一番忙しい時期に入ります。天皇様の巡幸となれば百官、舎人や采女はもちろんのこと、道すがらの
「
「天皇様が巡幸なされば、民は道を掃き清め、
「今までの巡幸でも、民に手間をかけさせる分だけ調役を免じています。私が民の負担を考えていないとでも三輪朝臣は言うのですか」
「私は天皇様が民を慈しんで見えることを知っています。国見をすること、天照大神様を祭ることに反対しているのではありません。時期が悪いと申し上げているのです。巡幸は、田植えが終わり人々が一段落したときに行うべきです」
「田植えの後は養蚕が盛りとなります。稲刈りが終わるまで巡幸をするなというのですか」
「
「三輪朝臣は私が決めたことに異をはさむのですか」
朝議の場に気まずい沈黙が流れる。
高市太政大臣、丹比右大臣など朝議に参加している者たちは、讃良と高市麻呂の争いに関係したくないとばかりに、うつむいているかあらぬ方を向いている。
仲裁しようとする者はいない。
「民なくして国は成り立ちません。私は冠を掛けて天皇様に申し上げます」
大王の頃ならば政は倭の有力者と合議して決めねばならす、三輪朝臣のような有力者の意見を無視するわけにいかなかった。しかし、大海人様が壬申の乱を戦い、今では、天皇が一人で決めることができるようになっているはずです。
三輪朝臣の意見に従い巡幸を取り下げたら、天皇の権威が落ちます。私が権威を落とせば、
とはいえ、三輪朝臣の言うことは筋が通っています。自分の意見を通せば、群臣たちには、わがまま者、頑固者と思われてしまうのでしょうか。「天子に
末席に座っている藤原不比等と目があった。不比等は固く口を閉ざして会釈を返してきた。
私の迷いは天皇の権威を傷つけるのです。珂瑠に手本を示すためにも、堂々と政を勧めねばなりません。
「ならば、三輪朝臣は私に冠を返しなさい。壬申の功臣とて私の命に逆らうことは許しません」
高市麻呂は無言のまま顔を真っ赤にしたが、冠を外して自分の前に置いて立ち上がり、深々とお辞儀をしてから出て行った。三輪高市麻呂は、大王・天皇の時代を通じて、職をかけて諫言した、ただ一人の臣と記録されることになる。
場の空気が悪い。参議の半部くらいは三輪朝臣の意見に賛成していたのでしょうか。
「六日より、
讃良の宣言に合わせて、参議たちは頭を下げて退席した。
末席にいた不比等と、廊下にいた人麻呂が、参議たちが退席したのを見計らって讃良の元に来た。
「三輪朝臣の進言をどのように考えますか」
「
「綸言汗のごとしと申します。朝議の場で言われることを引っ込めることは権威に関わります。故に物事を決めるときには、後になって変えなくても良いように熟考が必要です」
「柿本朝臣も巡幸に反対するのですか」
「巡幸には賛成です。民の都合を優先していては、巡幸や国見の機会がありません。天皇様は巡幸先の税を免じ、孝行者を誉めるとおっしゃいました。民は喜んで天皇様をお迎えすることでしょう。荘厳華麗な儀式は天皇様の権威を高めます。巡幸を成功させてください」
「二人が私の考えに賛成してくれて、間違った政を行っていないと確信できほっとしています。柿本朝臣が言う『綸言汗のごとし』を肝に銘じましょう。ところで、三輪朝臣が冠を返してまでも私に反対した理由をどのように考えますか」
「三輪様は、生来頑固であられます」
不比等のニッコリした顔に、讃良も思わず微笑んだ。
「三輪朝臣は悪い人ではありませんが、少々頑固で困りものです」
「三輪様は、壬申の功臣として地位を保っていますが、壬申の乱が人々の記憶から薄らぎ、若い人間が出てきて焦っているでしょう」
「三輪の氏族は代々
「藤原朝臣が言うように、三輪朝臣は焦っているのかもしれませんが、国を考え、民を思って私に反対したという一面もあります。一本気な三輪朝臣をたぶらかす者がでるとも限りません。取り巻きが不穏当なことをささやかないよう、柿本朝臣は倭で見張ってください」
鶯の谷渡り鳴きが聞こえてくる。宮の外は良く晴れているらしい。
ゆっくりと息を吸うと、春の香りが鼻をくすぐってきた。
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