草壁皇子薨去
讃良は岡宮に着くと、足も洗わずに寝所へ急いだ。
草壁が死にそうだなどとは悪い嘘です。何かの間違いです。私が部屋に入れば、きっと草壁は「お母様」と挨拶してくれるはずです。
草壁の寝所では、部屋の中央に敷かれた布団の周りに、草壁の后である
布団に寝ている草壁を除いて、全員が讃良に頭を下げた。
真っ赤な目に、涙を溜めた阿陪が見つめてきた。
氷高は小刻みに体を震わせながら、じっと何かに耐え、幼い珂瑠と吉備は母親に抱きついている。采女たちは下を向いたまま顔を上げようとしない。
草壁……。
声が出ない。
草壁と呼びかけたら、お母様と答えてほしいのに、声が出ない。
「草壁」
阿陪がゆっくりと頭を下げた。
すでに死んでしまったというのですか。
讃良は布団に駆け寄って座り、草壁の手を握った。
温かい。寝ているだけではないですか。
「草壁」
讃良の声に草壁皇子は目を開けた。
「草壁」
「お母様ですね」
「しっかりしなさい。天皇が鹿などに負けてはいけません」
「お母様にはこの数年失礼なことを重ねてきました。お母様の気持ちは
「今は傷を治すことだけを考えなさい」
「お母様と伊勢の海で遊んで楽しかったことが目に浮かんできます。伊勢の海は温かかったのに、今は寒くてしかたがありません。死ぬときは体が冷えるのでしょうか」
「あまり話さないで、ゆっくりお休みなさい。そして、目が覚めたらみんなで有馬の湯へ湯治に出かけましょう。氷高たちも喜びますよ」
「目をつむったら、二度とお母様の顔を見ることができないかもしれません。もう一度顔を見せてください」
讃良は、草壁の手を握ったまま、寝ている草壁に覆い被さるようにしてのぞき込んだ。
草壁は目に涙をためている。
「死ぬ前にお母様に会えて良かった。昔のままの優しいお母様…… お母様、今までありがとうございました。子供たちをお願いします。お母様……」
草壁の手を握りしめると、弱々しく握りかえしてくれた。
草壁が目を閉じると同時に、手の力が弱くなってゆく。
「草壁…… 目を開けなさい」
讃良の問いかけに草壁は答えない。
「草壁!」
讃良が大声をあげて、草壁の体を揺すろうとしたときに、左手を柿本人麻呂、右手を藤原不比等につかまれた。
「皇子様は、鹿の角が腹に刺さって大怪我をされております」
讃良は両手を下ろして草壁の顔を見つめた。
息をしている様子がない。
部屋の角にいた
「ご臨終です」
金鐘は両手を合わせて、小さな声で経を唱え始めた。
「草壁!」
讃良は、草壁の上に伏して声を上げて泣く。
草壁! 最期に私の名前を呼んでくれるとは……。大津の一件から素っ気ない態度でしたが、私と草壁は
もう一度、目を開けて声を聞かせて欲しい。
「草壁!」
草壁の体を揺すっても、目は閉じたままで開きそうにない。
あふれ出す涙が止まらない。お父様やお母様が亡くなったときも、大海人様が亡くなったときでさえも涙など出なかったのに、涙が止まらない。
「逆縁です。親に先立つことは、最大の親不孝です。心優しい草壁が、親不孝なことをするはずがありません。起きて下さい。起きなさい」
讃良につられて、氷高が大きな声を上げて泣き出した。氷高の頭を撫でて慰める阿陪も涙を流す。
私は今まで草壁のために生きてきたというのに。草壁のために国創りをしてきたというのに。天皇になる前に死んでしまうなど私は許しません。草壁が天皇に即位し、百官を率いて日本を治める姿を見ることが、私の生き甲斐だったのに。どうして、草壁は死んでしまったのですか。
草壁の体に伏していた讃良を、二人の采女が起こしてくれた。
「大丈夫ですか皇太后様」
「少しの間、気をなくされていました。別室に床を用意しますので、お移り下さい」
「草壁が起きるかもしれません。別室で寝ることなどできません」
