即位への道筋
梅雨の終わりを告げる大雨が浄御原宮の屋根を鳴らす。湿り気が部屋を満たし、肌寒い空気が体温を奪ってゆく。
私は息子同然の大津を殺すという大罪を犯しました。草壁が死んだのは
浄御原宮の自室でぼんやりしていた讃良の元に、柿本人麻呂と藤原不比等がそろって入ってきた。二人は讃良の前に正座し、無言で深く頭を下げる。
人麻呂は顔を上げ、
「次の殯の儀で詠む挽歌の案です。皇太后様の作風に合わせましたが、お気に召さないところがあるかと思います。皇太后様のお言葉に直してください」
と、木簡を差し出した。
草壁が死んだと自分に言い聞かせても、ひょっこりと戸を開けて部屋に入ってくるような気がしてならなりません。草壁が死んで二ヶ月経ち、幾つかの殯の儀を行ってきました。
草壁のことを諦めなければならないと自分に言い聞かせても、諦めきれません。悲しくて何も手につかないし、まして、挽歌など考えることができません。草壁に挽歌を贈れば、本当の別れになってしまうような気がする。挽歌など詠みたくない。
「秀逸な歌です。きっと草壁も喜ぶことでしょう。ですが私は挽歌を詠む気になりません。柿本朝臣が挽歌を献じてください」
人麻呂は両手をついて頭を下げた。
「畏まりました。臣下の言葉に直し、皇子様に献上いたします」
「反歌はどのようになりますか」
人麻呂は木簡を渡してくれた。
あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の
(お日様は今日も輝いていたが、
柿本朝臣が詠むように、草壁が死んでしまったことが残念でならなりません。私は草壁の晴れの日を夢見てきました。私は草壁を天皇にするために生きてきたのです。
私はこれから何のために生きればよいのでしょうか。もう何もする気になれません。
人麻呂の横に控えていた不比等が顔を上げた。
「これからの政ですが」
「政などどうでも良いのです。もう草壁はいないのです。誰のために政をせよというのですか。私が悲しんでいるときに、二人揃って来たと思えば、政の話をするとは。いったい二人は何を考えているのですか。私の気持ちが分からないのですか」
雨の音が大きくなり、湿気の多い不快な空気が三人を取り囲む。
柿本朝臣と藤原朝臣は、私の腹心として、私の考えることを良く察して働いてくれていたのに、しょせん他人でした。私の悲しみは男である二人には分からないのです。
深呼吸をすると、湿った空気が胸の中に入ってきた。
人麻呂、不比等と目が合う。
柿本朝臣も藤原朝臣も何か言いたそうにしています。二人は、意を決して私の元に来たというのでしょうか。
何の決意?。
不比等が頭を下げた。
「
「本日、藤原殿と参上したのは、高市皇子様の近習の不穏な動きを報告するためです」
天皇にしようとしていた草壁は死んでしまったのです。もう誰か天皇になろうともかまいません。
「高市皇子様は人品骨柄がすぐれていらっしゃいますが、お母上が筑紫の氏族の娘でありますから、即位できないことが暗黙の了解でした。しかし、草壁皇子様、大津皇子様が亡くなられた現在、天皇様に即位できる有力な皇子様はいらっしゃいませんので、高市皇子様に近いものたちの期待が高まっています」
「他に適齢な方としては、
「高市様は賢い方ですので、ご子息の
「私たちには、草壁様の忘れ形見である珂瑠皇子様がいらっしゃいます」
珂瑠。草壁の忘れ形見。私の孫。
「高市様か長屋様が即位されれば、皇統が移ってしまうので珂瑠様を天皇様にすることができません。本日、柿本殿と参りましたのは、皇太后様に即位をお願いするためです」
「私に天皇になれと?」
不比等は大きく頷いた。
「皇太后様が血筋、年齢共に皇室の頂点です。皇太后様は朝議に参加し大海人天皇様といっしょに政をなさってきました。皇太后様の実績や見識は群臣のすべてが認めるところです。大海人天皇様の殯の儀を三年という長期にわたって続けているのは、草壁の皇子様を天皇にするためと誰もが知っていても、異議の声が上がらなかったのは、皇太后様の権威を皆が認めているからです」
「高市様が即位すれば不満を持つものが出ますが、皇太后様が即位なさることに文句を言い出す者はありません」
「珂瑠を天皇にするために、私が中継ぎの天皇になれと?」
