大伯皇女の嘆き
讃良は、朝から一人で浄御原の大広間に座っていた。
讃良の命令により、大津皇子と関係者三十人あまりが逮捕され、その日のうちに大津皇子には死が下賜され、大津皇子の
讃良を尋ねてくる者はなく、鳥の鳴き声と冷たい風が広間に入ってくるだけだった。
大津を殺すことはなかったのではないか。僧にしてしまうとか、佐渡島に追放してしまっても良かったのではないか。大津は
大津は草壁よりも人気があった。遠くへ追いやるだけでは、大海人様が大友から力ずくで位を奪ったように、戦を起こして草壁を追いやろうとするだろう。災いは芽吹く前に摘み取っておかねばならない。
私は間違っていない…… そう思いたい。
自分の罪を軽くしようと言い訳しているだけなのかもしれないが……
夕方、藤原不比等が入ってきて、両手をつき頭を下げて「すべて終わりました」と報告した。
不比等は頭を上げようとしない。
しばらくして、柿本人麻呂が入ってきて、讃良の前に座り両手をついた。
「大津皇子様は、泉下の人となられました」
讃良はゆっくりと胸に空気を入れた。
お父様が有間を殺したように、私は大津を殺してしまった。有間は蘇我赤兄にそそのかされたとはいえ、実際に謀反を計画した。しかし、大津は噂だけで謀反を起こすつもりはなかった。噂も元をたどれば私が流したものだ。私は全く罪のない人間を殺してしまった。
私は、お父様よりも罪深い。
讃良はゆっくりと息を吐き出す。
「皇子様の辞世の歌です」
人麻呂が差し出した木簡には、
ももづたふ
と書いてあった。
私に対する恨みや、無念を詠んでも良さそうなのに、歌からは穏やかな心を感じます。
大津は、死に臨んでも平常心でいられた。評判どおり大器だったのです。草壁と一つ違いでなければ、せめて五歳下であれば、姉様の子ではなく、氏族の娘の子供であれば、草壁を支える良い皇族になっていたかもしれないのに。
「
讃良は差し出された木簡を受け取った。
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り超ゆらむ
実の弟を亡くした悲しみ、
私の場合は
柿本の責めるような目がつらい。私を正面に見ないで欲しい。
「まだ、何かあるのですか」
「大津皇子様が御自害された屋敷に、后の
「山辺が?」
人麻呂は軽く会釈をしてから、うつむき加減に話し始めた。
「私たちが、大津様の最期を見届けたときに、外で大きな声がしました。すぐに髪を振り乱した女が入ってきて、舎人を振り切りご遺体にすがり大声で泣き始めました。舎人がご遺体から引き離そうとしても、頑なに離れず泣き続けました。あまりにも取り乱していらっしゃいましたので、最初は誰かわからなかったのですが、後から駆けつけてきた采女が山辺皇女様だと教えてくれました」
「山辺は確か……」
「皇女様のあまりの嘆きに、舎人や采女はもらい泣きしました。しばらくそのまま見守っていたところ、泣き止まれたので、舎人の一人が皇女様のところに近寄ったときでした。あっというまに舎人から短刀を奪い、ご自分の胸に刺されました。私たちはあわてて皇女様から短刀を取り上げ止血しましたが、傷口は深く、しばらくして息を引き取られました」
山辺は大津の後を追って自害した。
なんということだ。山辺も私が殺したようなものだ。私は仲の良い夫婦を不幸にした。
風は止み鳥の声は消えて、沈黙が広間に満ちる。
「山辺様は大津様の手をしっかり握ってらっしゃいました。衣は胸から流れ出た血で真っ赤に染まり、素足でかけていらした足は泥と血で汚れていました。髪は乱れ、お顔は涙で濡れていましたが、不思議と安らかでした」
裸足で駆けつけ、髪を振り乱し、あたりかまわず声を上げて泣く。
身を刺す刃の痛みよりも、絆で結ばれた夫との別れの方が辛いというのですか。
「二人をどうしましたか」
「戸板に乗せ、大津様の屋敷へお返ししました。屋敷の舎人や采女、近所の者たちが総出で迎え入れてくれました」
山辺は大津の后になってまだ一年と経っていないのに、後追いするほどに強い絆で結びついていた。私は大海人様の元に嫁いで三十年暮らしたのに、大海人様が亡くなっても、悲しいと思う気持ちも涙もでてこなかった。まして、後を追うなどとは思ってもみなかった。黄泉の国まで夫を追いかけるほどの想いがうらやましい。
草壁を天皇にするためとはいえ後味の悪い仕事です。
「山辺には子供がいたはずですが」
「粟津皇子様がいらっしゃいます。まだ乳飲み子です」
子供を残して死ぬなんて私にはできない。赤ん坊を残して死んだ山辺の気持ちを、私は永遠に理解できないだろう。
「大津皇子様、山辺皇女様をこの後いかがしましょう」
「謀反の罪で死を下したのですから、皇室として何かすることはできないでしょう」
人麻呂が頭を下げる。
「私が二人を弔うことをお許しください。大津様を無実の罪で死に追いやり、山辺様を巻き込み、粟津様の両親を奪ってしまいました。後味が悪うございます。せめてもの罪滅ぼしに弔ってさし上げたいと思います。身分の低い私ならば、誰も文句は言わないでしょう」
柿本朝臣は私の心を代弁してくれる。
濡れ衣を着せて殺した大津と、後を追った山辺の魂が迷わないようにしてやりたい。
「よろしいでしょう。柿本朝臣に任せます。手厚く葬ってやってください」
不比等が頭を下げて言う。
「捕らえた者たちの処分はいかがいたしましょうか。大津様を厳罰にしましたので他の者たちも相応の処分が必要と考えます」
もう人を殺したくはない。大津はもともと無実。親しかったからというだけで捕らえた者たちも無実。謀反の罪で捕らえたのだから罰しなくてはならないが、私はこれ以上罪を重ねたくない。
「他の者は帰してください」
「謀反の罪で捕らえていますので、何らかの処分を行わなければ示しがつきませんが」
「大津に吹き込んでいた僧の道作と行心を
「二人の処分だけでよろしいでしょうか」
「壬申の乱の後で、大海人様は寛大なご処置をなさいました。私も大海人様にならいます」
無実の者たちを罰することはできません。
二人も殺して、これ以上人を殺したくはない。
藤原朝臣と柿本朝臣の顔が明るくなったのは気のせいだろうか。
讃良は目をつむり、ゆっくりと息を吐き出す。
手にしていた木簡を置いたとき、草壁皇子が足音を鳴らして広間に入ってきた。
不比等と人麻呂は体の向きを変えて両手をつき頭を下げる。
「お母様が大津を殺したのですね」
讃良をにらみつける草壁の大声が広間に響く。
「大津は殺されなければならないことをしたのですか」
草壁の後ろについてきていた、志斐が袖を引っ張って「皇子様、言い過ぎでございます」と諫めるが、草壁は大声で続ける。
「無実の大津を陥れたのは、お母様でしょう。大津はいい奴でした。頭が良くて馬が上手で、いつも笑っていた。小さい頃から一緒に育って、一緒に遊んできた。自分の大切な弟をお母様は殺した」
「それは……」
「大津が謀反を企てたというのは嘘でしょう。お母様が流した噂でしょう。答えてください」
草壁の迫力が広間の空気を吹き飛ばす。
「大津は、密かに伊勢へ行きました……」
讃良の小さい声は途切れていく。
「伊勢へ行ったことが罪なのですか」
「……壬申の乱の時のように……」
「謀反の証拠にはならないでしょう。大津を取り調べもしないで殺してしまったのは、調べても何も出ないことを知っていたからでしょう」
讃良は下を向く。
「僧の行心や道作が大津をそそのかして兵を挙げようと……」
「嘘です! 大津が兵を挙げるなどという馬鹿なことをするはずがありません。大津は本当にいい奴で。みんなに好かれていた」
「……」
草壁は小さい頃から怒ったことがないのに、顔を真っ赤にして私をにらみつけ、大声を上げている。
「何か言ってください。お母様!」
「私は、草壁を天皇にしようと……」
「お母様は大きな罪を犯した。無実の大津を殺した。お母様は汚い」
「皇子様。言い過ぎでございます。皇后様は皇子様のことを考えて……」
「自分は弟を殺してまでも天皇になりたくありません」
声を出すことができない。
私の後を追っかけてばかりいた草壁が、私に対して怒っている。私の言いつけを笑って守っていた草壁が、私に逆らっている。私がいなければ何もできなかった草壁が、大津の変の企みについて知っている。
火皿の炎に合わせて草壁の影が大きく揺れる。
「自分は大津を殺したお母様を許しません」
草壁のためにやったことなのに、草壁は許さないという。
「お母様は汚い。もう自分のお母様とは思いません。自分は天皇などにならない!」
志斐が「皇子様はお部屋で」と取りなしながら、草壁を連れて行った。
私の草壁が、私から離れてゆく。
讃良は手を伸ばすが、草壁の背中は遠い。
広間から怒りの気がなくなり、闇と冷たい空気だけが残った。
草壁が怒って出て行った。私を汚いと罵った。私を母と思わないと言う……
私も、お父様が無実の有間を陥れて殺したときに、汚いと罵った。今度は私が罵られている。大津を殺すと決めたときに、私が悪く言われることは覚悟した。群臣たちの陰口や悪評ならば耐えることができるが、草壁の怒りは辛すぎる。
『お母様を許さない』という言葉が繰り返し聞こえてくる。良かれと思ってやっていることなのに、草壁に嫌われてしまった。
遠くから鹿の寂しそうな鳴き声が聞こえてきた。火皿に油が残り少ないのか音を立て始める。
大津を殺さずに遠国へ流せば、良心にさいなまれることも、草壁に罵られることもなかったのかもしれない。
柿本朝臣や藤原朝臣は何か言って欲しい。
「皇子様は青年らしい高潔さをお持ちです。いずれ怒りも収まりましょう。皇后様のお気持ちを分かってくださると思います」
柿本朝臣の言葉は慰めにはならない。
「私は大きな間違いを……」
不比等が身を正して讃良の言葉を遮る。
「起こしたことについて後悔しても先に進めません。亡くなった大津様が生き返ることもありません。我々は草壁様を天皇様にするために動いてきました。天皇様の殯の儀が終わりしだい草壁様に即位していただきたく思います」
「藤原朝臣の言うとおり、草壁を即位させたいのですが……」
讃良は言葉を継ぐことができない。
「草壁様も即位なされば考えが変わります。即位の儀を準備することをお許しください」
「草壁は即位しないと言っていました」
讃良の声は、火皿で揺れる炎よりも弱々しい。
「皇后様は、高市皇子様に位を譲るおつもりですか」
「高市を即位させるつもりはありません。藤原朝臣は私を責めないで欲しい」
「皇位を空けておけば良からぬ輩が企てを始めます。草壁皇子様の即位が叶わねば、お怒りが解けるまで皇后様が天皇様に就いてください」
「私が天皇に」
「
大海人様は「天皇」に「すめらみこと」という和訓をつけました。「すめらみこと」とは澄んで穢れがないという意味です。大津を殺して汚れた私の役職ではありません。
「藤原殿が言うとおり、皇位を空けることはよろしくないと思いますが、大津様を殺したあとに皇后様が天皇様に即位されたら、草壁様は、皇后様の欲得で大津様を殺したと考え、ますますお怒りになるのではないでしょうか。草壁様を説得して即位していただく道を探りましょう」
柿本朝臣の言うとおり、これ以上草壁に嫌われたくない。
「大津を殺し、草壁に嫌われ、私はいったい何をしているのでしょうか」
讃良の言葉が闇に消えると、沈黙だけが広間を支配する。
燭が消えたので、人麻呂が油を注ぎ火を灯した。
「
「称制…… お父様は七年続けた。七年もあれば草壁も何とか……」
「藤原朝臣の案に従いましょう」
無実の大津を殺したという後ろめたさに加えて、草壁に嫌われた。自分が天皇の代わりとして、日本の頂点に立ち国を治めることになっても、ため息しか出ない。
私は天皇などになりたくない。草壁こそが天皇にふさわしい。
草壁が天皇にならなければ、私が生きてきた意味がない。
「皇后様のお許しを得ましたので、高市皇子様、丹比朝臣様などに話をしてきます」
二人は挨拶をして大広間を出て行く。
私は何をしたのか。何がしたかったのか。
讃良の問いに答えるものはいない。
火皿の炎が消えると、再び闇が降りてきて、冬の冷たい空気が讃良の体を包み込んだ。
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