白鳳の女帝
飛鳥浄御原令
六八九年四月十三日。讃良のところへ、日本国最初となる「
讃良は差し出された一巻を手に取った。
ずっしりと重い。国の重さが形となって現れているようです。
大海人様が令の制定を命じられてから八年。ようやく完成しました。いままでは天皇が政のすべての決裁を行い、気を配らねばならなりませんでしたが、令があれば天皇の手を煩わすことなく民や土地を治めることができ、草壁が天皇に即位しても、国を治めることに苦労しないはずです。
「令を作ってくれた
「実りがある仕事をさせていただき、私の方こそ感謝しています。量が多いので、一度に覚えることはできません。徐々に慣らしていくことが肝要かと存じます。令があれば百官や舎人たちは、いちいち司に伺いを立てることもなくなります。
「唐国の令を我が国に合わせたつもりですが、日本の実情に合っていないところがあるでしょう。所々に食い違いがあるかもしれません。我が国最初の令ですので、何年か使ってみた後に不具合を直すべきであると、我々は考えています」
すべては草壁のためなのですが……。
草壁は、大津の一件からまともに口をきいてくれません。朝議や行事には出てきてくれるのですが、后の阿陪を通してしか話せないことがつれない。志斐は、「男の子は親に反発する時期がある」と言いますが、子供の頃のように草壁といろいろな話をしたい。
大海人様が亡くなり、私が称制を始めてから三年経ちます。草壁も今年で二八歳ですし、子供も三人になりました。殯の儀を延ばして行うことも、称制を続けることも限界に来ています。私が即位を勧めれば以前のように嫌がるでしょうから、阿陪から即位の話しをしてもらうのが良いかも知れません。
草壁が新宮の大極殿に立ち、百官を従える姿を見たい。
「
「おおまかに線引きを終え、条坊に基づく道を決めたところです」
讃良は「よろしい」と返事をする。
草壁のために律令と新宮を作り、新宮の周りに町を作る。新宮と町は日本国の中心となり、宮の主である草壁が天皇として人々の上に君臨する。すばらしいことです。
即位までには草壁と和解したい。阿陪の話では、草壁は子煩悩なよい父親であるといいます。草壁や孫たちと楽しく暮らしたい。
粟田真人から声を掛けられて、我に返った讃良は「考え事をしていました」と答えて、渡された次の巻物を開いた。
心地よい春の風が、開け放した戸から入ってくる。中庭からは鶯のきれいな歌声が聞こえてきた。
孫たちに会うという口実で草壁の屋敷へ行きましょう。孫が一緒ならば、草壁も私と仲良くしてくれるかもしれません。孫を連れてどこかに遊びに行くというのも良いでしょう。吉野、
巻物の中程まで読み進んだところで、柿本人麻呂が、一礼して部屋に入ってくると、足早に讃良の元に来て跪いた。
「草壁皇子様が一大事です」
「一大事とは何事ですか」
「草壁皇子様は本日、鹿狩を催されていました。一頭の鹿を崖の下まで追い詰めたのですが、鹿が逆上して、皇子様と数人の舎人をはね飛ばしました。皇子様は鹿の角にかかりかなり危うい状態です」
「危ういとは?」
「止血したのですが、出血がひどく話すこともできない状況です。このままでは……」
人麻呂は青い顔をして無念をにじませている。
「一刻を争います。皇子様の屋敷にお急ぎください」
一刻を争う!。
草壁の命は時間の問題だというのですか?。
讃良は巻物を手から落として立ち上がる。
「嘘です!」
人麻呂は両手をついて、腹の底から声を絞り出す。
「嘘ではございません。
「草壁が死ぬわけない」
走り出した讃良の後を人麻呂と不比等が追う。
草壁はまだ二八歳。
私の半分しか生きていません。子供たちも可愛い盛り。死んでよい年ではないのです。
草壁は天皇に即位する身です。天皇になって百官を従える姿を私に見せてくれるはずなのです。
浄御原宮の廊下に讃良の大きな足音が響く。讃良は中庭を大門に向けて一直線に走り、輿にのらず、供も従えずに、浄御原宮を出た。
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