「中継ぎというのは語弊があります。天皇様には実績と品格が必要であり、私どもは皇太后様がふさわしいと考えています。大海人天皇様が手につけられた国創りが途中であれば、皇太后様と一緒に完成させたいと考えています。いえ、皇太后様でなければ国創りはできません」
「倭国の時代から、大王様に即位できるのは、大王様の子供か
「珂瑠様は天皇様の子供ではありませんが、直系のお孫様です。大海人天皇様が国号を倭国から日本へ、国王の称号を大王様から天皇様に変えたように、皇太后様が国創りを行い、兄弟相続を直系相続に変え、珂瑠様を即位させてください」
「珂瑠を天皇にするために、私に頑張れと」
人麻呂と不比等は両手をついて頭を下げた。
草壁を亡くして生きる目的を見失っていましたが、私には、草壁が残してくれた珂瑠がいたのです。珂瑠を天皇にすることを残りの人生の目標にせよと、二人は私の不興を買うことを承知の上で、私に諫言しに来てくれたのでしょうか。
人麻呂と不比等の顔には安堵の色が浮かんでいた。
「二人は私に即位して珂瑠を天皇にするまで頑張れと言いましたが、他に目的があったのですか?」
「畏れながら、草壁様が亡くなってからの皇太后様の様子は、傍から見ておりまして心配なものがありました」
「皇太后様の瞳に灯りが戻りましたので安心したしだいです」
二人が来た真の目的は、草壁を亡くして生きる目的を失い落ち込んでいた私を励まし元気づけるためだったのでしょうか。本当に柿本朝臣と藤原朝臣は私の忠臣です。
「天皇に即位しましょう。大海人様が始めた国創りを完成させて、草壁の子供である珂瑠を天皇にするために、私が即位しましょう」
人麻呂と不比等は顔を見合わせると、口元を緩めた。
「藤原朝臣は、高市を推す動きがあると言いました。私が即位すれば高市が不満を抱いて兵を挙げることはありませんか。大津の時と同じように、謀反の疑いを掛けて処分した方が……」
「高市様を陥れることはできません。もし画策しようものならば、高市様は本当に兵を挙げるでしょう。大津様には兵を挙げて先頭に立つような実力はありませんでしたが、高市様は壬申の乱で先頭に立って戦を指揮していた経験があります。戦になれば、我々に勝ち目はありません。たとえ高市様を陥れることができたとしても、他の皇子様が不安になります。おおぜいの皇子様がいらっしゃいますので、ひとりひとり潰してゆくことはできません」
「高市を陥れることはできない。ではどうせよと」
「敵を無くすには二つの方法がございます。一つは討ち滅ぼすこと。もう一つは見方に取り入れてしまうことです。討ち滅ぼすことは、大きな力と犠牲が必要ですので下策です。高市様を
「太政大臣とは、お父様がかつて、将来の大王という意味を持たせて大友につけた役職ではないですか。高市を将来の天皇であると宣言しては、珂瑠を天皇にできないではないですか」
「浄御原令には、太政大臣は人品骨柄が優れ、民の模範となれる臣下が就くものであり、もし、適任者がいなければ空けておく地位であると書いています。あくまで臣下の地位ですので、皇位を継ぐことはできないと解釈させます。高市様は元から天皇様に即位できない血筋ですので、十分な待遇が得られれば満足されるでしょう。高市様を懐柔し皇后様の権力で押さえつけてください」
「大后様が即位されるときには、男子皇族が補佐することが伝統であれば、高市様を天皇様の補佐として太政大臣にすることに違和感はありません。令の縛りがあれば、高市様であっても勝手に動くことはできません。」
「策士との評判が高い藤原朝臣らしい考え方です」
ゆっくり息を吸うと、湿った空気が体に潤いを与えてくれ、萎れかけた花が水を吸って息を吹き返すように、体に力がみなぎってきた。
大雨は止み、雲の切れ目から陽の光が漏れて、部屋の中が明るくなってくる。
「草壁の殯が終わりしだい、私が天皇に即位します」
天皇になって国創りを完成させましょう。しっかりした国を創って珂瑠に渡します。草壁はきっと喜んでくれることでしょう。
「藤原朝臣は高市や丹比朝臣などに即位の儀について伝えなさい」
二人は両手をついて頭を深く下げた。
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