草壁皇子の顔はピクリとも動かない。金鐘の読経は終わり、阿陪や采女がすすり泣く声の他は、何も聞こえてこない。固まった部屋の中を、時間だけがゆっくりと流れていく。
歩き始めたばかりの吉備皇女が、母親の手を振り切ってトコトコと草壁の枕元にゆく。
「おとーさま」
あわてた阿陪が吉備を寄せて膝の上に抱く。
吉備はまだ二つです。幼子には、自分の父親が死んだことが分からないのでしょう。かわいい盛りの子供を残して、なぜ草壁は死んだのですか。氷高、珂瑠、吉備。いずれも幼く父親が必要です。子供のためにも、草壁はもっと生きなければならなかったのです。
吉備は再び母親の膝を飛び出し、草壁の枕元によって「おとーさま」と呼びかけた。
赤い目をした阿陪が、ぐずる吉備を抱えて部屋を出る。氷高も阿陪の後を追った。
涙が止まらない。
私の中の大きなものがなくなってしまった。
悲しみで体が潰されそうです。だれか私を助けて欲しい。
草壁のいない国など意味がありません。草壁がいなければ、律令や新宮など不要です。
静寂が部屋を満たし、夕闇が降りてきた。
閉じられた瞼は開きそうになく、唇は土色に変わり頬や額の輝きもなくなった。
いつの間にか部屋の四角に燭が置かれていた。ゆっくりと揺れる炎が、部屋を明るくし、草壁の顔を照らす。
草壁……。
草壁は寝ているだけなのです。朝になれば目覚めて挨拶をしてくれるに違いありません。
讃良は布団の中に手を入れて、草壁の手を握る。
冷たい……。
屋敷に来たときは温かかったのに、本当に草壁は死んでしまったのでしょうか。
小さな頃に、草壁は飛鳥川へ水遊びに行って、はしゃいでいました。
馬も剣術もたしなみ、和歌や漢詩も楽しんでいました。花が好きで、岡宮には四季の花を植えています。酒が飲めるようになっても、たしなむ程度で、酒に飲まれることはなく、酔って恥をさらすことはありません。
天皇の子供だからといって傲慢に陥ることなく、思いやりがあって人を気遣うことができます。舎人や采女から親しまれていて、岡宮では舎人たちの笑い声が絶えなかったと聞きます。
群臣からは信頼され、将来を嘱望されていたのに。天皇にするはずだったのに、なぜ死んでしまったのですか。
もう一言。一言だけでよいから私に声をかけて欲しい。
「お父様は、亡くなられたのですね」
子供の声にふり返ると、小さな草壁が座っていた。
「草壁?」
讃良のつぶやきに、部屋の隅で控える采女たちは下を向いた。
草壁ではない。孫の
私の子供は草壁一人なのに、草壁は阿陪との間には三人の子供がいる。草壁が他の女のところへ出かけたという話を聞いたことがないから、私と大海人様との関係とは違い、草壁と阿陪は仲の良い
氷高、珂瑠、吉備…… みな、かわいい子供、私の孫です。
好きな后が側にいて、かわいい三人の子供に恵まれて、草壁は幸せだったかもしれません。
いえ、子供の成長を楽しむことなく死んでしまって、草壁は残念だったでしょう。せめて長女の氷高が嫁ぐ日までは生きていたかったでしょう。
珂瑠は正座して、小さな手を合わせ、目をつむる。
珂瑠は草壁の小さいときにそっくりです。丸い顔に、大きな目。繊細な鼻筋。引き締まった口。ぬばたまの黒髪。白くて華奢な腕。すべて草壁と同じです。
「お父様は極楽へ行けたのでしょうか」
「もちろんです。お父様は現世で多くの功徳を積まれましたから、お釈迦様が極楽へ導いて下さいます。お父様があの世で迷わぬように、お祈りしましょう」
讃良の後ろに阿部、氷高、珂瑠が正座する。部屋にいた采女たちも讃良の後ろに正座して並んだ。
金鐘が草壁をはさんで讃良の正面に座り読経を始めた。
讃良は目をつむり両手を合わせると、悲しげに鳴く鹿の声が聞こえてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます