吉野の盟約

 六七九年五月六日、大海人天皇は、皇族、群臣、百官を引き連れて吉野宮よしののみやに巡幸した。

 明けの明星は西の山に隠れようとし、白み始めた空を支えるように吉野の山に大木が立ち上がり、清浄な空気は新緑のさわやかな香りを乗せ、吉野川は軽快な音を奏でて透明な水を流している。草々は柔らかい葉を朝露に濡らし、ときおり気の早い山鳥が静寂を破り声を上げる。吉野の山川には、誓約を見届けるために天神あまつかみ国神くにつかみが降りてきているようだ。

 西側の山腹に天照大神を祭り、その下に真新しい白木の露台を設けられた。

 大海人を先頭に、讃良と盛装した皇子が露台に続く階段をゆっくりと上る。

 朝霧が露台に通じる階段を隠し、神聖な誓約の場所を、俗世の地上と切り離し、俗世の穢れを禊いでくれる。

 群臣と百官は露台からはるか下の吉野川の川原や街道沿いに整列している。

 露台に上った大海人と讃良は、天照大神の祭壇を背にした椅子に並んで腰掛け、皇子は下座にあぐらをかいて座った。

 大海人天皇は、自身の子息である草壁、大津、高市、河嶋の他、葛城大王の子息で同年代の忍壁おさかべ芝基しきも誓約の場に呼んだ。

 儀式の始めを告げるように、雉が「ギャー」と鋭い声を上げた。

「朕は本日、千年の後まで継承で争うことのないよう、お前たちと共に盟約したいと考えるが、お前たちの考えは如何に」

 皇子たちは両手をついて頭を下げた。

 讃良は頭を下げた皇子たちを眺める。

 高市は二六歳で壬申の乱の功績もあるから、誰よりも大人びて堂々としている。しかし、衣の色が良くない。深紫は高貴な色かもしれないが、夏の吉野には合っていない。紅葉の吉野であれば良かったのに。

 河嶋の朱色や芝基の黄色の衣は問題外だ。若いから着られる色かもしれないが神聖な舞台にはふさわしくない。

 忍壁は生来の落ち着きのなさが人間を小さく見せている。そして、萌葱色だが、残念なことに色目がぼけている。

 大津の萌葱色は鮮やかな色目で昼間ならば良かったが、薄暗いうちは周りに溶けて輪郭がはっきりしない。私が選んでやった衣ではなく、自分が好きな色の衣を着たことが敗因です。

 やはり草壁の薄青色の衣が他の子供たちに比べて映えている。青年らしい爽やかさが良い。きょろきょろせずに堂々と座っている様子にも将来性を感じさせます。大海人様の即位式のときには、あどけなさが残っていましたが、立派な大人になりました。

 高市は母親が胸形君の娘だから大海人様の後を継ぐことができない。河嶋、忍壁、芝基の母親もも分が低いから皇位継承権はない。大海人様の後を継げるとしたら、草壁と姉様の子供の大津のみ。草壁の方が大津よりも年上だから順番は草壁が上です。

 六人を見れば草壁が大海人様の第一皇子であることが誰の目にも明らかです。

 あと十年たてば、即位する草壁を見ることができる。群臣だけではなく、皇子たちも、誰が大海人様の後継か理解したでしょう。

「草壁。朕の継嗣として最初にお前の考えを聞く」

 大海人様に「継嗣」と言わせた!。大海人様は子供たちと百官に向けて、草壁が後継であると宣言されたのです。

 草壁は顔を上げて答える。

天神あまつかみ国神くにつかみの御前で、天皇様の問いにお答えいたします」

 東の山から太陽が顔を出すと急に明るくなり、朝霧が散って、天上界と下界がつながる。草壁の曇りのない声が吉野の山に響いてゆく。

「我ら兄弟、長幼合わせて十余人は、それぞれに母を異にしていますが、みな天皇様の血を引いています。もとより、相争うつもりはございませんが、本日、天皇様よりいただきましたお言葉に従い、共に助け合って争わないことを、改めて誓います。我ら兄弟は、千年の後まで国を繁栄させる基となります。もし本日の誓いに背くならば、天神によって命は絶たれ、国神によって子孫は絶えるでしょう。我らは吉野での盟約を終生忘れず実行いたします」

 草壁が頭を下げるのに合わせて、残りの五人の皇子たちも両手をついて頭を下げた。

 大海人様も大変満足されている様子。今日のために新調した錦の衣と冠がお日様に当たって輝いて見える。天神、国神にも草壁の勇姿を照覧いただいた。

 深呼吸をすると、清らかな空気が胸に入ってくる。

 吉野はいつでもすがすがしい。

 泰然とした山々に見守られ、清い流れの音が静寂を創り、新鮮な空気が身を清め、朝日が祝福する。感動的な誓約の儀式なのです。

 大津、高市と異口同音に誓約をしてゆく。

 芝基の誓約が終わると、大海人は立ち上がった。

「朕の子供たちよ。みなこちらに来い」

 六人は大海人の元に寄って立て膝になって頭を下げた。

「朕の子供たちよ。お前たちが神聖な吉野で、互いに争わないと誓ってくれたことに、朕はいたく感じ入った。朕とともに国創りに励んで欲しい。お前たちは、それぞれに母を異にしているが、みな朕の子供である。朕はお前たちを同じ母から生まれた兄弟であるとして等しく扱おう。天神よ朕が子供たちを御照覧あれ。朕が子供たちの行く末を守り給え」

 讃良は慌てて大海人の顔を見た。

 大海人様は、何をおっしゃるのか。並ぶ六人を見て分かるように、草壁が一番なのです。皇子の順位を明らかにして争いの元をなすることが誓約の目的なのに、六人の子供を等しく扱うなどとは、六人で競争せよと言っているのに等しく、争いの種をまくようなものではないですか。子供たちを等しく扱うなどということがあってはなりません。

 大海人様は草壁を後継であるとおっしゃったのに、舌の根も乾かないうちに言葉を覆すおつもりなのか。

 大海人は草壁に寄ると、衣の襟を開き、草壁を包み込んだ。

「朕が皇子よ」

 大海人は次々に、衣の中に皇子たちを包んでゆく。

 河嶋と芝基は深く頭を下げ男泣きしている。

 なぜ、二人は泣くのか。お父様の子供で浄御原宮では肩身が狭い想いをしている二人も大海人様の子供と同列に扱ってもらえることがうれしいのですか。

 他の四人も神妙な顔をして頭を下げている。

 大海人は席に戻ると讃良に向かった。

「今日の良き日にお前も天神に誓いを立ててくれ」

 私にも六人の皇子を同等に扱えというのですか。私の子供は草壁だけなのです。どうして、他の女の子供を自分の子供と同等に扱わなければならないのですか。草壁は将来天皇になる身で、他の子供とは絶対に同じではないのです。

 大海人は満足そうな顔をして皇子たちをながめ、六人の皇子たちはすすり泣いている。

 なんということですか。感動するところではないのです。

 讃良は椅子から立ち上がった。

「天神、国神に申し上げます。天皇様の御心は広く、皇子をすべて等しく扱えとおっしゃいます。天皇様のお言葉は重いものでありますゆえ、私も天皇様に従い、すべての皇子を私が産んだ皇子として慈しむことを誓います。もし、本日の誓いを破れば、私は天神に討たれ、身は海の底に沈むでしょう」

 讃良は頭を下げた。

 私がなぜ、皇子たちを同じに扱わなければならないのですか。私の子供は草壁だけなのです。草壁は大海人様の第一皇子で、他の皇子たちとは違うのです。草壁だけが天皇になる資格を持っているのです。

「今日はすこぶる気分がよい。歌でも詠んでみよう」

 大海人は、椅子の横に置いていた木笏を取り上げて書き付ける。

き人の 良しとよく見て しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見」

(昔の立派な人が、良い場所だと、よく見て吉野と名付けた。今の立派な皇子たちも吉野を良く見て、立派な人になれ)

 六人の皇子は深く頭を下げた。

 大海人様は、下手な歌で言葉遊びをしている場合ではありません。後継者争いという、ご自身の悪夢を消すために、吉野に来たのではなかったのですか。吉野で草壁を後継ぎにするという宣言をするのではなかったのですか。大海人様は目的を見失って有頂天になっています。

 大海人は、「祝宴を開こう」と言って露台に続く階段を降り始めた。草壁たちも大海人に続いて降りてゆく。

 讃良は最後尾の芝基しきの冠が露台の下に見えなくなったときに立ち上がる。

 空に浮かぶ雲が日差しを遮り、谷から冷たい風が吹き上げてきた。

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